二 日本窒素肥料株式会社(1)【扇に日の丸】
【扇に日の丸】
チッソ、という名称は、株式会社の名称としては、少し変わっている。
もともと会社の商号を選ぶ基準は、他の会社との区別をはっきりさせることにあるから、普通どこにでもあるモノを商号にしようとはしない。
「チッソ」は、「窒素」のことであり、大気中にあまめく存在している。
しかしそれだけに、この商号を選んだ理由の背後に、そう名のるだけの実績をもっているのだ、という自負を感じさせる。空気中の窒素を固定し、これを原料とする技術の工業化に最も早く成功したのは我社である、という誇りである。
日本窒素肥料株式会社が戦後の五年目に、企業再建整備法により、新日本窒素肥料株式会社と名称変更して以降も、窒素肥料やカーバイト系化学製品を生産していたことに変わりはない。ところが一九六五(昭和四〇)年一月一日にチッソ株式会社と社名変更したのは、カーバイト系化学工業に終止符を打ち、石油を原料とする化学工業会社にはっきりと転進することを内外ともに明らかにすることにあった。だから、「日本窒素肥料株式会社」の如く、商号中に「窒素」を謳う必要はまったくなくなっていた。
それでも、「チッソ」と名称を変更したのは、まさに同社の歴史への自負である。「チッソ」は、まぎれもなく、日本のカーバイト系化学会社のトップであり、空気中の窒素を原料とする化学工業の雄であった。
日本窒素肥料株式会社は、空中窒素固定法工業化の成功によって昭和財閥と呼ばれる大企業群に成長したのであり、水俣工場といっても同社が擁する数多くの工場群のほんの一角にしかすぎないほどに巨大化した。が、現在では、この事実を知る人は少なく、社名を聞いただけでピンと来る人さえ多くない。
しかし、旭化成工業株式会社とか積水化学工業といえば知らない人はまずいない。
旭化成は、日本窒素肥料の延岡工場が、戦後、占領軍の財閥解体命令で本体から切り離されて独立したものだ。旭化成は、いまやチッソをはるかに上まわる、日本化学工業界のトップランナーに成長している。
積水化学は、やはり戦後、海外から引揚げてきた日本窒素肥料系会社の若手社員たちが、引揚げ者の生活救済のためにチッソ製品の販売会社として始めた積水産業株式会社がその出発点であり、その後プラスチック成型事業を中心に発展したものである。積水という言葉は、日本窒素系企業が築造し続けたダムに、積もる水、に由来している。
他に、日本窒素肥料の流れをくむ、名が知られた会社としては、野口のもとで北部朝鮮での電源開発を担当した久保田豊が戦後興した日本工営株式会社、朝鮮鉱業開発株式会社から出発した株式会社ニッチツ、それに運送会社のセンコー株式会社などがある。
この運送会社センコーの社名は、日本窒素肥料系企業の由緒ある歴史をとどめているといってよいだろう。
センコーの旧社名は扇興運輸であり、日本窒素肥料の社のマークは、扇に日の丸であったからだ。
白地に日の丸を描いた、開かれた扇は、日本窒素肥料の製造するあらゆる製品に印された商標であり、日本窒素肥料という会社が、日本の化学工業界を領導せんとする意気込みを表すシンボルであった。
日本窒素肥料、つまりチッソの歴史には、日の丸に象徴される日本国家との一体感が深く刻みこまれている。
明治以降、この日本という国は、一〇年に一回の割合で戦争を破裂させながら、西欧に追いつけ、追い越せとしゃにむに第二次産業を育ててきた。西欧なみの工業化の実現は、国家、企業家、そして国民全体の強迫観念であった。
国家との一体感をもって企業拡大の野望に挺身した企業家は数多いが、チッソの創業者野口遵は、大正から昭和にかけての、その一典型であった。
旭化成
種類市場情報 本社所在地 設立業種事業内容 代表者 資本金 発行済株式総数 売上高 営業利益 純利益 純資産 総資産 従業員数 決算期 主要株主 関係する人物 外部リンク
本社が入居する神保町三井ビルディング | ||||||||||||||
株式会社 | ||||||||||||||
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日本 〒101-8101 東京都千代田区神田神保町1丁目105番地 (神保町三井ビルディング) | ||||||||||||||
1931年(昭和6年)5月21日 | ||||||||||||||
化学 | ||||||||||||||
化学、繊維、住宅、建材、エレクトロニクス、医薬品、医療 | ||||||||||||||
代表取締役社長浅野敏雄 | ||||||||||||||
1,033億8,900万円 (2014年3月31日時点)[1] | ||||||||||||||
14億261万6,000株 (2014年3月31日時点)[2] | ||||||||||||||
連結:1兆8,977億6,600万円 (2014年3月期)[3] | ||||||||||||||
連結:1,433億4,700万円 (2014年3月期)[4] | ||||||||||||||
連結:1,012億9,600万円 (2014年3月期)[5] | ||||||||||||||
