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[転載]1901年(明治34年)~の水俣の地図と空中写真で、汚染を知る

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1901年(明治34年)の水俣の地図
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1901年(明治34年)の水俣の地図
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1926年(大正15年)の水俣の地図
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1932年(昭和7年)の水俣の地図
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1935年(昭和10年)の水俣の地図 
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八幡残渣プールの辺りが白くなっています。 公有水面埋め立て開始か
 
 
 
1948年(昭和23年)の水俣の写真
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1948年(昭和23年)の水俣の写真
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1948年(昭和23年)八幡残渣プールの空中写真
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1948年(昭和23年)チッソ工場 排水路の空中写真
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 水俣病は、昭和31年5月、水俣工場附属病院から水俣保健所に対して脳症状を主とする奇病患者の発生という形で報告され、はじめてその存在が社会的に確認されるところとなり、過去の患者のカルテや住民の証言等に基づいて水俣保健所、水俣工場附属病院、地元医師会等が行なった調査の結果、28年に最初の患者が発生していたことがあとになって明らかになった。

  原因物質としての有機水銀説は34年7月になってはじめて発表され、これが熊本大学研究班の正式見解となったのは38年2月のことであり、厚生省が政府統一見解として発表したのは43年9月のことであった。
 
1956年5月に水俣病が公式確認され、水俣湾周辺に患者が次々に発生したので、チッソは1958年に排水ルートをひそかに変更して、工場北側の水俣川河口にある八幡プールという広大な廃棄場に排水した。しかしこのために水俣川河口付近から不知火海沿岸に水俣病患者が発生した。
 
 
1963年(昭和38年)水俣の空中写真
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1963年(昭和38年)水俣 八幡残渣プールの空中写真
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1964年(昭和39年)水俣 八幡残渣プールの空中写真
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 護岸が伸びています。
東京オリンピックの年に大規模な埋め立てが始まったようですね。
拡大します。
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1968年(昭和43年) 水俣の空中写真
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拡大します。
 
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43年8月厚生省が策定した「水銀による環境汚染暫定対策要領」に基づいて、環境庁は、水俣湾における魚介類等の環境汚染の調査を毎年実施している(第5-2-1表)。 
 
 昭和49年、熊本県は水俣湾口を仕切って水俣湾内に汚染魚を封じ込める仕切網を設置しました(図3-4-1)。平成9年には、仕切網が撤去されました。

図3-4-1	仕切網の設置図(昭和52年10月1日現在)

 
 
 
 
1975年(昭和50年)水俣 八幡残渣プールの空中写真
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 拡大した1975年の八幡残渣プール
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2009年(平成21年) 水俣の空中写真
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転載元: ミナマタ 水・土壌汚染・防災研究会 水銀条約遵守、水俣生物多様性


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