日向市 | 富高町古墳 | 東臼杵郡富高町 大字富高 大字日知屋 | 円墳 | 9基 | 昭8.12.5告示512で指定 昭60.1.4教委告示7で一部解除(円墳1基) 平18.3.23教委告示4で一部解除(円墳1基) |
横穴 | 2〃 | ||||
前方後円墳 | 1〃 | ||||
古墳址 | 1〃 | ||||
細島町古墳 | 東臼杵郡細島町 大字細島 | 円墳 | 1基 | 昭9.4.17告示213で指定 | |
幕末勤王家海賀宮門外二士の墓 | 東臼杵郡細島町 字平場 | 〃 | |||
有栖川征討総督宮殿下御本営遺蹟 | 東臼杵郡細島町 字地蔵町 | 昭11.7.17告示403で指定 | |||
美々津町古墳 | 児湯郡美々津町 大字高松 | 円墳 | 2基 | 昭12.7.2告示386で指定 昭60.1.4教委告示7で一部解除(円墳2基) | |
僧日要の基 | 東臼杵郡富島町 大字細島字八幡ノ上 | 昭14.1.27告示32で指定 | |||
鈴鏡塚古墳 | 日向市大字富高 字草場6800番地40 | 641.06㎡ | 平10.3.26教委告示2で指定 平23.11.17教委告示8で一部解除 |
あ行
■栖川征討総督宮殿下御本営跡・・・宮崎県日向市細島
■大御神社(細島)・・・日向市細島
■大御神社・・・日向市大字日知屋1番
■老谷の六地蔵供養塔・・・日向市東郷町山陰老谷
■笹野の大師堂・・・日向市笹野
■塩見城址・・・日向市大字塩見字古城
■成願寺(曹洞宗)・・・日向市東郷町山陰 12-1
■西南戦争激戦地跡(美々津)・・・日向市美々津
■関本勘兵衛家住宅・・・日向市細島
■僧日要の墓・・・日向市大字細島
■立磐神社・・・日向市美々津上町
■坪谷番所跡・・・宮崎県日向市東郷町坪谷
■天狗日暮・・・日向市美々津町幸脇
■富高海軍特攻隊基地跡・・・日向市大字財光寺1194-3協和病院内
■富高陣屋跡・・・宮崎県日向市南町
県指定文化財
史跡 富高古墳(1・2、4~14号墳)
所在地 / 日向市大字富高・日知屋
指定年月日 / 昭和8年12月5日
指定年月日 / 昭和8年12月5日
富高古墳は、前方後円墳1基、円墳10基、横穴墓2基からなる。
このうち、古城ヶ鼻に所在する唯一の前方後円墳(2号墳)は、全長80メートル、後円部の直径20メートルを測るもので、大正初年に四神四獣鏡をはじめとする多数の遺物が出土したところとして知られている。平面形状が、いわゆる柄鏡式に近く、舌状丘陵の先端部を占地していることなどから、かなり古いタイプの古墳と見られているが、詳細な築造時期は明らかでなく、4世紀末~5世紀初頭頃のものと考えられている。
一方、伊勢ケ浜の入江に面した米ノ山東麓の縁辺部には、横穴式石室を用いた円墳(4~7号墳)が群在している。これらの円墳はかつて鳥居竜蔵氏が調査され、6世紀後半に比定される須恵器や鉄鈷などが出土している。
なお西谷の丘陵に穿れた横穴墓(13・14号墳)は、荒廃が著しいものの平成11年度の確認調査では、14号墳の前庭部が検出されており、かつて須恵器や鉄刃、それに人骨などが出土したと伝えられている。
このうち、古城ヶ鼻に所在する唯一の前方後円墳(2号墳)は、全長80メートル、後円部の直径20メートルを測るもので、大正初年に四神四獣鏡をはじめとする多数の遺物が出土したところとして知られている。平面形状が、いわゆる柄鏡式に近く、舌状丘陵の先端部を占地していることなどから、かなり古いタイプの古墳と見られているが、詳細な築造時期は明らかでなく、4世紀末~5世紀初頭頃のものと考えられている。
一方、伊勢ケ浜の入江に面した米ノ山東麓の縁辺部には、横穴式石室を用いた円墳(4~7号墳)が群在している。これらの円墳はかつて鳥居竜蔵氏が調査され、6世紀後半に比定される須恵器や鉄鈷などが出土している。
なお西谷の丘陵に穿れた横穴墓(13・14号墳)は、荒廃が著しいものの平成11年度の確認調査では、14号墳の前庭部が検出されており、かつて須恵器や鉄刃、それに人骨などが出土したと伝えられている。
日向市 岡遺跡は東に日向灘、西に高森山を望む標高約20~30mの中位段丘状に位置し、旧石器時代から近代にかけてと幅広い時代の遺構・遺物が確認されています。中でも、縄文時代早期の遺構や遺物が最も多く確認されており、遺構は調理施設と考えられている集石遺構14基、炉穴17基、遺物は縄文土器や石鏃などの石器が数多く出土しています。
