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Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
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[転載]死んだ子をかるうて(背負って)戻りよったと。はっきり覚えちょる。つらかったじゃろう

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呂久鉱毒事件砒素<砒素中毒>
・ 急性:嘔吐、下痢、発疹
・ 慢性:栄養失調、貧血、
腎臓/肝臓障害、
動脈硬化、心筋梗塞、
脳梗塞、色素沈着、
角化症、皮膚がん、
尿路悪性腫瘍
◎ 宮崎県土呂久鉱山(戦前より亜砒酸製造)周辺住民に発生(1971年発見)、約160人が公害病に認定
◎ 島根県津和野の笹ヶ谷鉱山周辺でも、約20人が認定
森永砒素ミルク事件(1955年、製造工程に砒素混入。138人死亡、約1.2万人が患者に)。和歌山砒素カレー中毒事件(1998年)
◎ マグマの自然由来、精錬・鉱山活動、地下水利用の灌漑農業、地熱発電等が原因に。半導体製造・殺虫剤・医薬等で使用

公害、母は闘い続けた 土呂久ヒ素公害、被害者の会・故佐藤さん




 【坂本進】 宮崎県高千穂町の旧土呂久(とろく)鉱山で起きたヒ素公害で被害者の先頭に立ってきた佐藤トネさんが11月、92歳で亡くなった。自らもぜんそくや手足のしびれに苦しみながら、県や企業と闘い続けてきた。その原動力は何だったのか。
イラスト:ALTタグ
公害の症状に苦しみ続けた佐藤トネさん=長男の幸利さん提供
 トネさんの長男、幸利さん(71)は小学生のときに見た、忘れられない母の姿があるという。
 小さな赤ん坊を背負い、病院のある里から帰ってくるのを見かけた。まだ、土呂久までバスが通っていない時代。はんてんの中におぶわれていたのは、幸利さんの妹だった。約6キロの道のりを歩き終えた母の顔は沈んでいた。「死んだ子をかるうて(背負って)戻りよったと。はっきり覚えちょる。つらかったじゃろう」

   ■   ■

 1920(大正9)年。鉱山のあった土呂久で、鉱石を原始的な窯で焼き、ヒ素をつくる「亜ヒ焼き」が始まった。ずさんな精製の過程で、ヒ素に汚染された水と煙がはき出された。
 10人きょうだいの3番目だったトネさんは22年に生まれ、数え年で18歳のときに土呂久に嫁いだ。その頃、土呂久ではすでに、窯の近くの住民が相次いで亡くなったり、家畜が死んだりする被害が出ていた。
イラスト:ALTタグ拡大
 身長約165センチで当時としては大柄だったトネさんは、小学生のころに健康優良児として表彰されたこともあった。だが、土呂久に来てからは病気がちになった。幾度か流産を経験。産んでも3人の子どもを幼くして亡くした。
 トネさんの妹・和子さん(82)によると、義理の両親と一緒に大分県竹田市の神社まで安産の祈願に行ったこともあったという。「元気な子どもを産めない後ろめたさや申し訳なさがあったのでは」
 土呂久公害の被害者団体で事務局長を務めた横井英紀さん(64)は「トネさんは公害が原因で幼い子どもたちを亡くしたと考えていた。母親として悔しかったんだろう。それが、その後の活動へとトネさんを突き動かしたんだと思う」と話す。

   ■   ■

イラスト:ALTタグ拡大
住友金属鉱山の社長らに抗議する佐藤さん(遺族側の前列左から3人目)=1984年4月19日、東京都港区の住友金属鉱山本社
 
 鉱山が閉山した9年後の71年、土呂久公害は地元の小学校教諭による告発で、全国的に知られていった。トネさんは夫の勝さんや友人を亡くしていく中、宮崎県に住民の被害認定を求める活動に力を注いだ。83年には「土呂久鉱山公害被害者の会」の会長に就任。90年まで続いた、最終鉱業権者の住友金属鉱山への損害賠償訴訟では、最後まで被害者たちをまとめ続けた。
 土呂久公害の記録をとり続け、被害者支援をした川原一之さん(67)は、「トネさんは、人を引きつける天性のリーダー。普段は冗談も言う、とても明るい人だった」と振り返る。
 企業との裁判の和解後、30代から患っていた慢性気管支炎の症状が悪化。入退院を繰り返すようになった。川原さんら



転載元: 日向産廃スラグ不法投棄恫喝訴訟、住友Gr土壌底質汚染研究会


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