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[転載]日向市細島港には、第35突撃隊が編成されたが、平成の世になり、日向精錬所が大気汚染防止法・廃棄物処理法・土壌汚染対策法の届出をしていないことが分かった&古地図と古写真

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日向市人間魚雷回天の格納壕跡
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戦争の痕跡
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日向市財光寺の戦闘機機銃弾痕

日向市/特攻艇震洋 格納壕

来 歴日向市細島港には、第35突撃隊が編成され、昭和20年4月か5月頃に特攻艇震洋が配属されたと言われている。その後、6月25日に人間魚雷回天が配備されている。

終戦後、国や連合軍総司令部(GHQ)の指令で、昭和20年12月頃から旧日本軍の武装解除が行われ、震洋や回天及びその格納壕は爆破処理された。
震洋は海岸部に格納壕があったため残っていたものと思われるが、浸食等により崩壊し、現在は壕の跡がわずかに残っているのみである。
詳細の問い合わせ先日向市総務課
電 話0982-52-2111
痕跡の所在地日向市大字細島御鉾ヶ浦(字平場) 黒田の家臣


戦争の時代(年表)

 軍事・外交関係国民生活関係
大正15年12月25日
昭和改元
  
昭和2年
(1927年)
徴兵令改め兵役法公布金融恐慌おこる
第1次山東出兵各地で銀行取り付け騒ぎがおこる
昭和3年
(1928年)
済南事件(日本軍が中国国民政府軍と武力衝突)全県に特別高等警察(通称「特高」)設置
満州某重大事件(張作霖爆殺)佐土原銀行ら8行が合同して日向中央銀行を設立する
都城歩兵第23連隊、済南へ出動
昭和4年
(1929年)
田中義一内閣総辞職(満州某重大事件の引責辞職)
県下製糸業同業組合総会で操業時間の短縮を決定する
昭和5年
(1930年)
ロンドン海軍条約調印(統帥権干犯問題おこる)浜口雄幸内閣、金輸出を解禁(金解禁)
旭ベンベルグ絹糸工場が操業を開始
本県の失業状況 人口77万1,000余人に対し、県下2市94町村を通じ874人
昭和6年
(1931年)
柳条湖事件起こる(満州事変、9月18日)若槻礼次郎内閣総辞職
陸軍兵卒等級表廃止(卒を兵に変える)県下全域で地震(西臼杵郡を除く)、宮崎は震度5、死者30人、家屋全壊・破損60戸、石造物倒壊1,060箇所、橋梁5ヶ所の被害
関東軍、満州各地を占領
昭和7年
(1932年)
上海事変勃発
(肉弾三銃士喧伝される)
大阪で国防婦人会発会
(大日本国防婦人会へ発展)
「満州国」建国宣言(3月1日)五・一五事件、犬養首相(78歳)射殺される
満州事変で都城連隊出動満州へ最初の武装移民団416人出発
新県庁舎が竣工する
昭和8年
(1933年)
塘沽停戦協定締結(満州事変終わる)政府、国際連盟脱退を通達(3月27日)
満州出動中の都城連隊が帰還する『小学国語読本』(サクラ読本)使用開始(4月)
県民の献金による献納機命名式が行われる(海軍機は宮崎市、陸軍機は都城市)
昭和9年
(1934年)
満州国帝政実施(皇帝溥儀)東北地区冷害、凶作
満鉄、大連-新京間に特急「あじあ」号の運転開始(11月1日)
都城陸軍飛行場が落成する
昭和10年
(1935年)
梅津・何応欽協定(河北省に関する日本軍の要求、全部承認)青年学校令公布(全国で約1万7,000校)
陸軍特別大演習が始まり、大本営が都城中学校に置かれる第4回国勢調査実施(内地人口6,925万人、外地人口2,844万人)
昭和11年
(1936年)
二・二六事件(東京市に戒厳令布告)広田弘毅内閣、軍部大臣現役武官制度復活
帝国在京軍人会令公布(軍の公的機関となる)県種畜場内に宮崎県役馬利用指導者養成所を併設
日独防共協定調印
大日本傷痍軍人会発会
昭和12年
(1937年)
廬溝橋で日中両軍衝突(日中戦争の発端、7月7日)閣議で国民精神総動員実施要綱決定(8月)
南京占領国民精神総動員実施要綱および実施方法を決定
都城連隊に動員令が下る
昭和13年
(1938年)
徐州作戦始まる国家総動員法公布
武漢三鎮占領灯火管制規則施行
日中戦争における宮崎県内将兵の動員状況・戦病
死者調査で、動員人員1万7,488(陸軍1万4,799、海軍2,689)、馬匹車両(馬9,103、自動車106、車両144)、戦傷者957(陸軍930,海軍27)となる。
