末法思想
末法思想(まっぽうしそう)とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のこと[1]。
概説
歴史
インド
正しい教えは次第に衰え、やがて滅びる、とする考え方は、仏教の初期の段階の経や律にすでに含まれている。そこでは正法はもともと千年続くはずだったのが、女人の出家が許されたために正法が五百年になってしまった、とするものも多い[1]。
最初はこうした考え方は修行者に対して訓戒として説かれていたらしい[1]。だが実際に教団内で争いが激しくなったり、異民族の侵略が起きるようになると、「形だけの偽仏教の横行」や「正法の滅尽」という内容が、より現実感をともなって受け入れられるようになった[1]。
『大集経』(正式名『大方等大集経』)には「我が滅後に於て五百年の中は解脱堅固、次の五百年は禅定堅固、次の五百年は読誦多聞堅固、次の五百年は多造塔寺堅固、次の五百年は我が法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん」とある。つまり最後の500年では仏教徒の間で論争が闘わされ、正しい教えが隠没してしまう、とある。
中国
末法思想は、中国では隋・唐代に盛んとなり、三階教や浄土教の成立に深い関わりを持った。その早期の例としては、北斉・陳の天台宗二祖・南岳慧思によって記された「立誓願文」に見られるし、隋代以降千年にわたって継続される房山雲居寺の石経事業も、末法思想によるものである。
日本
一般的には、特に1052年(永承7年)は末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた。 この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。
『末法灯明記』は、現在は末法であって無戒の時代であることを強調するものであり、これは仏教が堕落し社会が混乱している時代に育った鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与えた。
白河上皇の熊野御幸 | ||
熊野が広くその名を知られるようになるのは、上皇による熊野御幸が行われるようになってからです。 熊野を初めて詣でた上皇は宇多法皇で、907年のこと。それから80年ほど間をおいて、今度は花山法皇が992年に詣でています。しかし、どちらの熊野御幸も単発だったため、熊野信仰を盛り上げるのに役立つことはありませんでした。 花山上皇のときからほぼ百年後、1090年、白河上皇(1034~1129)が熊野を詣でます。この白河上皇がじつに9回もの熊野御幸を行います。 白河上皇の度重なる熊野御幸が、熊野信仰が熱狂的な高まりを見せるきっかけとなったのです。 1回目の熊野御幸は、1090年、白河上皇、37歳の時。それから26年後の1116年に2回目。その後、17年、18年、19年、20年と毎年、熊野を詣で、少し間を置いて25年、27年、そして、亡くなる前年の28年と、合わせて9回の熊野御幸。 白河上皇といえば、藤原摂関家から実権を奪い、「院政」を始めた上皇です。 藤原氏の摂関政治というのは、藤原氏が天皇の外祖父(母方の祖父)になることによって成立していました。自分の娘を天皇に嫁がせ、生まれた男子を天皇にする。自分は天皇の外祖父として天皇が幼少の頃は摂政、成人してからは関白として政治の実権を握るというのが摂関政治でした。 このような、考えてみれば、単純な方法で権力を握った藤原氏でしたが、それは、つまり、天皇に嫁がせた嫁に男子ができなければ、藤原氏の政治的権力の基盤は失われてしまうということでもありました。 白河天皇の祖父・後朱雀天皇には2人の皇子がありました。第1皇子は藤原道長の娘・嬉子を母とする親仁親王、第2皇子は三条天皇の皇女・禎子を母とする尊仁親王。 尊仁親王母子は藤原摂関家から冷遇され、宮廷内でも不利な立場にありました。