西ノ股遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代・弥生時代 | 新上五島町 |
浜郷遺跡 | 墳墓 | 弥生時代 | 新上五島町 有川郷浜 |
西ノ股遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代・弥生時代 | 新上五島町 |
新上五島町浦桑郷西ノ股・宮ノ脇
海岸埋立工事に伴い1985年県教育委員会によって調査された。縄文土器は前期から後期にかけての資料があり、前期と中期が中心である。石器は多種にわたり、特に漁労に関係する石器が多く、遺跡の立地と併せて興味深い。
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
頭ケ島浜泊遺跡 | 遺物包含地 | 縄文時代・弥生時代 | 新上五島町 |
新上五島町有川郷友住頭ケ島白浜
遺跡は頭ケ島北西部有川湾に面する砂丘に位置する。1995年町営アワビ養殖場建設に伴い、有川町教育委員会が主体となり県教育委員会が緊急調査を行った。基本的な層序は 7層あり、何れも砂層であるが、この内 5層が縄文前期海進後に堆積した風成砂で包含層として確認された。縄文土器は前期から後期初頭を中心とし、1954点が出土した。また、前期轟B系土器に伴い韓国系隆起文土器が出土したことは日韓新石器時代の土器を比較出来る上で重要である。近世人骨は保存状態が極めて良好で、西北九州地区の貴重な近世の標準人骨となりうる資料である。
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
滝河原遺跡 | 墳墓 | 弥生時代 | 新上五島町 |
桐古里遺跡 | 遺物包含地 | 弥生時代 | 新上五島町 |
県内主要遺跡の内容確認調査の一環として2000年に県によって調査された。遺跡の基本土層は 2層で表土下が地山となる。土坑は長軸50cm、深さ23cmの不定形の遺構で、中から炭化物、獣骨、土器片、黒曜石片、磨製石斧などが出土している。時期的には弥生中期と判断されるが性格は不明である。小穴は直径15cm程のもので中から弥生土器片が出土している。石器は、石鏃などの狩猟具に加え、石錘や石斧が出土している。海や山に近い自然条件を生かした生産形態を反映したものと考えられている。
祭神
大山祇尊を主祭神に祀る。
歴史
キリシタン神社として
五島藩は安永元年(1772年)以降、 大村藩より約3,000名の百姓を開拓民として迎え入れた。寛政9年(1797年)、桐古里地区には大村藩外海地方黒崎より14名の潜伏キリシタンが移住している。当社はいつのころからかその子孫たちによって祀られ、現在でも例祭などの祭祀に氏子として参加する者のほとんどが、「カクレ」の門徒であるという。また、御神体には『バスチャン様』の御像を祀っていると伝えられる。『バスチャン様』とは16世紀から17世紀に、大村藩外海地方を中心にキリスト教を伝道した日本人伝道師であるが、実在の人物であるか定かではない。なお、この『バスチャン様』が残した数々のものの中に、「バスチャンの日繰り」がある。「バスチャンの日繰り」とは、1634年の太陰暦によるカトリックの教会暦であり、外海、五島の潜伏キリシタンはこの日繰りをもとに、「カクレ」の年間行事を今日まで維持している。
日島の石塔群 | 墳墓 | 中世(14世紀~15世紀) | 新上五島町 |
日島郷字曲 12番地及び字釜崎281番地
15世紀の朝鮮の書『海東諸国紀』には、日島の太守である藤原盛(ふじわらさかり)という人物が対馬宗家宗貞国の斡旋で1469年に朝鮮国に来朝したとある。朝鮮貿易を行っていたものであろう。石塔群はリアス式の海岸が連なる若松瀬戸の奥部に築かれている。復元した石塔の数は宝篋印塔 2基五輪塔18、板碑15基であるが、本来の数は不明である。石塔は14世紀頃関西で製作されたものをであるが、その運搬したのはいわゆる倭寇である可能性が高い。また、石塔は花崗岩(かこうがん)と安山岩系凝灰岩(ぎょうかいがん)で何れも島外産である。
主な遺構 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
主な遺物 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
遺構・遺物の写真 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
Image may be NSFW.
Clik here to view.![]()
Clik here to view.

Image may be NSFW.
Clik here to view.![]()
Clik here to view.

概要
地理
五島列島の若松島の北西約1km沖に位置し、若松島から漁生浦島、有福島と島づたいに橋と防波堤によって繋がっている。小さな島ながら最高点は244m(バンヤノ峠)と高く、島のほとんどが山地である。集落は南の海岸に集中し、外洋に面する北西の海岸は断崖になっている。
歴史
古くから海上交通の要衝であり、遣隋使・遣唐使の寄港地でもあった。室町時代には大陸との貿易船の寄港地であったと考えられ、江戸時代には漁業で繁栄した[2]。過疎化により現在では極端に人口が減少しているが、かつて1956年(昭和31年)までは若松島の西側と漁生浦島、有福島とを行政区域とする日ノ島村の役場が置かれる中心地だった。現在は野生の鹿(ニホンジカ)が多く生息する島として知られる。
交通
前述のとおり若松島と繋がっているので、若松大橋を経由して中通島の奈良尾港や有川港から陸路で通行できる。最近まで道路事情が悪く、若松島からの町営旅客船が通学などの生活の足となっていたが、2004年以降は若松島の若松港から町営の新上五島町スクールバス、2014年以降は西肥自動車の一般路線バスが運行されている。