日向市の向原中尾第2・5・6遺跡について、出土遺物を展示し、調査成果を一般に公開します。
宮崎県埋蔵文化財センターが発掘調査を行い、報告書を新たに刊行した日向市の馬込遺跡について、出土遺物を展示し、調査成果を一般に公開します。
馬込遺跡は東に日向灘を望む、標高約50mの尾根上に位置する遺跡で、東九州自動車道関連の調査として発掘されました。調査の結果、旧石器時代、縄文時代早期、縄文時代晩期、弥生時代後期の遺構・遺物が確認され、特に、縄文時代早期の集石遺構40基を確認し、周辺遺跡と比較してもその数がとても多いことが特色です。
■塩見城
築城時期 明確ではないが、南北朝時代に宇佐八幡宮の神官を出自とする土持氏の築城とする。
1198年源頼朝より日向国地頭を御家人であった工藤祐経を祖とする伊東祐時に与えられる。
1457(長禄元)年の小浪川の戦で土持氏が滅びると、伊東氏のものとなり、族将の右松氏の居城となる。
城主・右松四郎左衛門尉(?~1578)の時に、1977(天正5年)伊東家滅亡し一時島津方に付くが、1578(天正6年)大友宗麟の日向侵攻の際にその先鋒となり耳川の戦いで討死。その後島津支配となり、島津一族の吉利忠澄、忠張が城主となる。
豊臣秀吉の九州仕置で延岡藩領。1615年、一国一城令で廃城となった。
■中山遺跡
塩見城跡に向かう道の右手、標高5~38mの尾根上に位置する。旧石器時代の剥片や古墳時代の須恵器も出土するが、圧倒的に中世時代の陶磁器が多く出土し、同時代の掘立柱建物跡が出土している。城の一部、あるいは屋敷地と考えられている。
昨年度の発掘調査では、13世紀後半から14世紀前半に中国で生産された青白磁の水差し「龍首水注(りゅうしゅすいちゅう)」の破片が出土している。
■大友宗麟(1530~1587)
戦国時代のキリシタン大名として有名。イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであり、その27年後の1578(天正6年)7月にキリスト教の洗礼を受けた。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣した。
■伊東マンショ/祐益(1569~1612)
伊東マンショの母親の血筋が大友宗麟と繋がる。前出の工藤祐経を祖とする。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、ヴァリニャーノ司祭ら同行のもと、大友宗麟の名代として派遣された。
ローマでは、当時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。1590年7月長崎に帰り着いた。
なお、ローマに派遣されていた時に描かれた伊東マンショの肖像画が、ローマ教皇の子孫宅で見つかるという記事が2005年11月29日の朝日新聞に掲載され話題になった。
向原中尾第2・5・6遺跡は東に日向灘、西に尾鈴山を望む標高約130m~170mの丘陵上に点々と位置しています。この三遺跡から、主に旧石器時代~古墳時代の遺物や遺構が出土しています。
特に縄文時代早期の遺構・遺物が最も多く見つかっており、遺構は調理施設と考えられている集石遺構14基、炉穴33基、遺物は縄文土器や多くの種類の石器が出土しています。
特に縄文時代早期の遺構・遺物が最も多く見つかっており、遺構は調理施設と考えられている集石遺構14基、炉穴33基、遺物は縄文土器や多くの種類の石器が出土しています。
宮崎県埋蔵文化財センターが発掘調査を行い、報告書を新たに刊行した日向市の馬込遺跡について、出土遺物を展示し、調査成果を一般に公開します。
馬込遺跡は東に日向灘を望む、標高約50mの尾根上に位置する遺跡で、東九州自動車道関連の調査として発掘されました。調査の結果、旧石器時代、縄文時代早期、縄文時代晩期、弥生時代後期の遺構・遺物が確認され、特に、縄文時代早期の集石遺構40基を確認し、周辺遺跡と比較してもその数がとても多いことが特色です。
資料編『古代・中世・近世』(含棟札・金石文(板碑・五輪塔))
A5判 函入り 上製本 本文880頁 付図(日向市遺跡分布図)頒布価格3,000円
日向市及び日向市周辺の原始・古代・中世・近世の資史料を収録。
また、市内全域の金石分(板碑・五輪塔)、全ての神社の棟札を収録。
