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[転載]熊本県の歴史

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熊本県の歴史

 
 九州の中央部に位置する熊本県は、古代の「肥の国(火の国、ひのくに)」が前後二分された際の側、旧国名のいわゆる肥後国が占めた領域とほぼ一致する。これは、近世江戸時代幕藩体制期において球磨郡の一部などが別藩の領土とされるなど、また逆に肥後国天草郡に属していた長島が現在では鹿児島県に編入されているなどの一部例外はあるが、府県制施行によって置かれた九州各県のうち宮崎県日向国)とともに伝統的な国制をほぼ維持した例にあたる。
 熊本県の風土的特色は、菊池川白川流域を中心とし阿蘇山を含む県北部域、人吉盆地を主軸にした球磨川流域、天草諸島の三つの地域に大別することができる。この区分はそれぞれ熊本藩人吉藩天領天草という幕藩体制下の三つの区域と対応しており、それぞれ個別の特色を持つ。
 熊本県の歴史をかいつまむと、多くの遺跡古墳に見られる豊かな自然環境とそれを一変させる火山活動、律令制下から武士の勃興。南北朝を経て国衆割拠そして加藤清正の入部、細川忠利の入部を経て幕末の動乱から西南戦争、戦後の公害問題までが大まかな流れとなる。そして全体を通して、大和朝廷の成立後、周辺の位置にあった肥後国そして熊本県の歴史は、常に中央政権からの影響を受けつつ綴られた。
 
古代
大観峰から望む阿蘇山とカルデラ

遺構から見える古代の熊本

 日本の旧石器時代遺跡のうち、約1/3に当たる100ヶ所以上[注 1]が熊本県で発見されている。しかし、発掘調査は数ヶ所でしか行われていない。
 多くは阿蘇外輪山一帯や球磨地方に位置するが、水俣市の石飛分校遺跡や天草下島の内ノ原遺跡なども発掘され、その分布は県下全域に及ぶ。最も古いものは熊本市平山町の石の本遺跡から出土した石器類であり、炭素C14測定から30000年以上前のものと推測されている。出土数は4000点にのぼり、安山岩の破片から作られた小刀類や局部磨製石斧も見つかっている。これらや、九州が比較的自然環境に恵まれた土地であったことから、古代熊本は豊かな狩猟採集社会生活の舞台だったと推測される。
 
 しかしながら、九州は多くの火山噴火がもたらす環境の激変に何度も襲われた土地でもあった。阿蘇山・姶良山鬼界カルデラの爆発は火山灰地層を複数形成し、特に石器時代中期に見られる姶良Tn火山灰層の上下に見られる出土品の比較や、石飛分校遺跡の同層上部から見つかった細石器土器の破片などの分析を通じて火山活動が及ぼした環境や社会生活への影響が研究されている。その一方で、当時の火砕流から形成された阿蘇溶岩は、後に良質かつ豊富な石材となって肥後の石工を支えた。
 
 
続く縄文時代、熊本県下で発見された早期の遺構は、爪形文土器が発掘された人吉市の白鳥平B遺跡などわずかな例しかない。これは、約6200年前(約7300年前とも)の鬼界カルデラ爆発によって九州全土が壊滅的な打撃を受けたためと考えられている。
 しかし縄文中期には下益城郡城南町の御領貝塚・黒橋貝塚が見られ、後期になると東日本や朝鮮半島との共通点も見られる土器文化が発展した。熊本平野で発見された約13箇所の貝塚はそのほとんどが後期にあたり、現在の海抜5mあたりに位置している。
 宇土市の曽畑貝塚からはドングリ貯蔵の痕跡も見られ、また出土した曽畑式土器は同型のものが沖縄諸島朝鮮半島からも発見されている。城南町の阿高貝塚と黒橋貝塚から見つかったイタホガキ製貝面や阿高式土器は、佐賀県腰岳の黒曜石とともに、韓国釜山市東三洞(トンサムドン)貝塚からも出土している。逆に、天草市の大矢遺跡からは朝鮮半島の形式である石製結合釣り針が見つかっている。
 
 
 土器や生活様式はその後も進歩を見せ、独自の黒色磨研土器が発達した。また、熊本市の上の原(うえのばる)遺跡からは竪穴式住居の遺構から炭化した大麦が発見された。当時、大部分が海であった熊本平野が海退現象や河川堆積物によって埋まり[2]、採取のみに頼った食料確保から原始的な畑作への転換が始まっていたことを示している。このような農耕の痕跡はこの他にも数箇所から見つかっている。さらに上南部遺跡(熊本市)からは土偶磨製石器の石刀などの特殊遺物が数多く出土している。県下の縄文時代遺跡は約770ヶ所を数える。
 