白米食廃止を支所長,市長、各学校あてに通牒する
都城に歩兵第72連隊(4月)、歩兵第147連隊(5月)編成
昭和14年
(1939年)
ノモンハン事件警防団令公布
第二次世界大戦始まる(9月1日)映画法公布(脚本事前検閲等を規定)
日中戦争で宮崎県内将兵の動員者数2万3,781(陸軍2万3,487、海軍充員294)、馬匹1万5,407、車両644,自動車358、戦傷死者2,095人(陸軍2,036、海軍59)となる。国民徴用令公布(職業能力申告者の徴用が可能となる)
都城に歩兵第226部隊(9月)編成米穀配給統制法公布
昭和15年
(1940年)
アメリカ、石油・鉄屑輸出を許可制へ国民精神総動員本部、東京市内に「ぜいたくは敵だ」の立看板1,500本を設置
砂糖、マッチ配給統制規則各公布(11月1日 砂糖、マッチの切符制全国実施、米穀の国家管理を強化)
日独伊三国同盟ベルリンで調印八紘之基柱の竣工式(昭和14年9月5日着工)
昭和16年
(1941年)
日ソ中立条約モスクワで調印国民学校令公布(小学校を国民学校と改称)
日米交渉始まる乗用自動車のガソリン使用禁止
アメリカ、ハル・ノートを提示閣議で戦争の名前を「支那事変」を含め「大東亜戦争」とすることを決定
御前会議、対米英蘭開戦を決定(12月1日)新聞統制により日向日日新聞社が設立(1県1紙となる)
米英両国に宣戦詔書
マレー半島上陸、真珠湾攻撃(12月8日)
昭和17年
(1942年)
マニラ占領衣料品総合切符制実施
シンガポールの英軍降伏味噌・醤油の切符配給制実施
ジャワの蘭印軍降伏米軍B25型爆撃機16機、本土(東京、名古屋等)初空襲
ミッドウエー海戦金属回収令により、寺院の仏具・梵鐘等、強制供出命じられる
赤江海軍飛行場の建設に着手「欲しがりません勝つまでは」など、国民決意の標語決まる
昭和18年
(1943年)
ガダルカナル島撤退開始ジャズなどアメリカ・イギリスの楽曲約1,000曲の演奏禁止
アッツ島守備隊玉砕閣議で食糧増産応急対策要綱決定(休閑地を動員、そば、ひえなどを栽培し主食の補給を目指す)
キスカ島撤退明治神宮外苑で出陣学徒壮行会(10月21日)
イタリア、無条件降伏(9月8日)徴兵適齢臨時特例公布施行(19年度は徴兵年齢を1年引き下げ、満19歳とする、12月24日)
アメリカ、カイロ宣言を発表沖縄より第1次引揚者752人になる(本県関係89人)
昭和19年
(1944年)
インパール作戦開始内務省、東京と名古屋に初の建物疎開命令発令
マリアナ沖海戦学童疎開促進要綱決定
サイパン島守備隊玉砕(7月7日)1億国民総武装を決定(竹槍訓練などが始まる)
日本国内への空襲が本格化勤労報国隊として、北九州の炭山に男382人動員
テニアン島守備隊玉砕西南諸島疎開児童第1陣130人が宮崎到着
グアム島守備隊玉砕国民学校児童一人に対し兎3匹の飼育を決定
レイテ沖海戦竹槍の最高販売価格を1本55銭に指示
昭和20年
(1945年)
米英ソ、ヤルタ会談開く国民勤労動員令公布
硫黄島守備隊玉砕東京大空襲、江東地区全滅(3月10日)
米軍沖縄本島に上陸義勇兵役法公布施行
独軍、無条件降伏文書調印(5月7日)県下が米艦載機編隊による初空襲(3月18・19日)
沖縄守備軍の組織的抵抗終わる(6月23日)米軍爆撃機B29による空襲(4月22日)
米英ソ、ポツダム会談開く(7月)広島に原爆投下(8月6日)
ソ連、対日宣戦布告(8月8日)長崎に原爆投下(8月9日)
御前会議、ポツダム宣言受諾を決定(8月14日)正午、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)(8月15日)
連合国軍最高司令官マッカーサー元帥、厚木到着(8月30日)南朝鮮引揚第1船「興安丸」、仙崎港に入港(公式引揚の第1船)(9月2日)
米艦ミズーリ号上で降伏文書調印(9月2日)特設病院船「高砂丸」レメヨン島より別府港に入港(9月25日)
都城に歩兵第277連隊(3月)、歩兵第422連隊(5月)、歩兵第511連隊(6月)編成宮崎軍政部の初代長官マスマン海軍少佐が正式着任(10月17日)
全国人口調査実施。総人口7,199万8,104人(11月1日)
県下の人口、男42万6,076人、女48万7,485人(11月1日)
出典:「近代日本総合年表」「宮崎県史 別編年表」「都城歩兵第23連隊戦記」
※「宮崎県平和祈念資料室」(平成13年設置)で展示している年表を転記
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戦争の時代(年表)



