日向市人間魚雷回天の格納壕跡 | 戦争の痕跡 | 日向市財光寺の戦闘機機銃弾痕 |
日向市/特攻艇震洋 格納壕
来 歴 日向市細島港には、第35突撃隊が編成され、昭和20年4月か5月頃に特攻艇震洋が配属されたと言われている。その後、6月25日に人間魚雷回天が配備されている。
終戦後、国や連合軍総司令部(GHQ)の指令で、昭和20年12月頃から旧日本軍の武装解除が行われ、震洋や回天及びその格納壕は爆破処理された。
震洋は海岸部に格納壕があったため残っていたものと思われるが、浸食等により崩壊し、現在は壕の跡がわずかに残っているのみである。詳細の問い合わせ先 日向市総務課 電 話 0982-52-2111 痕跡の所在地 日向市大字細島御鉾ヶ浦(字平場) 黒田の家臣
戦争の時代(年表)
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出典:「近代日本総合年表」「宮崎県史 別編年表」「都城歩兵第23連隊戦記」
※「宮崎県平和祈念資料室」(平成13年設置)で展示している年表を転記
昭和20年春から沖縄戦が始まり、米軍の九州上陸は目前に迫ります。
米艦隊の接近に備え、5月から特攻艇が本土に展開。
福岡・大分を除く九州各県沿岸でも、複数の特攻艇部隊が夜間突入訓練を繰り返していました。
その中のひとつ、日向市に配備されたのが第121震洋部隊です。
戦前の細島港
この部隊は藤岡宏太隊長以下の総員188名。
3個艇隊および1個補充隊で編成され、各艇隊の内訳は3個小隊および1個遊撃隊でした。
121震洋隊は、昭和20年3月20日に長崎県の川棚で編成されます。
第一艇隊長は藤岡宏太、第二艇隊長は鈴木栄一、第三艇隊長は恩田一、補充艇隊長は金井利雄。
4月1日より第5特攻戦隊第35突撃隊へ編入され、第48、54、122、126部隊と共に宮崎への配置が決まりました。
基地設営の先発隊は4月27日から宮崎県へ移動。続いて佐世保から特攻ボートの搬入が始まります。
部隊の司令部は日向市細島漁協2階に設置され、御鉾ケ浦の伊藤氏宅周辺が特攻隊員の宿舎となりました。
現在の細島漁協
御鉾ケ浦では特攻ボートの格納壕建設も開始。
しかし、三菱石油や九州造船の軍需工場が集まっていた細島港は米軍の集中攻撃を受けます。
121部隊も漁船に紛れて係留していた震洋艇1隻を空襲で撃沈されてしまうなど、訓練前から被害が出ていました。
このようなことから、特攻ボートは対岸にある第8回天隊基地へ一時避難しています。
馬ケ背より眺めた御鉾ケ浦。夕刻、奥にある商用港から次々と漁船が出漁していきます。
細島港は商用港(漁港)と工業港(貨物港)、そして白浜港(国際港)の三つで構成されています。
米艦隊の接近に備え、5月から特攻艇が本土に展開。
福岡・大分を除く九州各県沿岸でも、複数の特攻艇部隊が夜間突入訓練を繰り返していました。
その中のひとつ、日向市に配備されたのが第121震洋部隊です。
戦前の細島港
この部隊は藤岡宏太隊長以下の総員188名。
3個艇隊および1個補充隊で編成され、各艇隊の内訳は3個小隊および1個遊撃隊でした。
121震洋隊は、昭和20年3月20日に長崎県の川棚で編成されます。
第一艇隊長は藤岡宏太、第二艇隊長は鈴木栄一、第三艇隊長は恩田一、補充艇隊長は金井利雄。
4月1日より第5特攻戦隊第35突撃隊へ編入され、第48、54、122、126部隊と共に宮崎への配置が決まりました。
基地設営の先発隊は4月27日から宮崎県へ移動。続いて佐世保から特攻ボートの搬入が始まります。
部隊の司令部は日向市細島漁協2階に設置され、御鉾ケ浦の伊藤氏宅周辺が特攻隊員の宿舎となりました。
現在の細島漁協
御鉾ケ浦では特攻ボートの格納壕建設も開始。
しかし、三菱石油や九州造船の軍需工場が集まっていた細島港は米軍の集中攻撃を受けます。
121部隊も漁船に紛れて係留していた震洋艇1隻を空襲で撃沈されてしまうなど、訓練前から被害が出ていました。
