1日
大阪発
07:56発→09:13着1時間17分(乗車1時間10分)
IC優先:7,340円(乗車券4,000円 特別料金3,340円)
福山着
バス 3900
8:05 | 8:32 | 11:42 | 11:55 |
バスだとお昼になってしまう。
福山~今治(しまなみライナー)
福山駅前発
7:50
9:10
10:00
55分後 大三島BS
大三島路線バス・宮浦港~井口港・大三島BS~瀬戸港・出走
路線図
出走~大三島BS・井口港~宮浦港
平成25年8月1日 改正
出走 大三島BS 井口港 教善寺 大山祇
神社前 宮浦
農協 宮浦港 出走 大三島
BS 井口港 教善寺 大山祇
神社前 宮浦
農協
宮浦港
島内 出走 | 日曜、祝日、1月2・3日運休 | 7:20 | 7:35 | 7:39 | 7:46 | 7:47 | 7:49 | 7:50 |
急行 今治 | 日曜、祝日運休 | ― | 8:54 | 8:58 | 9:05 | 9:06 | 9:07 | 9:08 |
急行 今治 | 土曜、日曜、祝日、 季節運休 (12/29~1/3、3/26~4/7、8/1~8/20) | ― | 9:04 | 9:08 | 9:15 | 9:16 | 9:17 | 9:18 |
島内 出走 | 9:00 | 9:15 | 9:19 | 9:26 | 9:27 | 9:29 | 9:30 | |
急行 今治 | ― | 9:24 | 9:28 | 9:35 | 9:36 | 9:37 | 9:38 | |
急行 今治 | 土曜、日曜、祝日、12/29~1/3運休 | ― | 9:54 | 9:58 | 10:05 | 10:06 | 10:07 | 10:08 |
急行 今治 | ― | 10:29 | 10:33 | 10:40 | 10:41 | 10:42 | 10:43 |
大三島の観光
しまなみ海道の開通とともに島の東部にインターチェンジができたことから、インターチェンジのある多々羅(たたら)地区に多々羅しまなみ公園、芸術会館、多々羅温泉、しまなみドームなどの観光関連施設が旧・上浦町により整備されている。
リゾート開発構想が華やかなりし頃(総合保養地域整備法など参照)は「えひめ瀬戸内リゾート開発構想」の一つの重点整備地区として大手企業によるリゾート開発構想も打ち上げられたが、バブル崩壊とともに大手企業は用地取得、開発着手の前に事実上開発構想を断念・撤退し地道な取組みに戻った。
今日では、地域資源を生かしたグリーンツーリズムや修学旅行・合宿の誘致など地道な観光振興が行われている。
全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社である。また、主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝える三島神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで広がる。静岡県の三嶋大社と共に三島神社の総本社とされる。
歴史[編集]
当社の鎮座する大三島は古くは「御島」と記された[1]ように、神の島とされていた。大三島に鎮座した由来には諸説がある。
- 『大三島記文』(社伝)
- 大山祇神の子孫・小千命(乎千命、おちのみこと)が大三島に勧請したとする。
- 『伊予国風土記』逸文
- 『予章記』・『予陽河野家譜』
- 越智玉興がこの地での霊験にあやかり、勅宣により社殿を造営したとする[3]。
境内には弥生時代の神宝や祭祀遺跡があるといわれており[3]、いずれにしてもかなり古い時代から存在したとされる。
太平洋戦争の終戦直後の一時期には、旧帝国海軍関係の貴重な資料や教材を戦利品として連合国に没収されることを恐れた海軍兵学校から、厳島神社と合わせて約1万点を「奉納」の名目で預かっていた。そして後に自衛隊が創設されると、自衛隊に返還がなされた。また、GHQは刀剣類の異常な多さを問題視し、国宝級を除いて処分を命じたが神社側は密かに土中に秘匿した。