母ともども藤原摂関家に虐げられる生活のなか、尊仁親王は、反藤原の志を胸に抱いて育っていったのでしょう。 藤原氏の血を引く第1皇子の親仁親王が当然、後朱雀天皇譲位後、即位。これが後冷泉天皇です。 しかし、後朱雀天皇は聡明な尊仁親王を愛し、親仁親王に位を譲るとき、弟の尊仁親王を皇太子にし、次の天皇の位は弟の譲るということを条件としました。藤原摂関家はこれをしぶしぶながらも認めます。たとえ尊仁親王が皇太子になっても、後冷泉天皇に子が産まれれば、いくらでも理由を付けて尊仁親王を廃太子にできるとの目論見があったのでしょう。実際、藤原氏には天皇や皇太子を廃位にもできるほどの権力がありました。 藤原頼通・教通はそれぞれ自分の娘を後冷泉天皇に嫁がせ、皇子の誕生を待ちます。しかし、一人の子もできないまま、後冷泉天皇は崩御。 ついに、藤原氏と外戚関係をもたない尊仁親王が即位してしまいます。 じつに宇多天皇以来百七十年ぶりの、藤原氏と外戚関係のない天皇の即位です。これが後三条天皇、白河天皇の父です。後三条天皇は権力を摂関家から取りあげ、天皇親政を行い、国政の改革に取り組みます。 藤原氏の経済的基盤は「荘園」です。そもそも土地というのは大化の改新以来、法的にはすべて天皇のものです。誰かが所有することなどできないはずでした。しかし、皇室の経済的な困窮と貴族豪族の実力の向上により、土地の私有が認められるようになります。 当然、皇室は私有地に対して課税しようとしましたが、私有地の所有者は、土地の名義を皇室にも手を出せないような中央の有力者(とくに藤原氏)のものとし、その有力者にある程度の納付を行なうことで徴税を逃れるという手段に出ました。これを土地の「寄進」といい、「寄進」された土地のことを「荘園」といいます。藤原氏を支えた経済的な基盤は、この「荘園」でした。その「荘園」を、後三条天皇は法律により規制、藤原氏抑制を図りました。 後三条天皇はわずか4年半の在位で、白河天皇に譲位。そののち半年ほどで病没してしまいますが、白河天皇がその遺志を継ぎます。 藤原氏出身の母を持つ白河天皇でしたが、摂関政治の時代に戻すつもりはなく、後三条天皇の反藤原・天皇親政の遺志を受け継ぎます。 天皇として14年間在位した後に1086年、8歳の善仁(たるひと)親王(堀河天皇)に譲位、自ら上皇(院)となって、天皇の庇護者として政治を後見する「院政」という新しい政治制度を開始しました。1107 年に堀河天皇が亡くなりますが、4歳の孫・宗仁親王(鳥羽天皇)を即位させ、院政を続けます。さらに1123年、成人して扱いにくくなった鳥羽天皇を退位させて5歳のひ孫・顕仁親王(崇徳天皇)を即位させ 、引き続き、白河上皇が院政を続けます。 皇室の権力を藤原氏なしに確立させるため、白河上皇は、数々の荘園を手に入れ、寺社に参詣して影響力を確立し、中級貴族の受領層の支持を取り付け、院の御所には警護のための北面の武士を置くなど、院の権力を強化しました。 こうして政治の実権が上皇に推移するとともに、藤原氏の経済的基盤となった「荘園」も、上皇に流れ、白河上皇は天下の権力と富を一身に集めた専制君主となります。摂関家の地位は完全に下落し、「意の如くにならざるもの、鴨河の水、双六の賽、山法師の三つ」という言葉が残るほど、白河上皇は権勢を誇りました。 譲位後、堀河、鳥羽、崇徳の3代、43年に渡って院政をとり、「治天の君」として政治の実権を握り続けた白河上皇(天皇在位時と合わせて57年間も実権を握っていたことになります)。 「治天の君」とは院政を行う上皇のことをさしていう尊称ですが、「治天の君」は天皇の庇護者であり、天皇とは別格の存在でした。「治天の君」は天皇を規制する従来のどのようなしきたりにも制限されない自由な存在でした。 天皇は朝起きてから夜寝るまで、様々なしきたりに規制され、多忙を極め、自由な行動などできませんでした。しかし、上皇になったら、天皇の父親としての権力や財力を持ちながら、何ら法的な根拠を持つ地位ではないがゆえに自由を享受することができました。