古代は日向国や臼杵郡に関する史料、中世は土持・伊東・島津・大友の戦、
日蓮宗の名刹日知屋山本山定善寺に関する史料、 近世は内藤家文書の中から
海防関係・幕府領(天領)の関係、富高陣屋関係資料を収録し、 大きく変化した幕末の様子を知ることが出来る。
神社の棟札では、近世以降の地域の支配者の変遷、神社の新築・改築等が詳細にわかる。
日向市塩見城跡 中山遺跡 国内初の土製キリシタン遺物が出土
宮崎県教委は14日、日向市の塩見城跡の中山遺跡から土製キリシタンの破片2片が見つかったことをと発表した。1点は聖母マリアとみられるベールをかぶった女性の顔の一部が、もう1つにはバラとみられる葉が浮き彫りになっている。戦国時代末期から江戸時代初期の16世紀後半ものとみられる。キリシタン遺物は金属製のメダルや首飾りなどが大分県や長崎県などで出土しているが、宮崎県では初であるし、土製は国内初出土。
遺物は、昨年7月、中心部の3分の1が欠けた状態で出土した。粘土を釜で焼いた瓦質状で、元の大きさは推定で縦約6cm、横約7.2cm、上部にひもを通す穴がある。土の質からみて国内で作られた可能性が高いとする。
同県教委は、欧州の16世紀前半の聖母マリアとみられる女性聖人の絵画を基に描かれている可能性が高いことから、出土品が壁に掛けるなどして信仰の対象にした「プラケット」とみている。
[参考:共同通信、西日本新聞]
遺物は、昨年7月、中心部の3分の1が欠けた状態で出土した。粘土を釜で焼いた瓦質状で、元の大きさは推定で縦約6cm、横約7.2cm、上部にひもを通す穴がある。土の質からみて国内で作られた可能性が高いとする。
同県教委は、欧州の16世紀前半の聖母マリアとみられる女性聖人の絵画を基に描かれている可能性が高いことから、出土品が壁に掛けるなどして信仰の対象にした「プラケット」とみている。
[参考:共同通信、西日本新聞]
■塩見城
築城時期 明確ではないが、南北朝時代に宇佐八幡宮の神官を出自とする土持氏の築城とする。
1198年源頼朝より日向国地頭を御家人であった工藤祐経を祖とする伊東祐時に与えられる。
1457(長禄元)年の小浪川の戦で土持氏が滅びると、伊東氏のものとなり、族将の右松氏の居城となる。
城主・右松四郎左衛門尉(?~1578)の時に、1977(天正5年)伊東家滅亡し一時島津方に付くが、1578(天正6年)大友宗麟の日向侵攻の際にその先鋒となり耳川の戦いで討死。その後島津支配となり、島津一族の吉利忠澄、忠張が城主となる。
豊臣秀吉の九州仕置で延岡藩領。1615年、一国一城令で廃城となった。
■中山遺跡
塩見城跡に向かう道の右手、標高5~38mの尾根上に位置する。旧石器時代の剥片や古墳時代の須恵器も出土するが、圧倒的に中世時代の陶磁器が多く出土し、同時代の掘立柱建物跡が出土している。城の一部、あるいは屋敷地と考えられている。
昨年度の発掘調査では、13世紀後半から14世紀前半に中国で生産された青白磁の水差し「龍首水注(りゅうしゅすいちゅう)」の破片が出土している。
■大友宗麟(1530~1587)
戦国時代のキリシタン大名として有名。イエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであり、その27年後の1578(天正6年)7月にキリスト教の洗礼を受けた。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣した。
■伊東マンショ/祐益(1569~1612)
伊東マンショの母親の血筋が大友宗麟と繋がる。前出の工藤祐経を祖とする。
1582(天正10年)に天正遣欧少年使節では、ヴァリニャーノ司祭ら同行のもと、大友宗麟の名代として派遣された。
ローマでは、当時のローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。1590年7月長崎に帰り着いた。
なお、ローマに派遣されていた時に描かれた伊東マンショの肖像画が、ローマ教皇の子孫宅で見つかるという記事が2005年11月29日の朝日新聞に掲載され話題になった。
■ 後期旧石器時代 前半 約30,000年前
1 位置
日向林B遺跡は新潟県境に接する長野県上水内郡信濃町に所在する。ナウマンゾウ化石が産出することで有名な野尻湖の南約1kmの丘陵裾に位置する。JR信越本線古間駅から遺跡までは徒歩15分程度で、現在発掘地点は上信越自動車道の下となっている。
