平安 武士の始まり②(承平・天慶の乱)
知られざる宇和海 日振島 藤原純友財宝伝説の行方
藤原純友の乱
承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936年)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。
しかし最近の研究では、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格が異なっていることが指摘されている。純友が武芸と説得によって鎮圧した海賊は朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。
それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層であり、彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。
つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。
また、純友の父の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったという事実に注目されている。純友はこの元名の代行として現地に派遣されて運京租税の任にあたるうちに富豪層出身の舎人ら海賊勢力と関係を結んだとされている。
天慶2年(939年)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させた。ちょうど、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れた。
朝廷は天慶3年(940年)1月16日小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官に任じるとともに、30日には純友の懐柔をはかり、従五位下を授け、とりあえずは兵力を東国に集中させた。純友はこれを受けたが、両端を持して海賊行為はやめなかった。
2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪っている。この頃、京の各所で放火が頻発し、小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告している。朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れて宮廷の14門に兵を配備して2月22日には藤原慶幸が山城の入り口である山崎に派遣して警備を強化するが、26日には山崎が謎の放火によって焼き払われた。
なお、この一連の事件と純友との関係について純友軍の幹部に前山城掾藤原三辰がいる事や先の藤原子高襲撃事件などから、実は純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけてのいわゆる「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しており、京への直接的脅威と言う点では、極めて深刻な状況であったのではとする見方もある。
2月25日、将門討滅の報告が京にもたらされる。この報に動揺したのか、純友は日振島に船を返した。その影響か6月には大宰府から解状と高麗からの牒が無事に届けられ、7月には左大臣藤原仲平が呉越に対して使者を派遣している。
だが、東国の将門が滅亡したことにより、兵力の西国への集中が可能となったため、朝廷は純友討伐に積極的になった。5月に将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、6月に藤原文元を藤原子高襲撃犯と断定して追討令が出された。これは将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が純友を挑発して彼に対して文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの二者択一を迫るものであった。
8月、純友は400艘で出撃して伊予国、讃岐国を襲って放火。備前国、備後国の兵船100余艘を焼いた。更に長門国を襲撃して官物を略奪した。10月、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れている。11月、周防国の鋳銭司を襲い焼いている。12月、土佐国幡多郡を襲撃。
天慶4年(941年)2月、純友軍の幹部藤原恒利が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の藤原純乗は、柳川に侵攻するが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れる。
5月、小野好古率いる官軍が九州に到着。好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、800余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、獄中で没した。
藤原 純友(ふじわら の すみとも、寛平5年(893年)? - 天慶4年6月20日(941年7月21日))は、平安時代中期頃の貴族、海賊。右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の3男[1]。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下[1][2]・伊予掾。
生涯
当初は父の従兄弟である伊予守藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予国に土着する。承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり[4]、伊予(愛媛県)の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力をのばした。
関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下の藤原文元に摂津国須岐駅にて備前・播磨国の介(備前介:藤原子高、播磨介:島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国・8月には讃岐国の国府を、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。
朝廷は純友追討のために追捕使長官:小野好古、次官:源経基、主典:藤原慶幸・大蔵春実による兵を差し向け、天慶4年(941年)5月に博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。純友は子息の藤原重太丸と伊予国へ逃れたが、同年6月に伊予国警固使橘遠保により討たれたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているが、資料が乏しく定かではない。[5]。また、それらは国府側の捏造で、真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方に消息を絶ったともいわれている。