昭和20年春から沖縄戦が始まり、米軍の九州上陸は目前に迫ります。
米艦隊の接近に備え、5月から特攻艇が本土に展開。
福岡・大分を除く九州各県沿岸でも、複数の特攻艇部隊が夜間突入訓練を繰り返していました。
その中のひとつ、日向市に配備されたのが第121震洋部隊です。

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戦前の細島港


この部隊は藤岡宏太隊長以下の総員188名。
3個艇隊および1個補充隊で編成され、各艇隊の内訳は3個小隊および1個遊撃隊でした。

121震洋隊は、昭和20年3月20日に長崎県の川棚で編成されます。
第一艇隊長は藤岡宏太、第二艇隊長は鈴木栄一、第三艇隊長は恩田一、補充艇隊長は金井利雄。
4月1日より第5特攻戦隊第35突撃隊へ編入され、第48、54、122、126部隊と共に宮崎への配置が決まりました。
基地設営の先発隊は4月27日から宮崎県へ移動。続いて佐世保から特攻ボートの搬入が始まります。
部隊の司令部は日向市細島漁協2階に設置され、御鉾ケ浦の伊藤氏宅周辺が特攻隊員の宿舎となりました。

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現在の細島漁協

御鉾ケ浦では特攻ボートの格納壕建設も開始。
しかし、三菱石油や九州造船の軍需工場が集まっていた細島港は米軍の集中攻撃を受けます。
121部隊も漁船に紛れて係留していた震洋艇1隻を空襲で撃沈されてしまうなど、訓練前から被害が出ていました。
このようなことから、特攻ボートは対岸にある第8回天隊基地へ一時避難しています。

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馬ケ背より眺めた御鉾ケ浦。夕刻、奥にある商用港から次々と漁船が出漁していきます。
細島港は商用港(漁港)と工業港(貨物港)、そして白浜港(国際港)の三つで構成されています。