2 経緯
3 石器群の概要
直径25m~30mの環状ブロック群およびその周辺から9001点の石器が出土した。これらは密な接合関係により高い同時性が証明され、当時の人々が環状のムラを構えていたことがうかがえる。特筆すべきは蛇紋岩類などで作られた磨製36点を含む60点の斧形石器である。日本最多であり大小様々なバリエーションがある。黒曜石を主体とする台形石器も斉一性が高く、国内随一の完成度を持つ。一方、貝殻状刃器と称した加工変形が少ない便宜的な石器は1000点を超え、遺跡内での活動の頻繁さを物語る。
日向林B遺跡の石器は長野県千曲市の長野県立歴史館で見学することができる。
日向林B遺跡の石器は長野県千曲市の長野県立歴史館で見学することができる。
(谷 和隆)
用語 | |
環状ブロック群 | 同時期に形成されたと考えられる環状にめぐる石器の分布群(ブロック群)。および関連する石器分布群。 |
台形石器 | 加工により整形された基部と、鋭い素材縁辺による刃部がある台形の石器。 |
斧形石器 | 蛇紋岩や凝灰岩等を石材とする斧の形をした石器。刃が磨かれているものが多くある。局部磨製石斧とも呼ばれ、後期旧石器時代の前半期に特徴的に存在する。 |
「日向国風土記」(713年)逸文「知鋪郷」
“日向の国の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知鋪の郷。天津彦々火瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲をおしわけて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜晝別かず、人物道を失い、物の色別き難かりき。ここに、土蜘蛛、名を大鉏(おおくわ)・小鉏(をくわ)と曰うもの二人ありて、奏言ししく、『皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ』とまおしき。”
・ これまでこの九州中央山地帯に伝わる稲作籾伝承では、どのように考察しても、北九州に渡来した北方系の水田稲作米とは関わりが見出せなかった。すなわち、この伝承では、米の呪力によって悪霊を払うという稲作農耕儀礼を、天孫ニニギノ尊に教えたのが、大クワ、小クワという農具名を称する土地の古層族であったということから、この古層族の存在をどのように考えたらよいのかが論点となっていた。この点に光を投げかけたのが、熱帯ジャポニカ米の存在と日本への伝来である。
・ 日本人が食べているジャポニカ米のうち、水田稲作による温帯ジャポニカ米のほかに、西南諸島など南島ルートによって、日本本土にもたらされた熱帯ジャポニカ米の存在が明らかになってきた(佐藤洋一郎、『DNAが語る稲作文明』1997年、『稲の来た道』1995年)。そして、この熱帯ジャポニカ米は、温帯ジャポニカによる水田稲作よりも前に日本に到来したとされ、その時期は縄文時代であり、焼畑耕作にも適応できたと説かれている
・ この熱帯ジャポニカ米が西南諸島を経て、日本の本土に渡来するとすれば、必然的に黒潮本流が真っ当にあたる日向地方が最も可能性が高い。 もどる
●日向地方の古墳群 戻る 西都原古墳群( http://miyazaki.daa.jp/saitobaru/ ) オサホ塚 生目古墳群(http://www.pmiyazaki.com/ikime_kohun/)
高千穂とルソンの「棚田」
・ 九州のランドサット衛星画像と、立体的に措かれた宮崎県の傭撤図を見て、かりに現在の宮崎平野のかなりの部分が海であったとすれば、海岸線には複雑な屈曲が生まれ、舟の停泊に適する港湾が、いくつもあったと想像できなくもない。そしてまた、陸路より水路の交通が主であったころの古代人は、後世の人間より遥かに積極的に、舟で航行したとも考えられる。そんなふうに空想の航路を辿って、海岸ぞいに北上して行くと、舟はやがて、北川、祝子川、五ヶ瀬川などの河川が海に注ぐ河口部の延岡に達する。そのうちもっとも大きな五ヶ瀬川に、舟を乗り入れて、流れをどこまでも潮って行けば、その先にもうひとつの「天孫降臨」の伝説の地、高千穂峡が現われるのである。