このようなことから、特攻ボートは対岸にある第8回天隊基地へ一時避難しています。
馬ケ背より眺めた御鉾ケ浦。夕刻、奥にある商用港から次々と漁船が出漁していきます。
細島港は商用港(漁港)と工業港(貨物港)、そして白浜港(国際港)の三つで構成されています。
出撃直前で終戦を迎えた 特攻艇「震洋」「回天」
延岡市赤水町には水上特攻艇「震洋」、日向市細島には「震洋」と人間魚雷「回天」の基地があった。震洋も回天も、兵士が操縦して敵艦に体当たりするという捨て身の兵器。 赤水・鯛名には本土決戦に備えて、第116震洋隊基地(隊員約50人)が昭和20年5月に置かれた。当初は日向市美々津にあったが、基地に適さなかったため、1カ月ほどで移転した。 最初に震洋の格納豪が、基地隊員と地元住民の協力で造られた。赤水湾奥東側の岩山を穿ち、5カ所の豪を設けた。高さ・幅ともに約3メートル、奥行きは40メートルもあり、1つの豪に5隻格納できた。現在もほぼ当時のまま残っている。 震洋の船体は延岡製のベニヤ板震洋はモーターボートの舳先(へさき)に250キロ〜300キロの爆薬を積み、敵の艦船に体当たりする兵器。赤水には長さ6.5㍍、幅1.86㍍、速力27ノット(時速約50キロ)、2人乗りの震洋5型艇が25隻配備された。 船体は、なんとベニヤ板(合板)で出来ていた。そのベニヤ板は当時延岡の旭化成レーヨン工場内にあった日窒航材工業(戦後に旭ベニヤ工業、昭和25年に旭有機材工業と改称)で生産、佐世保に送られ特攻艇「震洋」に生まれ変わった。 赤水の震洋特攻隊員だった田英夫氏第116震洋隊の第2挺隊長として赴任したのが田英夫氏(故人=当時22歳)だった。田氏は戦後、東京大に復学して卒業、共同通信記者、TBSのニュースキャスター、参院議員を歴任した。 田氏らは8月4日に爆装命令があり、いつでも出撃できる態勢をとっていたが、すんでのところで終戦になった。赤水での訓練の様子は、著書「特攻隊と憲法九条」(リヨン社刊)に記されている。 細島の回天隊日向市細島には人間魚雷「回天」の第8回天隊が置かれた。牧島山の南側、細島港に面した畑浦に格納豪などの基地施設が造られた。回天は人間が乗り込んで敵艦に体当たりする魚雷で、型によって異なるが、全長16メートル前後、直径約1.5メートル前後。爆薬は1.5〜1.8トン。 細島には他の基地より数隻多い12隻が配備され、本土決戦に備えて厳しい訓練が行われた。すでに格納豪は失われ、道路脇に回天基地があったことを示す看板が立っているだけ。 震洋基地は20年5月、細島港入り口の御鉾浦に第121震洋隊が置かれた。すぐ前はトンボロ(陸繋砂州)で結ばれた島「黒田の家臣」があり、格納豪はトンボロの南西側の岩山を掘って造られた。この豪も損傷がはげしく、ほとんど原形をとどめていない。細島基地188人の隊員のうち、部隊長、艇隊長以下三重海軍航空隊乙種飛行予科練習生出身の15〜18歳の特攻隊員54人が訓練に明け暮れていたが、出撃直前、終戦を迎えた。 |
震洋特別攻撃隊
細 島
細島港・御鉾ヶ浦
宮崎県日向市
基地跡
基地跡
基地遺構(桟橋)か?
震洋の海/日向灘
2003(平成15)年粉じん発生施設変更届出
堆積場 グリーンサンド置場 35,407㎡(240m×85m 最大堆積厚さ34m 700,000t)
1982(昭和57)年粉じん発生施設変更届出
堆積場 グリーンサンド置場35,407㎡(240m×85m+増設 最大堆積厚さ23m 450,000t)
1977(昭和52)年粉じん発生施設設置届出
堆積場 グリーンサンド置場32,906㎡(240m×85m 300,000t)
日向市は学校の行事で、日向製錬所内の工場見学があるようです。小学校のブログに写真がありましたが、今はブログは削除されています。写真は、小学生がプラスチックの保護メガネと防塵マスクをしていました。
1962年
1987年
平成 東九州自動車道完成前