連結:9,126億9,900万円 (2014年3月末時点)[6] | ||||||||||||||
連結:1兆9,150億8,900万円 (2014年3月末時点)[7] | ||||||||||||||
2万9,127人 (2014年3月末時点)[8] | ||||||||||||||
3月末日 | ||||||||||||||
日本生命保険相互会社 5.2% 三井住友銀行2.5% (2014年3月時点) | ||||||||||||||
野口遵、宮崎輝、山口信夫 | ||||||||||||||
www.asahi-kasei.co.jp |
昭和8年(1933年)にかけての延岡町・恒富村・岡富村の合併・市制施行は延岡進出の条件であり、日豊本線も進出に伴って開通した。1930年代末までに日窒系の工場が次々と建設され、大正11年(1922年)に2万3千人ほどであった人口は、昭和14年(1939年)には9万1千人を数え、宮崎県内最大の人口を有する都市となった。
1951年頃は人口の約半数・市税納入額の3分の2・市議会議員の3分の1が旭化成関係であり、文字通り「企業城下町」として栄えた。しかし、旭化成の経営戦略により延岡の比重は次第に小さくなったことや、大消費地から遠いこと、更には化学工業が石油中心となったことから以前ほどの経済力はなくなり、人口も1982年を境に減少している。
宮崎県延岡市は旭化成株式会社の発祥の地であり、現在も多くの工場や関連会社などがある。大正12年(1923年)に建設された日本窒素肥料の延岡工場は、創業者の野口遵氏がイタリアで特許を買ったカザレー式アンモニア合成法を世界で初めて実用化したものである。記念広場に展示してある装置は当時のもので、銀色の合成塔は英国アームストロング社製、圧縮機はイタリアのフィレンツェ社製。この装置を使った新しいアンモニア合成法の成功により延岡ではベンベルグ、レーヨン、火薬などの化学工場が次々と建設され大きく発展してきた。
経済産業省近代化産業遺産に登録されている「カザレー式アンモニア合成塔」「ハンク式紡糸機」、「バタワース式レーヨン紡糸機」をはじめ、ベンベルグ工場、旭化成延岡展示センターなどの近代化学工業の先駆けとなった施設の見学が可能である。
経済産業省近代化産業遺産に登録されている「カザレー式アンモニア合成塔」「ハンク式紡糸機」、「バタワース式レーヨン紡糸機」をはじめ、ベンベルグ工場、旭化成延岡展示センターなどの近代化学工業の先駆けとなった施設の見学が可能である。
また、延岡工場の敷地になったのは愛宕山の東にあたる恒富村(現延岡市恒富)のさびしい湿地帯であったが、この工場立地についての経緯が市町村合併にまで影響を及ぼし、現在の工都・延岡市の土台となる延岡町が誕生することとなったという歴史もある。現工場内に、工場建設当初から延岡の街が形作られていく様子を写真や書類で追うことのできる資料館もある。
エピソード
全国でも有数の企業として今もなお技術革新を遂げる旭化成。
創業地、延岡にはいくつもの工場や関連企業があり、市内中心部にそびえ立つ高さ180メートルの巨大な煙突は企業城下町「延岡」を象徴する町のシンボルとなっている。
創業地、延岡にはいくつもの工場や関連企業があり、市内中心部にそびえ立つ高さ180メートルの巨大な煙突は企業城下町「延岡」を象徴する町のシンボルとなっている。
日本の化学工業の祖と呼ばれる創業者 野口 遵が数ある候補地の中から工場建設に延岡を選んだのは、豊かな水資源と広大な土地、そして工場建設により地元の発展を望む住民達の熱意と積極的な誘致活動があったからだ。工場の建設はやがては市街地形成や市町村合併にまで大きな影響をおよぼすこととなった。
創業からまもなく90年を迎える今、国内における近代化学工業の先駆けとなり創業当初から工場や町の発展の役割を担ってきた機械設備や建物などは、今、貴重な工業遺産群として保存され一般に公開されている。
中でも代表的なのが「カザレー式アンモニア合成塔」(経済産業省産業遺産)である。延岡で工場建設がすすめられ、大正12年、日本の化学工業の先駆けとなる国内初の合成アンモニアが生産された。このことは小さな城下町にすぎなかった延岡を一躍日本の合成化学発祥の地として栄えさせ、その後も地域環境を活かした数々の化学工業事業に着手した。現在の旭化成愛宕事業場正門にはカザレー広場と名付けられ当時をしのばせるカザレー式アンモニア合成塔と混合ガス圧縮機が展示されており、当時のままに残る建物内の資料室では操業当時の運転日誌などを見ることができる。
また新たな事業として発展したのがベンベルグやレーヨンなどの繊維工業で、最盛期には2万人以上の従業員が生産に従事し、「せんいの町」として繁栄した延岡のシンボルのひとつとなった。今もなお世界で唯一、ベンベルグを生産している工場内には操業当初(1931)から実に70年近くにわたって稼働していたハンク式紡糸機(経済産業省産業遺産)が保存、展示されている。同じくレーヨン事業撤収(2001)まで、半世紀以上にわたってレーヨン繊維を生産してきたバタワース式レーヨン紡糸機(経済産業省産業遺産)などもその役目を終え、現在は岡富事業場正門前に保存、展示されている。