そのため、白河上皇はこれまでの制度や慣例などを気にせずに意のままに政治を行うことができたのです。 それゆえ、熊野「御幸」も可能だったのです。自由な行動を許された上皇だからこそ、熊野を参詣することができたのです。 天皇が熊野を参詣したことはありません。熊野「行幸」はこれまで1度もなされたことがありません。 あったのは熊野「御幸」のみ。熊野参詣は、権力と富と自由を手に入れた上皇だったからこそ、可能だったのです。 しかし、なぜ熊野だったのでしょう。京都から往復1ヶ月もかけてなぜわざわざこんな辺鄙なところまで来たのか。その理由ははっきりとはわかりません。 当時の関白・藤原忠実にしても、4回目の熊野御幸(1118)に際して「毎年の御熊野詣実に不可思議なり」と述べたとか(この関白、1120年に白河上皇の不興を買い、上皇に罷免されました。これは当時の廷臣達には衝撃的な事件で、院の力、藤原氏の衰えをまざまざと見せつけたのでありました)。 天皇には皇室祖先神として伊勢神宮がありました。しかし、伊勢神宮は創建の由来からいって藤原氏と強く結びついています。そのため、反藤原の意図を持つ白河上皇は、伊勢神宮以外の神を求めたのでしょう。 しかし、それがなぜ熊野だったのか。その理由ははっきりとはしません。 1回目の熊野御幸(1090)で、特筆すべきことが3点あります。 1. 先達(せんだつ。道案内人)をつとめた園城寺の増誉(ぞうよ)が初代の熊野三山検校に任命されたこと。 園城寺(おんじょうじ。通称・三井寺。天台寺門宗の総本山。西国三十三カ所霊場第十四番札所 。滋賀県大津市園城寺町)の長吏(ちょうり。最高責任者)で、顕密修験の三宗に通暁した当代一の高僧として名高かった増誉(1032~1116)が、先達をつとめた功により初代の熊野三山検校に任命されました。 検校(けんぎょう)とは社寺の総務を統括する役職のことで、つまり、熊野三山検校とは熊野三山を統括する最高位の役職です。 ただし、熊野三山検校に任じられたといっても、増誉は実際に熊野の地に赴任することはなく、多分に名誉職的な役職でした。増誉以降、園城寺か聖護院(増誉が熊野御幸の功により開いた寺)の僧が熊野三山検校に任じられることが慣例となりましたが、いずれも、熊野に赴任することなく、熊野御幸の折に先達をつとめる程度であったようです。 形式的な役職とはいえ、熊野三山検校という役職が正式に作られたことにより、僻地にあり、それまで都から独立していた感のある熊野三山が中央との結びつきを得ることができたものと考えられます。 2. 上皇が熊野三山に紀伊国の田畠百余町を寄進したこと。 地形的に田畠に恵まれぬ熊野三山は、これにより財政的な基盤を確保することができたと考えられます。 3. 熊野別当をつとめていた長快(ちょうかい)に法橋(ほっきょう)という地位を与えたこと。 熊野別当とは、熊野三山の実際の統括者で、白河上皇の御幸以前から存在した役職ですが、法橋という五位に準ずる地位を与えられ、正式に朝廷からの承認を受けました。 これにより熊野別当の地位が高まり、その権威を背景に熊野三山の統括を進め、熊野三山の一体化を図ったものと考えられます。熊野三山検校が置かれた後も、熊野三山を実際に統括したのは熊野別当でした。 白河上皇の1回めの熊野御幸は熊野三山にとって画期的な出来事であったと想像されます。この御幸をきっかけとして、熊野三山は、中央との結びつきを得、財政基盤をも得ることができたのですから。 3回目の熊野御幸の時(1117)、白河上皇は寵妃・祇園女御とその養女・璋子を伴いました。問題はこの璋子。白河上皇は、いってみれば璋子の父親役でありながら、璋子とも性的な関係にありました。そんな璋子を白河上皇は孫の鳥羽天皇(1103~56)の后に入れようとしたのです。今回の熊野御幸は、璋子入御の祈願のために行われたらしい。そして、実際、この熊野御幸の1ヶ月後に璋子は鳥羽天皇の后になります。