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延岡市の歴史
先史
延岡古墳群
阿蘇溶結凝灰岩の堆積によって形成されたなだらかな丘陵地が広がると共に、AT火山灰やアカホヤ火山灰が良好に堆積していることから、古くから人々が生活していたことを示す旧石器時代から古墳時代の遺跡が数多く分布しています。
南方古墳群
主な遺跡としては、旧石器時代におけるナイフ形石器文化層と細石器文化層の指標遺跡となっている赤木遺跡(舞野町)や県内最古の貝塚と考えられる大貫貝塚(大貫町)、多数の弥生時代から古墳時代にかけての住居跡が確認された中尾原遺跡(細見町)などがあります。
また市内には、国指定史跡である南方古墳群、県指定史跡である延岡古墳群や北方村古墳、宮内庁が御陵参考地としている可愛山陵(北川町)など多数の古墳が存在し、こうした古墳をつくらせた有力者の存在と、それを支える生産基盤があったことをうかがい知ることができます。
古代
上多々良遺跡
律令制の成立に伴い、ほぼ現在の宮崎県域を国域とする日向国が設置されると、延岡市域は臼杵郡に属することになり、『和名類聚抄』に見える郷としては、英多郷や氷上郷が延岡市域内に比定されています。まだ臼杵郡の郡衙跡は確認されていませんが、須恵器を生産していた古川窯跡(古川町)や、墨書土器が出土した上多々良遺跡(岡富町・古川町)などの存在から、英多郷に郡衙が設置されていた可能性が高いと考えられています。
また『延喜式』兵部省諸国駅伝馬条に見える長井駅や川辺駅も、北川町や大貫町にあったと考えられており、大宰府や都との間の輸送や往来の上で、重要な交通ルートとなっていました。
平安時代中期になると、臼杵郡内には豊前国(大分県)宇佐宮の荘園が次々と成立していくこととなり、延岡市域でも、五ヶ瀬川北部地域にあたると考えられる「臼杵郡内北郷」の荒野が、治暦2年(1066)、国司菅原義資によって宇佐宮に進上され、臼杵庄が立てられています。その後、臼杵庄内には岡富別符が、また寛治2年(1088)には長井院(北川町)も立券されています。これに対し、五ヶ瀬川南部地域は「島津御庄領南郷」として、島津庄寄郡に編成されていたことが『宇佐神領大鏡』などに記されており、同じ市域内でも領主が異なっていたことがうかがえます。
中世
土持卒塔婆
「日向国建久図田帳」は、日向国内の荘園・公領の全体像を示す唯一の史料になります。そこには領主名ごとに、荘園の名前と面積、そして地頭などの在地領主の名前なども記されています。それによると、延岡市域と考えられる宇佐宮領県庄の地頭には工藤祐経(伊東氏の祖)が、岡富庄の弁済使には土持宣綱が、そして多奴木田の弁済使には宇佐久通の名前が記されています。また島津庄寄郡の新名と浮目の地頭には中原親能が、大貫と伊富形の地頭には島津忠久の名前を見ることができます。
こうした複数の有力者達による複雑に絡み合った勢力争いが、日向国では南北朝時代まで繰り広げられることになりますが、徐々に力を伸ばした土持氏が、ほぼ延岡市域一帯については、一定の勢力を持つことになります。
しかし、天正5年(1577)、日向国最大の領主であった伊東氏が島津氏との戦いに敗れ、豊後国の大友氏を頼り退去すると、翌6年4月には大友宗麟が日向国への侵攻を開始し、土持氏の拠城松尾城(松山町)を陥落させます。これにより、延岡市域は一時、大友氏領となりますが、11月に行なわれた高城・耳川の合戦において島津氏に敗れると、大友勢は豊後国へ退却し、島津氏は土持氏に旧領を安堵しています。ただし、同15年、豊臣秀吉が島津氏を破り、その所領を没収すると、土持氏はその領有権を再び失い、新たな領主として、豊前国香春岳(福岡県)より高橋元種が入封することになります。
歴史[編集]
「延岡藩」および「西南戦争#豊後・美々津・延岡方面の戦い」も参照
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐により高橋元種が日向縣藩(のちに延岡藩)に5万3千石を宛行われて入封。慶長6年(1601年) - 慶長8年(1603年)秋にかけて縣城(延岡城)を築城して以降、近世城下町としての町割りが整う。