年表
- 仁徳天皇年代、百済より摂津国御島に大山祇神を祀るという(『伊予国風土記』逸文)
- 推古天皇2年(594年)、大三島瀬戸(遠土宮、現 横殿社。今治市上浦町瀬戸)に移るという (『伊予国風土記』逸文、『三島宮社記』)
- 大宝元年(701年)、現在地(今治市大三島町宮浦)への遷宮に向け造営が始まる (『三島宮御鎮座本縁』)
- 霊亀2年(716年)、16年をかけ造営終了 (『三島宮御鎮座本縁』)
- 養老3年(719年)4月22日、遷宮の儀 (『三島宮御鎮座本縁』)
- 元亨2年(1322年)、戦火に遭い本殿、拝殿が焼失 (『伊予国三嶋社縁起』)
- 天授4年(1378年)、本殿、拝殿再建 (社伝)
- 応永34年(1427年)、本殿再建 (向拝実肘木墨書)
- 天文12年(1543年)、大三島合戦、鶴姫戦死(社伝)
- 慶長7年(1602年)、拝殿建築 (社伝)
- 平成4年(1992年)、「日帝残滓」を焼却処分すると主張した過激派(中核派)の放火により祖霊殿が全焼
神階
- 天平神護2年(766年)4月19日、従四位下 (『続日本紀』)
- 貞観8年(866年)閏3月7日、従三位から正三位 (『日本三代実録』)
- 貞観12年(870年)8月27日、従二位 (『日本三代実録』)
- 貞観17年(875年)3月29日、正二位 (『日本三代実録』)六国史(正史)編纂終了時点での最終神階。
- 寛平9年(897年)正一位(社伝)
境内
社殿
仏堂
- 奥の院(位置)
旧神宮寺の奥の院。
その他の建造物
- 二の鳥居 - 本社境内入り口に立つ。額は一の鳥居に同じ。
名所
- 神水の井戸 - 祭神:水波能売神。本殿向かって左脇にある井戸で、水は祭典に用いられる
- 神池(弁財天池)
- 斎田(神田) - 御田植祭・抜穂祭時に神事が行われる
- みたらし水 (今治市上浦町瀬戸) - 海近くから湧きでる真水。大祭時献上する
クスノキ群
鎮守の森はそれほど広くないが、御神木の「乎千命御手植の楠」や奥の院の門となっている「生樹の御門」など境内や近隣にクスノキの巨木が存在する。1322年の兵火や、1722年の洪水で大被害を受けており往年の姿は無いが、38本が「大山祇神社のクスノキ群」の名称で国の天然記念物に指定、他に境内から離れた場所にある1本が愛媛県指定天然記念物となっている。
- 原始林社叢の楠群
国の天然記念物(指定名称は「大山祇神社のクスノキ群」)。1951年(昭和26年)6月9日指定。境内には多くのクスの古木が残って原生林の名残を留めている。うち38本が指定対象となっている。
- 幹周11.1m、根周り20m、樹高約15.6m。神社境内のほぼ中央にある。伝承樹齢2600年。兵火や洪水・落雷により樹勢は衰えているが下枝は葉をつけている。現在では息を止めて3周すると願い事が叶う、一緒に写真を撮ると長生きできるなどと信仰がある。小千命の手植えとの伝承があり、名称はこれに由来する。根本は柵で保護されているがその周りは踏み固められており、やや枯れ枝が目立つ。
- 能因法師雨乞いの樟(枯死)
- 幹周17m(現在は10m以下)。神池近くにある。伝承樹齢3,000年。かつて日本最古の楠と言われた。18世紀に枯死し腐朽がかなり進行しているが、1990年頃の調査でも胸高幹周10mの大木である。名称は、1066年の大干ばつの際、能因法師がこの木に幣帛を掛け雨乞いを行ったことに由来する。このことは『金葉和歌集』の大治2年(1127年)に詠まれている。
- 河野通有兜掛の楠(枯死)
- 幹周14m(現在は3m以下)。弘安4年(1281年)元寇出兵時、河野通有が大山祗神社に参籠祈願した際に兜を掛けたとされる。1322年の兵火で大被害を受け枯れているが、現在も幹の一部が社殿の脇に横たえている。