これが待賢門院ですが、鳥羽天皇は祖父の愛妾を后にしたことになります。 5回目の熊野御幸(1119)は、懐妊中の璋子の無事を祈願するために行われたといいます。その祈願の甲斐あってか、子ども(第1皇子、のちの崇徳天皇)は無事生まれますが、その子はじつは鳥羽天皇の子ではなく、祖父の白河上皇の子であったらしい。そう噂されました。そのため、鳥羽天皇はその子を叔父子(叔父でもあり子供でもある)と呼んで嫌いました。白河上皇は、崇徳をかわいがり、1123年、鳥羽天皇を退位させて、崇徳天皇を5才で即位させます(この白河・鳥羽・崇徳の複雑な関係がのちに保元の乱を引き起こし、貴族の世を武士の世へと変えていきます)。 7~9回目の熊野御幸(1125、27、28)には 、白河上皇は、待賢門院璋子と鳥羽上皇を伴います。 いずれの御幸のときのことかはわかりませんが、『愚管抄』という藤原摂関家出身の僧・慈円が記した歴史書には、熊野権現の宝前で不思議な出来事があったことが記されています(巻第四)。 さて、白河院の御時、御熊野詣ということが始まって、度々お参りになられていたが、いずれのときにか、信を出して宝前にいらっしゃったときに、宝殿の御簾の下から美しい手が差し出しては引き、差し出しては引き、二、三度ほどくり返してから引き入ってしまった。夢などにはこんなことはあるが、鮮やかに現実にこのようなことをご覧になってしまったのを不思議にお思いになって、巫女たちが多かったので、何となくものを問われたところ、いよいよますます現実ではないらしい。巫女たちのなかにヨカノイタといって、熊野の巫女のなかでよく知られているものがいた。美作の国の者と申した。それが7歳でありましたが、はたと御神を憑かせなさった。世の末には手の平を返したことばかりあるであろうことを見申し上げたよと申し上げたが、このような不思議もご覧になってしまった君である。 この預言通りというべきか、白河上皇の死後二十数年ののち、孫同士が皇位継承を巡って争って保元の乱を起こし、それがきっかけとなり、これまでの貴族の世は終焉を迎え、武者の世へと移行していきました。 何はともあれ、この白河上皇の9回に及ぶ熊野御幸が、のちの鳥羽上皇の21回、後白河上皇の34回、後鳥羽上皇の28回という熊野御幸を生み、さらに武士や庶民による「蟻の熊野詣」を生み出しました。 |
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◆ 後白河上皇の熊野御幸 | ||
後白河上皇(1127~1192)の撰述に成る『梁塵秘抄』は、歌集十巻、口伝集十巻の計二十巻であったと推定されますが、今日現存するのは、わずかに歌集巻一の断簡と巻二、口伝集巻一の断簡と巻十のみ。 歌集ももちろん面白いですが、口伝集も面白い。後白河上皇がいかに今様に夢中だったのかがわかります。遊女(あそび)や傀儡子(くぐつ)ら女芸人たちとの交流の様も見え、後白河院の熱烈な仏教信者ぶりも知ることもできます。 後白河院は、歴代の上皇のなかで最多の34回もの熊野詣を行うほどの熱烈な熊野信者でした。本地垂迹思想の浸透していた当時、熊野本宮は阿弥陀如来の浄土と考えられており、熊野信仰は仏教信仰の一形態なのでした。熊野を信仰することと仏教を信仰することになんら矛盾はなかったのです。 口伝集には、1回目と2回目、そして12回目の熊野詣のことが記されていますので、それを紹介します。 さて、1回目の熊野詣は、1160年、後白河院34歳のときのこと。前年12月には平治の乱が起こっています。 私は永暦元年10月17日より精進を始めて、法印覚讃(かくさん)を先達にして、23日に出発した。25日、厩戸王子の宿で、左衛門尉であった藤原為保(ためやす)は、自分が連れていた先達の夢に王子が現われ、 「この度お参りになったのは嬉しいけれど、古歌を歌ってくれないのが残念だ」 と、おっしゃったということを言った。 