この縣地域の呼称としての延岡地名の使用は、近世縣城(現在の城山)の修築完成を記念して、有馬康純が明暦2年(1656年)に今山八幡宮に寄進した梵鐘(若山牧水に詠われた「城山の鐘」)の銘文「…明暦二年丙申六月吉日…日州延岡城主有馬左衛門佐…藤原朝臣康純」を初見としており、さらには、江戸幕府の公文書で正式に延岡藩としての記述が見られるのは、有馬氏の次、三浦明敬支配の元禄期以降のことである。
明治期になり、宮崎県設置により県庁が宮崎市におかれたことから、延岡は県庁から最も離れた旧城下町となった。これを近代化の遅れの予兆として受け止めた危機感覚が、後の工業都市としての発展の一因となる。旧延岡藩主であった内藤氏は数々の特権を公共化させ、銅山や電源開発に関わることで近代延岡の礎を築いた。また、小林乾一郎など旧藩士の働きも、延岡の近代化に大きく寄与した。
年表
安土桃山時代 江戸時代
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近世
城山の鐘(全体)
豊臣秀吉による新たな国割によって、5万3千石の石高で松尾城(松山町)に入封した高橋元種の所領は、延岡市域を含む宮崎県北部地域と、宮崎郡や那珂郡(宮崎市域の一部)、児湯郡(西都市域の一部)、諸県郡(国富町域)などの飛び地で構成されていました。慶長8年(1603)、元種は五ヶ瀬川と大瀬川に挟まれた川中地区の丘陵に県城を築城し、城の東側に南町・中町・北町を整えましたが、同18年、改易となっています。
これにより、肥前国日野江(長崎県)より有馬直純が同じく5万3千石で入封し、有馬氏が3代にわたって藩主をつとめることになります。この有馬氏が藩主であった、明暦2年(1656)、城下の今山八幡宮(山下町)に寄進された梵鐘(初代城山の鐘)には、寄進者として「日州延岡城主有馬左衛門佐」の銘が刻まれおり、これが現在確認できる中で最も古い「延岡」の初見史料となっています。
城山の鐘(銘拡大)
元禄5年(1692)には三浦明敬が下野国壬生(栃木県)より2万3千石で入封し、正徳2年(1712)には牧野成央が8万石で入封するなど、その藩領域を変化させながら藩主の交代が頻繁に行なわれた延岡藩ですが、延享4年(1747)に内藤政樹が陸奥国磐城平(福島県)より7万石で入封すると、それ以降、明治維新を迎えるまで内藤氏が8代にわたって藩主をつとめることになります。内藤氏の7万石の所領は、高橋氏が入封時に設定された所領の大部分を引き継ぐと共に、牧野氏の時代に延岡藩領となった大分郡(大分市の一部)や国東郡(豊後高田市の一部)、速見郡(湯布院町の一部)の村々から構成されていました。
現在の延岡市域は、城下の武家屋敷地や町地と、領知目録などに記される臼杵郡内の26ヵ村からなる地域にあたり、江戸時代を通じて城付地として支配されていた地域になります。
近代
現在の延岡市域は、明治4年(1871)の廃藩置県により、延岡県に属することになりましたが、その後の府県の再編成に伴い美々津県となり、同6年には宮崎県、同9年には鹿児島県の所属となりました。この鹿児島県時代の明治10年に起こった西南戦争では、県指定史跡である南洲翁寓居跡(現在の西郷隆盛宿陣跡資料館)をはじめとする、西南戦争ゆかりの地が数多く市域に存在することからもわかるように、政治的にも経済的にも、大きな影響を受けることになりました。
旭化成ケミカルズ薬品工場広場に展示している
カザレー式アンモニア合成装置
カザレー式アンモニア合成装置
明治16年には再び宮崎県となり、同17年に宮崎県東臼杵郡の所属となりましたが、明治22年の町村制施行により、延岡町、岡富村、恒富村、伊形村、東海村、南方村、南浦村、北方村、北川村、北浦村の1町9村が成立しています。こうして成立した町や村は、それぞれの地域の特徴を活かし、独自の発展を遂げていくことになりますが、大正12年(1923)に日豊本線が全線開通し、恒富村に日本窒素肥料株式会社延岡工場(現旭化成)が建設されると、延岡町は岡富村・恒富村と昭和5年(1930)に合併し、同8年に市制を施行します。その後も同11年に東海村・伊形村と、同30年には南浦村・南方村との合併を行った延岡市は、平成18年(2006)に北浦町・北方町と、平成19年(2007)に北川町と合併し、新たな市の歴史をスタートさせたところです。