 これらの生活遺構は弥生期になると場所を変え、海岸線から離れた台地上に環濠集落を形成するようになった。石斧など典型的な弥生時代遺物が発見される遺跡はやがて熊本平野全域におよび、広い範囲で稲作が行なわれたことを示している。一方、沿岸部にも同時代の小規模な貝塚が発見されている。宇城市三角町の文蔵貝塚では焼いた小さな巻貝の殻が多数見つかった。これはホンダワラを焼く製塩法の名残りであり、『万葉集』で歌われた「藻塩焼き」が行なわれていた証拠とされる。
 
 さらに時代が下ると、阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域からも製鉄の遺構が発見された。槍鉋農具である先や鉄斧、また端切れと考えられる三角形や棒状などの鉄片なども見つかっている。二子塚遺跡(熊本市)からは炉跡を中心に焼土ブロック木炭、熱を受けが付着した台石など、製鉄の痕跡が出土している。また、青銅器も熊本市の徳王遺跡や泗水町の古閑原遺跡から出土した銅鏡などがある。弥生時代遺跡数約740は日本国内の13%を占める。

火の国の成り立ち

 
 
 初期のヤマト王権は、服属化させた地方に「県」(あがた)を置き、その地の豪族を県主に任じたと『日本書紀』にある。同紀や『筑後国風土記』には、熊本に置かれた3つの「県」が見られる。球磨県はその名称が現在も引き継がれ、閼宗県(あそけん)は阿蘇地方に対応する。八代県は現在の宇土地方を含むより広い領域を含んでいたと考えられる。
 緑川氷川に挟まれた宇土半島基部では塚原古墳群に代表される120前後の前方後円墳が発掘されているが、この中のひとつ向野田古墳(宇土市松山町)には30代と推定される未婚女性が埋葬されていた。これは卑弥呼に代表され、『豊後国風土記』の「比佐津媛」や『日本書紀』の「神夏磯媛」と同様に地域を統治していた巫女の存在を示すと考えられている。
江田船山古墳
 
 宇土半島基部の遺跡は、装飾文様が施された国越古墳や氷川流域の丘陵部に形成された野津古墳群などに代表され、この地域は火君(ひのきみ)発祥の地とされている。火君は地域を代表する豪族であり、『古事記』では神八井耳命(かみやいみみのみこと)の後裔として、『日本書紀』や『肥前国風土記』では熊襲討伐を果たした景行天皇一行が不思議な火に誘われて至った地で土蜘蛛退治に活躍した者の子孫として記されている。そして、この故事から「火の国」の名称が生まれたとされる。
  • この海上の火は不知火といい現在でも見ることができる。漁火の蜃気楼現象である。 
 江田船山古墳から出土した大刀銘文から、火君など火の国の豪族は既に近畿の大伴物部氏と関係を持っていたことが明らかになっている。豪族のひとつ建部君(たけべのきみ)は、その名が大和朝廷から軍事的部民として名を下賜された一族で、現在は熊本市黒髪・子飼本町に相当する中世までの地名武部・竹部・建部あたりを本拠としていたと思われる。
 
 菊池川流域で発掘される古墳群は少々時代が下り、竜王山古墳(山鹿市)・山下古墳(玉名市)・院塚古墳(岱明町)が知られ、これらは日置部君(ひおきべのきみ)一族の地とみなされる。阿蘇一宮町にある中通古墳は阿蘇君(あそのきみ)の築造とされる。これらの墳墓から発掘される貝輪などは、当時の豪族がさかんな交易を行なっていたことを示している。さらに、阿蘇溶結凝灰岩から作られた舟形石棺瀬戸内海沿岸や近畿地方の古墳にも用いられている[2- 1]ことから、この交易は相当広範囲にわたる規模のもので、豪族たちの権勢を支えていたと推測される。県全体で確認された古墳は約1300程を数え、これは国内の24%に当たる。
 