- 第三号樹
- 幹周8m(1950年頃)。高い樹高(高さ48m)と大きな根株(根周り70m)が特徴。上記3本に次ぐ大木だが、特筆する伝承などはない。見通しの悪い樹林の中にあるため目立たないが、背が高いため境内裏側に廻れば見える。その他幹周8-10m級クスノキが3本ある。
- 生樹の御門
愛媛県指定天然記念物。1951年(昭和26年)11月27日指定。境内からやや離れているため、国の天然記念物「大山祇神社のクスノキ群」には含まれず、この木単独で愛媛県の天然記念物に指定されている。
- 奥の院への途中に立つ。樹齢は2,000年または3,000年と伝承される[8]。根周り32m、幹周15.5m、高さ10m。主幹は勢いがなく副幹に近接する1枝を除いて枯れているが、副幹は樹勢があり大きく密な樹冠を広げている。周りにはひこばえが数本出ており、着生している植物と合わせ1つの森の様になっている。昭和期には斜面上側、主幹と副幹の間にもう1本細い幹があった。真中の洞(幅2m、高さ3m)が奥の院への参拝通路となっていて、くぐると長寿の利益(りやく)があるなどと信仰されている。
- その他のクスノキ
- 伊藤博文公記念楠樹
- 樹齢100年(1909年3月22日~)、幹周1m程度の若木である。伊藤博文が参拝記念に植樹した。下枝が手頃なところにあるため、よくみくじ掛として使われているが、木の生育にはあまり良くない。他にもクスノキの若木が多数ある。
- 河野通有兜掛の楠枯死
神体山
- 鷲ヶ頭山(436.5m) - 大三島中心に立つ最高峰。古名を「神野山」
- 小見山 - 山名は「お宮の山」からの変形とされる[9]
- 安神山(267m) - 鷲ヶ頭山の西に立つ。大宝元年の本社の現境内地への遷宮の際、安神山山頂に五龍王を祀ったとされ、現在も祠が鎮座する
その他
- 御串山 (今治市大三島町宮浦字御串山) - 宮浦港に接して立つ小山。当社の境内地で摂社の阿奈波神社が鎮座するほか、中世の城跡も確認されている。景勝地として名高く、愛媛県の名勝に指定
- 鯨山の古墳 (今治市馬越) - 伝・小千命墓
文化
水軍にちなむ伝説・遺跡
- 大三島の東岸の沖合いにある水軍の出城跡。天智天皇の頃、唐の侵攻に備えて造られた日本最古の水軍城と伝えられる。近世には、藤堂高虎の弟が居留したといわれている。居館のものとみられる柱跡が見られる。戦後すぐの頃までは周辺ではアサリがたくさん採れ、今日でも干潮時には大三島から砂州を伝って歩いていくことができる。
いも地蔵
下見吉十郎を参照。
矢崎浜のえんこ(河童)石(古民話)
- 伯方島の南岸・船折瀬戸の近くの矢崎浜あたりの海にその昔河童(エンコ)が棲みついていた。河童は砂浜で遊ぶ地元の子どもたちや通りすがりの人によくいたずらをして、人々を困らせていた。一計を案じた村人が砂浜でこのかっぱを生け捕りにした。捕まえられた河童は村人たちに「もう二度と悪さはしません。助けてください。そのしるしに証文を渡します」と涙ながらに謝った。村人たちもやがてかわいそうになり、縄をほどいて放してやった。河童はたいそう喜んで、沖の方に向かって大声で叫んだ。すると河童が大勢で海の中から大きい石を担いできて砂浜へ担ぎ上げ、「この石が証文だ」と告げ石を置いて海に帰っていった。
- その日から河童は姿を現わさなくなった。村人はこの石を「えんこ石」と呼び、大切にした。今日、矢崎浜には「えんこ石」の石碑が建っている。
- 子どもが一人で海で遊ぶと波にさらわれて危ないということを戒めるための話と推測される。同様の河童話は西予市明浜町や南宇和郡愛南町などにもある。
- エンコは河童のこと。「石碑」は「えんこ石」とひらがな表記のため、文中、原則としてひらがな表記とした。
今治着
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