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宇和島の歴史

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宇和島藩

   
宇和島城天守
竹輪笹に阿吽の向かい雀の宇和島紋
宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた。藩庁は宇和島城に置かれた。


前史: 江戸時代以前の宇和島

海賊の藤原純友
宇和の領主となった藤堂高虎

 宇和島湾の西方約28kmの沖合に日振島と呼ばれる島があるが、平安時代海賊の巣窟であり、藤原純友の乱では純友配下の海賊が根拠地としていた[1]。もともと純友は京都で権勢を振るっていた藤原北家の出身で[1]藤原冬嗣の曾孫良範の子とされる(別説では伊予の在地豪族高橋氏出身とも)[2]
 純友は中央で権勢を握れず、伊予の国司として赴任し、最初は海賊追討と鎮撫で一定の功績を立てて都に戻ることを許されたが、海賊行為が再燃したため紀淑人と共に海賊鎮撫のために伊予に赴いた[2]。ところが天慶2年(939年)秋、純友は自ら海賊活動を開始した[2]。純友は備前介藤原子高の鼻を削ぎ、妻を奪い、子を殺すなど横暴を極めた[3]。純友は、京都で出世コースから外れた自分と同じ境遇に置かれた中級官人層を味方に引き入れて、西国に一大勢力を形成した[3]

 当時、関東では平将門が反乱を起こしていたが、将門と純友は共同謀議をしており、将門と共に京都を制圧した時には関白になる計画を描いていたという[3][4]。これは異説も多いが、当時東国の反乱鎮圧にも追われていた朝廷は純友懐柔策を行い[3]、純友は従五位下に叙せられた[5]
 だが純友は備中淡路で海賊行為を行い武器などを強奪した[5]。しかし将門が平貞盛藤原秀郷により討たれたため[5]、朝廷は西国に軍勢を向けることが可能になり、次第に純友は追い詰められていく[6]天慶4年(941年)5月、純友は大宰府を攻めて占領したが、小野好古率いる朝廷軍の追討を受けて撃破され、純友は伊予に逃亡したが、6月に橘遠保に捕縛されて息子の重太丸と共に斬殺され、純友の乱は平定された[6]

 治承・寿永の乱(源平合戦)時には平氏追討で活躍した戦功により、源義経が朝廷より伊予守に任命されている[7]
 室町時代になると室町幕府より宇和郡は藤原北家傍流の伊予西園寺氏公経が知行国守となる[8]。戦国時代になると、大内義隆毛利元就大友宗麟土佐一条氏長宗我部氏など周辺諸大名により宇和島地方は侵略を受け、西園寺氏はこれらの勢力と敵対と同盟を繰り返して存続した[8]長宗我部元親の四国制覇の際、西園寺公広は宇和島で抵抗したが敗れて降伏する。その直後、豊臣秀吉四国攻めにより元親は降伏して土佐一国を安堵され、伊予は四国平定で功績があった小早川隆景の領土となり、南伊予支配は隆景の養子で異母弟の秀包に任され、家臣の持田右京が実際の支配を担当した[9]。隆景は九州征伐でも戦功を立て、そのために筑前筑後に新たな領土を与えられて移封となり、同じく九州征伐で戦功を立てた秀吉の家臣戸田勝隆が伊予大洲10万石(実際は7万石)の領主となった[9]。ところが戸田は隆景と違い苛酷な統治を行い、元領主の西園寺公広や土居・観修寺・法華津ら西園寺旧臣をことごとく追放、後に公広を謀殺した[10]
 戸田は合戦には強いが、殺人を平気で行う狂人だったとされ[10]、その統治では一揆がたびたび起きているが、戸田はこれを鎮圧すると反徒の大量虐殺を行ったり、板島(宇和島)城下で殺人・強奪・強姦を行ったりしたという(ただし『清良記』による脚色説も根強い。また戸田暴君説を唱えているのは司馬遼太郎である)[10]。ただし異説もあり、日振島の年寄に対して年貢を免除し、一揆鎮圧後に旧城主に懐柔策をしていること、荒地の開発や紅花の栽培奨励とその買上を行ったりと、戸田なりに民政の安定と殖産振興に尽力していた[11]。戸田は秀吉の朝鮮出兵が始まると、福島正則の副将格として出兵したが、この際に宇和島地方の社寺の銘木・霊木まで伐採して船材としたということから、暴君として非難されている[12]文禄の役では講和交渉を務め、帰国中に巨済島で発病して文禄3年(1595年)10月に狂死し、嗣子がなく戸田家は断絶した[12]

 戸田家が断絶した後、宇和郡7万石の領主として秀吉の家臣藤堂高虎が入った[13]。高虎は6年を費やして板島(宇和島)城築城工事を行っている[13]慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで高虎は東軍(徳川方)として参戦し、その功績により戦後、徳川家康より伊予今治藩20万石に加増移封され、板島(宇和島)には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた[14]
 ところで関ヶ原の直前、宇和郡松葉(現在の西予市宇和町)の土豪三瀬六兵衛毛利輝元と通じて松葉騒動という反乱を起こしたが、高虎は鎮圧して支配体制を固めた[14]。高虎は家康の下で順調に出世を遂げ、慶長13年(1608年)に伊勢津藩22万石の藩主として加増移封された[14]



歴史

(※ 合併して新市になる以前の吉田町三間町津島町の出来事については、それぞれのページを参照。)

市制以前

市制発足から新市まで


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