県北には現在29の旭化成関連工場が点在し、高い技術力と生産力、それをいかすノウハウから生み出された世界最高水準の製品が国内のみならず世界各国へと発信されている。設立から90年近い歴史を誇る旧延岡支社本館内には「旭化成延岡展示センター」(見学要予約)があり、その歴史や地域とのかかわりなどを詳しく知ることができる。
延岡展示センター
旭化成グループの歴史や経営全体の姿、延岡・日向地区の事業活動の現状と地域社会との関係などを、総合的に紹介させていただく場として開設したものです。
旭化成グループの製品をじかにさわりながら見学することができ、年間4,000名のみなさまにご来場いただいています。
開館時間 休館日 住所 TEL/FAX 営業日午前9時~12時、午後1時~4時 | |
土・日曜、祝祭日、年末年始 | |
〒882-0847 延岡市旭町六丁目4100番地 <旭化成向陽倶楽部内> | |
(0982)22-2070/(0982)22-4106 | |
月~金曜日(定休日:土・日・祝祭日) | |
見学ご希望の方は、事前に当センターへお申し込み下さい。(予約制) |
延岡市における戦災の状況(宮崎県)
1.空襲等の概況
延岡市は、当時世界でも屈指の大工場であった日本窒素化学工業株式会社(現旭化成株式会社)があり、総合化学工業地帯として発展を遂げていた。
しかし第二次世界大戦突入後は、順調に上昇線をたどってきた旭化成も人絹設備(人造絹糸・レーヨン)は強制供出にあい、悪条件の中、かろうじて最低の操業を行なっていた。その反対に、火薬部門および硝酸部門は海軍の管理工場として活用され、軍用火薬の製造に重点がおかれていた。
そして敗戦の様相がいよいよ濃厚となっていた昭和20(1945)年6月29日、戦火はついに延岡に及んだ。延岡市街地は焼夷弾攻撃によるはげしい空襲を受け、市街の大半は焼失し、多数の死者を出した。
2.市民生活の状況・空襲等の状況
延岡市に初めて爆弾が投下されたのは昭和20(1945)年3月4日の朝で、幸い人畜の被害はなかった。同年5月には、農家の防空壕に爆弾が命中し親子が、また、旭化成工場宿舎近くに爆弾が落ち、学徒動員隊の死亡者があった。
戦火がいよいよ激烈となり、本土決戦の様相が深刻となってきた昭和20(1945)年6月29日、「延岡大空襲」を受けた。
深夜午前1時15分、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き、市民は一斉に防空壕に避難したが、「いつも通りの上空通過だけで終わるだろう」という考えで、みな落ち着いた様子であった。しかし、その日はいつもとは違っていた。次第にB29の旋回音が聞こえ出し、不気味な落下音とともに焼夷弾攻撃が始まった。攻撃は2~3時間余にわたり、街はまたたく間に火の海と化した。この攻撃により即死者130人、戦災面積2.18km(2)、被災戸数3,765戸、被災者15,232人という大惨事となった。
(延岡市役所発行の「延岡市史」参考)
(延岡市役所発行の「延岡市史」参考)
夜が明けると、あたり一面焼け野原のなか、城山の緑がくっきりと朝日に映えているだけだった。
<延岡大空襲直後の延岡市街地>
3.復興のあゆみ
戦災復興計画に際して、戦前の土地、建物利用状況等により土地の利用計画を再検討した。
まず、戦前の土地、建物利用状況等により土地の利用計画を再検討した。特に本市は、旭化成を中心とした工業都市として発展する都市と考えられ、将来の工業地域との関連性を重視した。また、近隣町村との交通、衛生等環境を害さないよう適正な配置を実施した。市の地域的な観点から、五ヶ瀬川以北の地域は商業、五ヶ瀬・大瀬川に挟まれた川中地区には行政・文教・商業、大瀬川以南は商業・住宅・工業に伴う施設を配置した。
これらの配置計画に伴い、都市計画街路事業にも着手した。まず、工業都市としての性格や規模及び土地の利用計画に際し、将来の交通量や主要道路を考慮した。市中心部を南北に走る現在の国道10号線を大幹線とし、これに伴う環状線や、その他市街地における主要幹線の街路を整備した。
復興計画が着実に進む中、旭化成の拡充に伴い、急速に都市としての機能は発達し、現在では宮崎県の中核都市として、県内では随一、東九州地域においても有数の工業集積地となっている。
<昭和37(1962)年頃の復興された延岡市街地>
(日向日日新聞社「延岡大観」より)
4.次世代への継承
戦後、遺族会などを中心に、慰霊塔の建立を望むようになり「殉国慰霊塔建設委員会」を組織し、昭和33(1958)年10月、延岡城本丸広場に「殉国慰霊塔」が建立された。ここには明治39(1906)年2月に建立された「招魂碑」もあり、毎年4月5日に合同慰霊祭が行われている。
この他、延岡中学校には、延岡大空襲によって殉職されたカナダ出身の栗田彰子先生の碑が建立され、毎年6月29日の命日に慰霊祭が行われている。