徳之島で富山丸慰霊祭 大分の遺族ら「体動く限り続けたい」
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)、鹿児島県・徳之島沖を輸送船「富山丸」で移動中、米潜水艦の魚雷攻撃を受けて犠牲となった将兵ら約3700人の慰霊祭が6月末、徳之島町で営まれた。全国遺族会連合会主催の慰霊祭は今回で終了したが、大分県の遺族らは「体が動く限り慰霊を続けたい」と話している。(柿本高志)
富山丸は大分、鹿児島、熊本、宮崎各県の兵士を主体にした独立混成44旅団、四国の45旅団の兵士ら約4300人を乗せ、鹿児島港を出港。沖縄に向かっていた44年6月29日、数発の魚雷を受けた。積んでいた大量のガソリンに引火したことも加わり、大惨事になった。大分県の約440人も犠牲になった。
64年、生き残った元兵士が徳之島町に慰霊塔を建てたことをきっかけに、連合会が結成され、毎年、慰霊碑前での式典と海上慰霊祭が行われてきた。しかし、遺族の高齢化を受け、50回の節目となった今回限りで連合会主催の慰霊祭をやめることになった。連合会は10月に解散する。
大分県遺族会の羽立(はだて)征雄会長(72)(中津市定留)は連合会代表理事も務める。父親の時治さんは36歳の時に召集され、直後に富山丸に乗船し、帰らぬ人となった。当時3歳だった羽立さんに、ほとんど父親の記憶はない。白い布に包まれた木箱には、遺骨や遺品はなく、サンゴのかけらと砂が入っていたという。
最後の慰霊祭には、県内から40人が参列。佐伯市宇目の小野新さん(70)は祭壇に献花しながら、「お父さん、やっと会いに来たよ。子供3人、孫3人、みんな元気で暮らしています」と語りかけた。
羽立さんは「来年からは、徳之島町が慰霊祭を続けてくれる。現在の平和が、多くの人の犠牲によって得られたことを忘れず、後世に語り継いでいきたい」と話していた。
(2013年8月21日 読売新聞)