将門の乱がわずか2ヶ月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。
小野好古
事項
小野好古(菊池容斎画) | |
平安時代前期 - 中期 | |
元慶8年(884年) | |
康保5年2月14日(968年3月20日) | |
従三位参議 | |
醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇 | |
小野氏 | |
小野葛絃 | |
好古、道風 | |
永樹、千古、大蔵春実室 | |
一説には小野小町の従弟 |
小野 好古(おの の よしふる、884年(元慶8年) - 968年3月20日(康保5年2月14日))は平安時代中期の公卿。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。弟に三蹟の一人小野道風がいる。異名は「野大弐」。官位は従三位・参議。
経歴
939年(天慶2年)の天慶の乱(藤原純友の乱)鎮圧の追捕山陽南海両道凶賊使長官として九州下向。追捕使判官(第3等官)藤原慶幸、主典(第4等官)大蔵春実等と共に、大宰府を襲撃した藤原純友軍を博多津にて撃退する。
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関東で平将門の乱が起こっていた頃…
瀬戸内海では海賊被害が続いていました。海賊の多くは租税や労役を逃れた農民が、船をうばって海賊になったものでした。
「なりゆきで海賊になんかなっちまったけどよう。大丈夫かなァ」
「安心しろ。なにしろ俺たちの大将の純友さまは、
藤原氏でも一番えらい、北家のご出身だぞ」
「安心しろ。なにしろ俺たちの大将の純友さまは、
藤原氏でも一番えらい、北家のご出身だぞ」
藤原純友
藤原純友は藤原氏の中でももっとも栄えた藤原北家(不比等の次男藤原房前を祖とする)の血筋です。しかし早くに父を失い地方官として生きることを余儀無くされます。
純友は四国伊予に伊予掾(いよのじょう)として赴任し海賊を討伐する任にあたります。
任期が切れた後も純友はそのまま伊予に住みつきますが、いつしか日振島(ひぶりしま)を中心に1000艘の舟を率いて略奪行為を働くようになっていました。
紀淑人(きのよしひと)の懐柔
承平6年、朝廷から派遣された伊予守紀淑人(いよのかみ きのよしひと)は、たちまちに瀬戸内海の海賊を鎮圧します。
「お前たちか瀬戸内の海を荒らしまわっていたのは」
「何とぞ、寛大な御処置を…」
「ふむ…ロクに土地も与えられず、まともな衣類も着れないでは
心がすさむのも無理からぬこと。お前たちに土地と衣類を与えよう。
もう一度まじめにやってみる気はあるか?」
「は、ははーっ」
「何とぞ、寛大な御処置を…」
「ふむ…ロクに土地も与えられず、まともな衣類も着れないでは
心がすさむのも無理からぬこと。お前たちに土地と衣類を与えよう。
もう一度まじめにやってみる気はあるか?」
「は、ははーっ」
天慶の乱
紀淑人の寛大な処置に、藤原純友もいったん矛を収めましたが…
「やはり俺には農民など性にあわん!!」
「ま…待て純友!」
天慶2年(939年)藤原純友は紀淑人の制止を振り切り、ふたたび反乱を起こします。藤原純友の乱(天慶の乱)です。
時を同じくして関東では平将門が常陸国府を襲撃します。将門の噂を聞いて、藤原純友はますます勢いづきます。
「平将門とな。東国にもそのような気概のある男がいるのか。
一度会ってみたいものだ…」
一度会ってみたいものだ…」
藤原純友は将門と呼応するように摂津に侵攻、備前介藤原子高(びぜんのすけ ふじわらのこたか)を襲撃。
「目指すは京ぞ」
そのまま都へ攻め上る勢いでした。
朝廷では関白藤原忠平以下、大騒ぎになっていました。
「西国の純友と関東の将門が手を結ぶようなことになったら、
京都は一たまりもありません」
京都は一たまりもありません」
「うぬぬ…どうすればよいのじゃ」
寺々に読経を行わせ賊徒の鎮圧を祈らせましたが、そんなことではどうにもなりませんでした。
大宰府炎上
翌天慶3年、朝廷は小野好古(百人一首に歌を採られている小野篁の孫)を山陽道追捕使に任じる一方、藤原純友に従五位の官位を与えます。
「ふん。この純友を官位でつろうというのか。安く見られたものだ」
純友には官位による懐柔は通用しませんでした。淡路、讃岐、伊予、備前、備後、阿波、備中と次々と攻撃します。しかし940年関東で平将門が破られると関東方面の心配がなくなった朝廷は、すぐさま小野好古・源経基らを瀬戸内海へ派遣します。
小野好古・源経基らは藤原純友の本拠地伊予を攻撃。不意をつかれた藤原純友は海上に難を逃れ、九州大宰府へ向かいます。
かつて天智天皇が朝鮮・中国からの守りにために築かせた「水城」とよばれる堀と土塁からなる大宰府の守り。しかし、純友軍の前には何の役にも立ちませんでした。
「燃やせ!皆殺しにしろ!」
純友軍は大宰府になだれ込み放火、略奪を欲しいままにします。しかし小野好古・源経基らの船団に博多湾の海戦で敗れ、純友軍はその船団の大半を失います。
純友の最期
「くっ…今は退くのだ。ふたたび立ち上がる、その日のために」
しかし、再起の日はありませんでした。純友は小舟に乗って伊予に逃れましたが、6月20日警護士橘遠保によって子息・重太丸(しげたまろ)とともに捕えられ、斬られます。残党も討ち取られました。
これら承平・天慶年間(931-947)に起こった平将門・藤原純友による反乱をあわせて承平・天慶の乱と言っています。
日振島
地理
島の形は北西から南東に細長く延びており、島の北には属島の沖の島、竹ヶ島(いずれも無人島)、西には横島が隣接、さらに南方約5kmには御五神島があるが、他の有人島とは群島を形成していない。また、島全体が山の形をしており、平地は少なく、切り立った崖が多い。特に西側海岸は懸崖が続く。
地名(島名)の由来
歴史
- 936年(承平6年) - この頃から藤原純友が活動を始める
- 939年(天慶2年) - 藤原純友挙兵
- 1587年1月(天正14年12月)- 九州の豊後国で行われた戸次川の戦いで敗退した土佐国主長宗我部元親一行が潜伏。
- 江戸時代には宇和島藩の領地(庄屋は清家氏が代々務め、隆盛を誇り「島大名」とも呼ばれた)
- 江戸時代から昭和時代にかけてイワシの曳網漁が続いた。
- 江戸時代末期から明治時代にかけて、水ノ子島の領有をめぐり宇和島藩と佐伯藩とで紛争があった。
- 1889年(明治22年) - 北宇和郡日振島村となる
- 昭和初期 - 困窮を極める
- 1949年(昭和24年) - デラ台風によりイワシ漁船団7統が遭難、漁民100名余が命を落とす。漁民が経験と勘をもとに、発せられていた気象特報を無視する形で出漁したのが大惨事となった原因とされている。尚、気象台が進路変更の特報を出したのは出漁後であった。
- 1949年(昭和24年) - ねずみ騒動始まる(1961年まで続く)
- 1951年(昭和26年) - 明海部落の大火(役場が焼け戸籍喪失、旧庄屋屋敷も焼ける)
- 1958年(昭和33年) - 4村との合併により