高千穂は、駅から中心部に向かって歩いて行くと、意外に大きな町である。着いたのは夕方で、付近一帯を歩き回ったのは翌日だが、田圃はほとんどが傾斜地に作られた小さな棚田ばかり---。津田博士は、豊饞な平野がないことを、日向に太古の皇都があったはずのない理由のひとつに挙げられたけれど、しかし、こうした地形が、昔ながらの稲作においては、案外大きな生産力を持つのを、ぼくはある経験で知っている。
・ 棚田が層をなして幾重にもかさなる山峡の地を、高所から俯瞰したとき、すぐにおもい出したのは、フィリピン・ルソン島北部の山岳地帯の奥深い谷間にあるマヨヤオの景色であった。ここ臼杵の高千穂と、そっくりの眺めで、兄が戦死した場所であるマヨヤオヘ、ぼくは三度行ったが、案内してくれた大阪出身のN氏は、昔の邪馬台国というのは、こういうところやったんやないか、という気がするんですよ。 と、嘆息する口調でいった。谷間のゆるやかな傾斜地を、ちょうど地図の等高線状に、折り重なる細長い帯のような棚田(ライス・テラス)が埋め尽くしていて、なかのところどころに、茅葺きに似たニッパ葺きで高床式の小さな家が、点点と散在している。あとで日暮れ時に傭撤して、谷間のあちこちから細い炊ぎの煙が、夕闇のなかに立ち昇っている景色を見たときは、本当にわが国の弥生時代も、こんな風だったのではないか……という気がした。耕して天にいたる。という言葉があるが、まさにそうだ。
・ 谷の底から、棚田を一層ずつ石を組んで作った壁で支えて、稜線が高度千数百㍍にも達する山肌のかなり上まで、段段に積み重ねて行く。下から見上げると、それはまるで壮大な石造の城のようだ。だから、谷底から山の上方まで刻みつけられたライス・テラスを、一望に収められる台地の上にあるバナウエの高級ホテルには、ピラミッドに匹敵する驚異だというので、欧米から観光客がおおぜいやって来る。
・ それほどの大工事を、イフガオ族の住民は、気が遠くなるくらい遥かな昔から、金属製の農具を用いず、ただ一本の木鋤(グルド)だけを振るって、営営と成し遂げてきたのだ。 もどる
・ 「ソのクニ」という地域は、古くから阿蘇山を中心とする地帯(阿蘇山、祖母山)から南霧島山一帯にかけての呼称であり、日向、肥後、大隅の三国に囲まれた山岳地帯周辺に、古く「ソ」という勢力圏が存在していたのではないか?「ソ」の中心地域は、宮崎県の高千穂一帯、それに熊本県阿蘇郡、さらに大分県直入郡地方を含めた地帯と考えられる。
宮崎県教育委員会の古墳調査では、県内に1590基(うち前方後円墳約160基)が現存している。これらの大古墳群は、主として宮崎市を流れる大淀川以北の中央平野部一体に展開しており、主要河川である一つ瀬川、小丸川、大淀川の三河川流域に沿って大群在している(西都原古代文化圏:古代日向王国?)。
・ 西都原古代文化圏内の各古墳群に見られる柄鏡式前方後円墳は四世紀代に比定できる可能性がある。
・ この中央平野部は、古墳時代以前から歴史的な地域であり、西都原から北にかけての平野地帯は日本書紀の景行紀に記されている「子湯県」にあたり、その南の大淀川流域は「諸県」に推定される。
・ 参考: 南九州地方の古墳の編年 もどる
景行天皇と日向 「書紀」の景行天皇13年の条
「悉に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居しますこと、すでに六年なり。是に、其の国に佳人有り。御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」
・ 景行天皇(オシロワケ)の時代は、ほぼ4世紀後半代のころに想定できる。豊国別王が児湯郡に出現した時代は4世紀末頃と推測できる。
・ 『日向国風土記』逸文、韓槵生村の項: 「昔、カサムワケといいける人、韓国に渡りて、この栗をとりて帰りて、植えたり。この故に槵生の村とは云うなり」とある。もしこの人物が実在の人物であれば、「ワケ」の称号を有していることから、豊国別王の時期と同じころとなる。もしかしたら、この「カサムワケ」という人物は、豊国別王の在来的な元の名称かも知れない。 もどる
●景行天皇 熊襲征討路
天皇が日向入りした時、海路によらず、直入県から真直ぐ日向の児湯県地域と推定される高屋宮に到着している。古来、この高千穂-諸塚-東米良-西都の「日向山地古道」は、中世・近世においても、肥後、豊後に通じる山地における唯一の交通路であった。「景行天皇紀」十八年の巡幸の時も、八女、阿蘇から日向の高千穂、米良山地を通過し、児湯県地域に来られている。 もどる