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[転載]クミコ 素晴らしいシャンソン妖怪

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クミコ

クミコ基本情報別名出生出身地血液型学歴ジャンル職業活動期間レーベル公式サイト
高橋久美子、高橋クミコ
1954年9月26日
日本の旗茨城県水戸市(水戸市生まれではあるが出身とは言えない)
B
早稲田大学教育学部
シャンソンほかノージャンル
歌手
1982年 -
東芝EMIavex io日本コロムビア
http://www.puerta-ds.com/kumiko/
 
 
 クミコ1954年9月26日 - )は、日本歌手茨城県水戸市生まれ(母親の里帰り出産による)。以前の芸名は高橋 久美子(たかはし くみこ)、高橋 クミコ。血液型はB型。埼玉県立春日部女子高等学校早稲田大学教育学部卒業。
 
 

略歴

活動初期

 演劇を志し、早稲田大学に入学するが、不条理演劇の中で歌うシーンがあり、歌で表現することに目覚めて劇団を退団した。大学卒業前、友人に誘われバンドにピアニストとして参加する。その後、バンドを辞めたその友人の代わりにボーカルを担当する。
 1978年、24歳の時、第16回ヤマハポピュラーソングコンテストの予選を勝ち抜いて(「関東甲信越大会」では歌詞を忘れてしまったが、何かが評価されて先に進めた)、つま恋本選会に出場する。ボーカルを斉藤久美子(後のクミコ)が務めた「ホンキートンク」の「どしゃぶり ずぶぬれ しどろもどろ」は優秀曲に入選する[1]。同年、日本代表の一人に選ばれ、第9回「世界歌謡祭」にソロ歌手・斉藤久美子として出場したが、予選で落選し、本選に進めなかった[2]。この時のグランプリ曲は円広志の「夢想花」だった。
 
 レコード会社から予定されていた収録済みのデビュー盤はボツになり、挫折を味わう。その後長い間、小さなスペースで少数の熱心なファンや永六輔などの支援者に支えられながら歌い続けた。ホール・コンサートがメインの活動となるのは2003年秋以降である。

シャンソン歌手としてデビュー

 1981年から1982年にかけて、埼玉県大宮市にあった後楽園グループ(現東京ドーム)のドイツレストラン「ラインゴールド」大宮店にて特技のピアノとシャンソンを中心とした弾き語りもしていた。
 
 1982年6月、27歳の時、日本におけるシャンソニエの老舗だった銀座銀巴里」のオーディションに合格し、プロデビューする。オリジナル曲で合格したのは前代未聞のことで、合格後、越路吹雪のレパートリー曲などでシャンソンを猛勉強する。
 
 1987年、ミュージカル『レ・ミゼラブル』の日本初演にアンサンブルの一員として出演する。同年7月に高橋久美子の名でLPアルバム『POKKOWA PA ?』をリリース。32歳での遅いデビュー盤だった。
 
 1980年代後半から「渋谷ジァン・ジァン」に出演し始め、10時劇場『六輔七転八倒九百円十時』へのゲスト出演、10時劇場「高橋久美子の唄う『音楽図鑑』」、「世紀末コンサート」 、「高橋クミコの『ステキな唄』」シリーズなどを1999年まで続ける。ほかには新橋「アダムス」などのシャンソニエや青山円形劇場、南青山MANDALAが主な活躍の場所だった。パントマイムマルセ太郎、俳優の篠井英介との共演も行う。
 
 1996年、「茶目子の一日」や「お定のモリタート」などを歌うアルバム『世紀末の円舞曲(ワルツ)』を東芝EMIよりリリース。1999年には作家の中島梓と南青山MANDALAで「SYAPPO!」と銘打ったライブを行った。
 
 

「クミコ」への改名、ブレイク

 一般に知られるようになる最初のきっかけは、2000年の『AURA』であった。『世紀末の円舞曲(ワルツ)』とライヴを聴き「街角の歌姫」クミコの歌に感動した作詞家・松本隆のプロデュース・全編作詞になるアルバムだった。1999年に出会った松本から「あなたの歌声には言霊がある」と言われ、また、松本の「別れた亭主の名前をいつまでも付けているから売れない」との助言を受けて、姓を取って現在の「クミコ」に改名した。
 