 磐井の乱以後、九州への支配体制を強化した大和朝廷は、当地の軍事力の再編成や屯倉の設置など支配力を強化した。この一連の中で、火の国には大伴氏の部民が多く配された。これらは、『万葉集』巻5、『和名類聚抄(和名抄)』、東大寺出土木簡などの記述から見いだせる。
 『日本書紀』にある火の国の春日部屯倉(熊本市春日町)は九州中南部の豪族反乱へ睨みを利かす朝廷の出先機関という性格を有し、軍事的かつ経済的拠点としても機能した。『隋書』の中に阿蘇山噴火を記した下りがある。これは遣隋使が行われた推古天皇期に伝えられた情報と考えられており、火の国が大和朝廷にとって重要な拠点のひとつだったことを示す傍証にもなっている。

律令制下の肥後

 
 
 
 
 
 
 
旧石器時代
10万年前 旧石器
荒尾市平山宿遺跡から片刃礫器・尖頭器が出土。球磨郡下里遺跡から剥片が出土しています。
国内の1/3 約100ケ所は熊本県内の阿蘇外輪山、球磨の地方、水俣市の石飛分校遺跡から細石器と爪形痕土器、天草下島の内の原遺跡があります。
3万年前
熊本県 白川左岸の小山山山麓の熊本市 石の本遺跡で3万年前の4000点の安山岩製ナイフ形石器が発見された。また、局部磨製石器(石斧)も出土しています。
阿蘇郡下城遺跡、菊池市伊野遺跡、下益城郡曲野遺跡、人吉市狸谷遺跡があります。
2万5千年前
下益城郡松橋町 曲野人(まがのじん)は、不知火海に近い見晴らしの良い台地に滞在し旧石器を使用。
2万年前
球磨郡山江村狸谷遺跡からチャート製石器が出土しています。
BC1万年 縄文時代草創期
人吉市狸谷・白鳥平B、水俣市石飛遺跡があります。
熊本市カブト山・庵の前、菊池郡瀬田浦・牟田原、下益城郡沈目遺跡、健軍上の原遺跡、上益城郡櫛島遺跡があります。
熊本市内周辺上南部遺跡(九州の1/3)から土偶出土しています。

縄文時代早期
BC7000年 
阿蘇外輪山西方山麓地域の菊池郡大津町瀬田裏遺跡から、底の平らな押型文土器、壷型土器、石組炉跡および配石遺構等が発掘されています。
BC5000年
菊池郡大津町の無田原遺跡から約7000千年前の環状列石が20ヶ所以上も発見されました。秋田県の大湯環状列石や鹿児島県の上野遺跡よりも古く、日本の中でも最も古いのではないか。
縄文時代前期
BC4200年
鬼界カルデラの爆発により、九州全域は壊滅的な打撃をうけました。
BC4000年
下益城郡宮島貝塚、熊本市川戸貝塚、宇土市曽畑貝塚/轟貝塚があります。
宇土市の湾内遺跡から曽畑式土器が発掘。宇土市岩小曽町曽畑貝塚からドングリや瓢箪が出土しています。
縄文時代中期
BC3000年
下益城郡阿高貝塚、熊本市沼山津貝塚があります。
城南町阿高貝塚から太形凹線文がある赤褐色の阿高式土器が発掘。
縄文時代後期
BC2000年
菊池郡御手洗遺跡/六地蔵遺跡/三万田遺跡、
熊本市上南部遺跡から多量の土偶が西日本地域では珍しく発掘されています。
縄文時代晩期


BC300年 弥生時代前期
白藤遺跡から100基の甕棺墓が発見され超小型銅矛、ヒスイ勾玉、石製青銅器鋳型、小型ぼう製鏡が出土。
青銅器は菊池川・白川・緑川・筑後川・多摩川流域で発掘されています。
熊本市苗代津遺跡は江津湖に近く石包丁、弥生式土器が出土しており、熊本平野・玉名地域の湿地帯で稲作が始まった様です。
熊本平野南部の球磨郡免田町から免田式土器が最初に発掘されました。

紀元後1年
熊本市牧崎・黒髪町遺跡、菊池市外園遺跡等が築造されました。
      ”山鹿灯籠まつり”。九州御巡行の景行天皇が菊池川をさかのぼり
      山鹿に上陸しようとされたが濃霧にいく手を阻まれたため、
      里人が松明を灯して無事に案内した。それ以来里人たちは、
      そのとき行在所だった大宮神社にたいまつを毎年奉納するようになったことが
      山鹿灯籠まつりの起こりといわれている。

 

転載元: シナの恫喝に負けるな! 防災・環境・歴史・観光で平和と繁栄


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