「もとより道中の王子社では、歌舞の奉納などすることをするということだが、御所さまの今様などはあってしかるべきものを」 などと言う近臣もあったが、 「あまり下賤の者が多いのにオープンなのも」 などと言う近臣もあって、そのままになっていたが、この夢の話を聞いて、あれこれ思案せずに歌うことにして、厩戸を夜遅く発って、長岡王子に夜のうちに参った。 そのときに、連れだっていた平清盛(のちの太政大臣。当時はまだ大弐と呼ばれていた)にこの夢のことを相談してみたところ、 「そのようなことがございますなら、それももっともなことです。とやかく申すまでもございません」 というようなことを清盛は答えた。 清盛は内心、 「雑人などがたいへん数多くいるので、どうか」 と、思っているうちに、ふらふらと寝入ってしまったところ、夢うつつに、正式の礼服をした先払いの者を連れた唐車(からぐるま。最上の牛車)が王子社の御前に止まるのを見た(唐車には、王子が乗っているのでしょう。王子とは熊野権現の御子神。熊野権現の分身だと考えればよいと思います)。 院の歌を聞いているのだろうかと思って、はっと目を覚ましたところが、今様を院が歌っている最中であった。その歌がこれ。
この話を清盛は資賢(すけかた)卿に語って、驚かれたことだった。 先の先達の夢と後の清盛の夢。この二つが思いあわされて、人々は現兆だと言いあっていた。 11月25日、幣を奉り、経供養・御神楽などを奉納しおわって、礼殿にて、私の音頭で、古柳から始めて、今様・物様まで(古柳・今様・物様、みな今様の種類の名前らしいです)数を尽くす間に、次々に琴・琵琶・舞・猿楽を尽くした。初めての熊野詣のときのことである。 2回目の熊野詣は1162年のこと。 応保2年正月21日より精進を始めて、同27日に発つ。 2月9日、本宮に幣を奉る。本宮・新宮・那智の三山に三日ずつ籠って、その間、千手経を千巻(1000回)転読してたてまつった。 同月12日、新宮に参って、幣を奉る。その次第はいつもの通りである。夜が更けてからまた社殿の前へ上って、宮廻ののち礼殿で通夜、千手経を読んでたてまつる。しばらくは人がいたけれど、片隅で眠るなどして、前には人も見えない。通家が経を巻きもどす役をしていたのだが、居眠りしている。 次々に奉幣なども終わり静まって、そろそろ夜半を過ぎただろうかと思われたころ、神殿のほうを見やると、わずかの火の光に御神体の鏡がところどころ輝いて見える。しみじみと心が澄んで、涙も止まらず、泣きながら千手経を読んでいたところ、資賢が通夜を終えて、明け方に礼殿に参りに来た。 「今様が欲しいものだ。今ならきっと趣が出るよ」 と、私は資賢に勧めたが畏まっているばかり。仕方なく、私みずから歌いだす。
繰り返し繰り返し、何度も歌う。資賢・通家が和して歌う。心澄ましてあったせいだろうか、いつもよりもすばらしく趣深かった。 覚讃法印が宮廻りを終えて、社殿の前にある松の木の下で通夜をしていたが、その松の木の上で、 「心とけたる只今かな(いま、私の心はくつろいでいるよ)」 と、神の歌う声がしたので、夢うつつともなく聞いて、びっくりして、慌てて礼殿に報告しに来た。 一心に心を澄ましていると、このような不思議なこともあるのだろうか。夜が開けるまで歌い明かした。これが2回目である。 次は12回目。1169年、院43歳のときのこと。 仁安4年正月9日より精進を始めて、同14日に発つ。26日に幣を奉る。今度が12回目にあたり、出家の暇乞いを申しあげに参る。いつものように王子社での今様、礼殿での音楽などはたびたびあった。 俗体では今回が最後の熊野詣になるだろうと思われるので、私ひとり両所権現の御前で長床に横になった。かがり火の光があって、ついたて・ふすまを少し隔てて、身分による区別もなく、かたわらに成親(なりちか)・親信(ちかのぶ)・業房(なりふさ)・能盛(よしもり)、前のほうに康頼(やすより)・親盛(ちかもり)・資行(すけゆき)、従者らが雑魚寝した。 こちらは暗くて、かがり火の御神体の鏡、十二所権現おのおのが光を輝かして、神々の姿が映るかのように見える。