歴史
社伝では、欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから「日本最古の八幡宮」を称している。実際には、もっと後の八幡信仰が盛んになった時代に建立されたものとみられる。永承6年(1051年)、元の鎮座地から1丁(約100m)ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われた。
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
文化財
国宝
- 塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうみこし)(鎌倉時代)
- 金銅透彫鞍金具(古墳時代)
重要文化財
- 紙本著色神功皇后縁起2巻(室町時代)
- 絹本著色誉田宗廟縁起3巻(室町時代)
- 舞楽面11面(二ノ舞2、散手1、貴徳1、天童1、陵王1、還城楽1、退走徳1、陵王1、納曽利2)附:退走徳4面(鎌倉 - 室町時代)
- 松皮菱螺鈿鏡鞍(鏡地板共)附:杏葉轡(鎌倉時代)
- 剣 銘真守(鎌倉時代)
- 太刀 銘則国(鎌倉時代)
- 薙刀 無銘大和物・鉄蛭巻薙刀拵(鎌倉時代)
- 伏見天皇宸翰後撰和歌集 巻第廿(鎌倉時代)
八幡神の歴史
八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[4]。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[4]。
「八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』第22帖玉鬘の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。
「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[4]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[4]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[4]。
748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。
しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。[12]
「辛嶋勝姓系図」によると素戔嗚尊(スサノオ)とその息子の五十猛神の子孫であり、天照大神とは親戚にあたる。素戔嗚尊(スサノオ)は日本で生まれてその後に中国や朝鮮に追放されて日本に帰ってきた。さらに三韓征伐前から弁韓などは日本の領土だったことを考えると矛盾はしない。素戔嗚尊(スサノオの子孫である大国主命などが一緒に信仰されている事があるのはそういうわけである。
また新羅は古くは辰韓もしくは秦韓と呼ばれ、辰韓人は中国大陸から朝鮮半島南東部に移住してきたとの史書の記述もあるため(「魏書辰韓伝」『三国志』(3世紀後半)、「辰韓伝」『後漢書』(432年)、「新羅伝」『北史』(659年))、中国から朝鮮半島を経由してきた。その後に彼らは秦氏の祖先の弓月君らと共に日本に難民受け入れを申請し、数多くの秦氏が応神天皇の時期に日本の保護の元で日本に帰化している。