 さらなる大きな転換点はavex io移籍後の初アルバム『愛の讃歌』に収録された、バルバラシャンソンに詩人の覚和歌子が原詞を離れて作詞した「わが麗しき恋物語」という曲で、2002年、48歳の時。ニッポン放送のアナウンサー・上柳昌彦が『うえやなぎまさひこのサプライズ!』で取り上げるなど、ラジオやテレビの番組によってクミコを知らない人々にも紹介されることとなる。たまたま聴いて涙してしまったと評判が広まり、じわじわと世に知られるようになっていった。
 
 その後も覚和歌子作詞になる「わたしは青空」(作曲/三木たかし)、「さよならを 私から」(作曲/荻原慎太郎、佐々木聡作。韓国の若手人気歌手、イ・ギチャンが「セサラム(三人)」と題してカバー)、「人生のメリーゴーランド」(作曲/久石譲)などの話題作が続いている。
 
 2007年2月には『十年 〜70年代の歌たち〜』をリリース。イッセー尾形江國香織大石静残間里江子椎名誠立木義浩筑紫哲也弘兼憲史藤原美智子吉永みち子が選出した“クミコに歌わせたい思い出の70年代の歌たち”10曲をクミコ流の解釈で表現。また中島みゆき書き下ろしの「十年」も話題となった。
 
7月にはそれまでの集大成となるCD8枚+DVDの『コンプリート・クミコ・ボックス〜二十五年〜』をリリース。絶版になっていたかつての音源も復刻された。9月には映画『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』の公開に合わせて『クミコ meets ピアフ』をリリースし、エディット・ピアフの歌を本格的に取り上げた。
 
 2008年3月には『友よ! 〜あの出発ち(たびだち)を“青春”と呼ぼう〜』をリリース。1970年代中心の男歌10曲をカバー、福岡の同世代の主婦、智子がクミコに提供した新曲「ブラボー!」も収録されている。
 
 2009年2月には手紙の朗読と歌で綴る舞台『ミュージカル仕立ての歌語り「届かなかったラヴレター」Vol.1』をミュージカル俳優井上芳雄と二人で共演した。同公演に合わせて新曲「届かなかったラヴレター」と「車輪」(デュエット曲)が、作詞/覚和歌子、作曲/三木たかしによって作られた。2009年5月11日に亡くなった三木たかしの遺作となった。

2010年代の活動

 2010年2月シングル盤『INORI〜祈り〜』をリリース。広島平和記念公園にある「原爆の子の像」のモデル・佐々木禎子の甥佐々木祐滋が禎子と平和への想いを綴った歌で、クミコに歌って欲しいと申し出た。4月に「週間HIT 演歌/歌謡曲 USENチャート」で1位になった。
 
 当初は、広島出身でもなく原爆という難しい内容を扱った歌「INORI〜祈り」を私が歌ってよいものか悩み一度は断った。しかし依頼してきた佐々木は被爆二世で「こんな青年を未だに不安にさせる一個の原爆の怖さ、そしてそのことを後世に伝えたいという佐々木の熱い気持ちに、私の歌で伝えていく手助けになれば」と依頼を引き受けた[3]
2010年に初めて『NHK紅白歌合戦』に出場し、「INORI〜祈り」を唄った。そして、2011年4月からNHKラジオの長寿番組「ラジオ深夜便」の「深夜便のうた」で新曲「合歓の孤悲」(ねむのこい)が採用された。
 
 シャンソン歌手と形容されることもあるが、レパートリーにはシャンソンより、オリジナル、戦前戦後の日本と世界の歌謡曲やポピュラーソングが多い。
 
 2011年3月11日の東日本大震災発生時は、石巻市民会館におけるコンサートのリハーサル直前で、同会館の地下控え室にいた。その後、津波が押し寄せてくる中で、ホール近くにある裏山へ必死に避難し命からがら助かった事をブログやインタビューで明らかにしている。機材は全て失われ、身一つで日本海側経由で東京に戻ったという。
 
 
 

転載元: 建設環境・身の回りのアレコレ


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