あれこれの奉幣の物音が次々に聞こえる。神仏を供養する般若心経、もしくは千手経・法華経、各自の意向に応じて尊い。 経供養のついでに、長歌から始めて古柳「下がり藤」を歌う。次に十二所の心の今様(おそらく熊野十二所権現のことを歌った今様)を、そののち、娑羅林・常の今様・片下・早歌、主だった歌はみな歌い尽くす。神歌などを歌い終えて、大曲のような歌を歌い、足柄・黒鳥子・旧川を終えて、伊地古を歌う。 明け方に人がみな静かになって、人の音もしないで、心澄ましてこの伊地古を特別に歌ったところ、両所権現のうちの西の御前(結の宮)のほうで、えもいわれぬ麝香(じゃこう)の香がする。 「これはどういうことだ。この香、嗅いだか」 成親は親信に言った。その座の人みなが不思議に思っていると、今度は神殿が鳴るような音響を立てた。 「これはどうした」 また成親が驚いて言った。 「ようにんのかりおほいしたるに、鶏の寝たるが音にこそ(意味がわかりませんでしたが、狸穴さんから「おそらく『用人の仮覆いしたるに』だと思います。『使用人が、仮小屋を建てたところに、鶏が飛び乗って寝ようとした音』ではないか」とのメールをいただきました。なるほど、そうかもしれないと思いました。ようにんは傭人かもとも思いました)」 と、私は言った。 神殿のすだれが、掲げて人が入るときのように動いて、それに懸かっていた御神体の鏡がみな鳴りあって、長いこと揺れていた。 私達は驚いてその場を立ち去った。寅の時(午前3時~5時)であったであろう。 後白河上皇はこの3度の熊野で起こった不思議な出来事を語っています。これを読んでわかったのは、神とは夢かうつつかの半覚醒状態の時に現われるものなのだということ。 こんな今様もありますし。
(巻第二 26) 後白河上皇は、この口伝集の他にところで、今様についてこう述べています。 この今様、今日行われているのは娯楽一本というわけではない。心を尽くして神社・仏寺に参って歌うと、示現(神仏が霊験を現わすこと)を被り、望みが叶わないということがない。官職を望むことも、命を延ばすことも、病をたちどころに治すことも可能だ。 後白河上皇の望むことは、極楽往生。 今はよろづを抛(な)げ棄てて、往生極楽を望まむと思ふ。 そのための34回にわたる熊野詣だったのでしょうか。 後白河上皇は、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代にわたって院政をとり、武家勢力に対抗しつづけたしたたかな政治家でもありました。後白河上皇は、その権謀術策により、平家や木曽義仲や源義経や奥州藤原氏を滅ぼし、源頼朝には「日本一の大天狗」と恐れられました。 そのような権謀術策ぶりと、ただただ極楽往生を望むという姿は、なんだかイメージ的にそぐわないような気がしますが、かえってあくどいことをしている人間のほうが本気で極楽往生を願うものなのかもしれません。 今様に夢中のうつけ者の皇子が成りゆきによって天皇となり、上皇となり、武家勢力と相対峙することになったものの、そのような政治的なことよりも、ほんとうは今様を徹夜で歌いあかしたり、今様の名手の女芸人に歌を習ったりすることのほうが性に合っていたのでしょうね。 後白河上皇、最後には頼朝に地頭職を握られ、院政の財政的な基盤を切り崩されてしまいます。 |
一方で浄土真宗の開祖とされる親鸞は、師・法然の末法観を受け継ぎつつも、「像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて 時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたまふ」(正像末和讃)と説く様に、正法・像法・末法といった時代を超えて受け継がれてきた念仏の普遍性を強調した。 また同時期、日蓮も末法思想を真剣に受け止め、末法であるからこそ信じて行うべき法を求め、法華経こそが正しい教えであるとし(法華一乗)、南無妙法蓮華経と唱えることを広めた。