出撃直前で終戦を迎えた 特攻艇「震洋」「回天」
延岡市赤水町には水上特攻艇「震洋」、日向市細島には「震洋」と人間魚雷「回天」の基地があった。震洋も回天も、兵士が操縦して敵艦に体当たりするという捨て身の兵器。
赤水・鯛名には本土決戦に備えて、第116震洋隊基地(隊員約50人)が昭和20年5月に置かれた。当初は日向市美々津にあったが、基地に適さなかったため、1カ月ほどで移転した。
最初に震洋の格納豪が、基地隊員と地元住民の協力で造られた。赤水湾奥東側の岩山を穿ち、5カ所の豪を設けた。高さ・幅ともに約3メートル、奥行きは40メートルもあり、1つの豪に5隻格納できた。現在もほぼ当時のまま残っている。

震洋の船体は延岡製のベニヤ板


震洋はモーターボートの舳先(へさき)に250キロ〜300キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たりする兵器。赤水には長さ6.5㍍、幅1.86㍍、速力27ノット(時速約50キロ)、2人乗りの震洋5型艇が25隻配備された。     船体は、なんとベニヤ板(合板)で出来ていた。そのベニヤ板は当時延岡の旭化成レーヨン工場内にあった日窒航材工業(戦後に旭ベニヤ工業、昭和25年に旭有機材工業と改称)で生産、佐世保に送られ特攻艇「震洋」に生まれ変わった。
 

赤水の震洋特攻隊員だった田英夫氏


第116震洋隊の第2挺隊長として赴任したのが田英夫氏(故人=当時22歳)だった。田氏は戦後、東京大に復学して卒業、共同通信記者、TBSのニュースキャスター、参院議員を歴任した。
田氏らは8月4日に爆装命令があり、いつでも出撃できる態勢をとっていたが、すんでのところで終戦になった。赤水での訓練の様子は、著書「特攻隊と憲法九条」(リヨン社刊)に記されている。

細島の回天隊


日向市細島には人間魚雷「回天」の第8回天隊が置かれた。牧島山の南側、細島港に面した畑浦に格納豪などの基地施設が造られた。回天は人間が乗り込んで敵艦に体当たりする魚雷で、型によって異なるが、全長16メートル前後、直径約1.5メートル前後。爆薬は1.5〜1.8トン。
細島には他の基地より数隻多い12隻が配備され、本土決戦に備えて厳しい訓練が行われた。すでに格納豪は失われ、道路脇に回天基地があったことを示す看板が立っているだけ。
震洋基地は20年5月、細島港入り口の御鉾浦に第121震洋隊が置かれた。すぐ前はトンボロ(陸繋砂州)で結ばれた島「黒田の家臣」があり、格納豪はトンボロの南西側の岩山を掘って造られた。この豪も損傷がはげしく、ほとんど原形をとどめていない。細島基地188人の隊員のうち、部隊長、艇隊長以下三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身の15〜18歳の特攻隊員54人が訓練に明け暮れていたが、出撃直前、終戦を迎えた。





震洋特別攻撃隊
細 島
 
細島港・御鉾ヶ浦
宮崎県日向市
基地跡
 
基地跡
 
基地遺構(桟橋)か?
 
震洋の海/日向灘




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2003(平成15)年粉じん発生施設変更届出
 堆積場 グリーンサンド置場    35,407㎡(240m×85m 最大堆積厚さ34m   700,000t)

1982(昭和57)年粉じん発生施設変更届出
 堆積場 グリーンサンド置場35,407㎡(240m×85m+増設  最大堆積厚さ23m  450,000t)

1977(昭和52)年粉じん発生施設設置届出
  堆積場 グリーンサンド置場32,906㎡(240m×85m  300,000t)

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日向市は学校の行事で、日向製錬所内の工場見学があるようです。小学校のブログに写真がありましたが、今はブログは削除されています。写真は、小学生がプラスチックの保護メガネと防塵マスクをしていました。


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1962年



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1987年


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平成 東九州自動車道完成前


転載元: 日向産廃スラグ不法投棄恫喝訴訟、住友Gr土壌底質汚染研究会


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