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[転載]熊本の歴史: 日本の旧石器時代遺跡のうち、約1/3に当たる100ヶ所以上が熊本県で発見されている

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熊本の年表

熊本の年表

【年表】
神話
旧石器時代
 
阿蘇山の活動
 約9万年前まで4回の大噴火を繰り返した。その時、流出した火砕流の推積物(たいせきぶつ)は『阿蘇溶結凝灰岩(あそようけつぎょうかいがん)』とよばれ、九州地方に厚く堆積しています。


人間の活動
阿蘇山の大規模な活動が収まった、およそ3万年前以降に阿蘇地方には人間の活動の跡がみられます。


下城遺跡(しもんじょういせき) 阿蘇郡小国町
第1層黒、褐色の火山灰層
第2層明褐色の火山灰層
アカホヤと呼ばれる鹿児島・鬼界(きかい)アカホヤ火山灰が堆積していることから約6300年前と測定されます
第3層黒色の火山灰縄文時代の古い土器が出土
第4層黄褐色粘土火山灰(ソフトローム)7,000余の旧石器が出土
第5層褐色粘土火山灰(ハードローム)
姶良・丹沢火山灰(AT火山灰)が堆積
第6層硬い暗褐色粘質火山灰土(ブラックバンド)
第7層以下砂やロームで下城泥流とよばれる土層
※第5層に25,000年前と推定される姶良・丹沢火山灰(AT火山灰)が含まれていることから、5層より下から出土する石器は25,000年以前のものと考えられます。




阿蘇周辺の石器の材料
旧石器時代、縄文時代はさまざまな石を用いています。打ち割った石の、かけらのほうに手を加えた剝片(はくへん)石器を使っていますが、その際、各地の石材を選んで利用しています。

下城遺跡(しもんじょういせき)の石器
石材の種類
火成岩黒曜石(こくようせき)、角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)、ガラス質安山岩、流紋岩(りゅうもんがん)
堆積岩凝灰岩、輝緑凝灰岩(きりょくぎょうかいがん)、チャート、細粒砂岩(さいりゅうさがん)、珪質砂岩(けいしつさがん)
変成岩珪質頁岩(けいしつけつがん)、粘板岩(ねんばんがん)
※黒曜石(こくようせき)は5種類ほどにわかれます。  
・佐賀県伊万里市腰岳(こしだけ)から産出する漆黒色の良質な黒曜石  
・小国町下巣(げす)地区から産出する気泡の入った黒曜石  
・産地は不明だが、一般的に『阿蘇産黒曜石』と呼ばれる黒曜石


熊本の代表的な遺跡  
・石の本遺跡(熊本市)  
・曲野遺跡(宇城市)  
・狸里遺跡(人吉市)  
・下城遺跡(阿蘇郡小国町)
 
 
 
柿原遺跡 山鹿市鹿北町椎持
石飛遺跡 水俣市石坂川
 
  日本の旧石器時代遺跡のうち、約1/3に当たる100ヶ所以上が熊本県で発見されている。しかし、発掘調査は数ヶ所でしか行われていない。多くは阿蘇外輪山一帯や球磨地方に位置するが、水俣市の石飛分校遺跡や天草下島の内ノ原遺跡なども発掘され、その分布は県下全域に及ぶ。最も古いものは熊本市平山町の石の本遺跡から出土した石器類であり、炭素C14測定から30000年以上前のものと推測されている。
 出土数は4000点にのぼり、安山岩の破片から作られた小刀類や局部磨製石斧も見つかっている。これらや、九州が比較的自然環境に恵まれた土地であったことから、古代熊本は豊かな狩猟採集社会生活の舞台だったと推測される。
 
 しかしながら、九州は多くの火山噴火がもたらす環境の激変に何度も襲われた土地でもあった。阿蘇山・姶良山鬼界カルデラの爆発は火山灰地層を複数形成し、特に石器時代中期に見られる姶良Tn火山灰層の上下に見られる出土品の比較や、石飛分校遺跡の同層上部から見つかった細石器土器の破片などの分析を通じて火山活動が及ぼした環境や社会生活への影響が研究されている。その一方で、当時の火砕流から形成された阿蘇溶岩は、後に良質かつ豊富な石材となって肥後の石工を支えた[1]
 
 
20020426 SANKEI

後期の旧石器が43個出土 熊本・沈目遺跡


 熊本県城南町の沈目遺跡で、後期旧石器時代初頭(3万3000年-3万2000年前)のものとみられる打製石器43個が26日までに、城南町教育委員会の調査で見つかった。

 分析を担当した熊本県教委文化課の木崎康弘係長によると、石器は長さが最大約23センチで、獲物の皮をはぐスクレイパー(削器)やたたき石など。素材は主に輝緑凝灰岩とチャートで、一部は黒曜石だった。中期旧石器の特徴を残すと考えられる鋸歯(きょし)状の削器が5個ある一方で、後期から現れる台形石器に似た形状の石器が6個あった。

 石器は約2万5000年前の姶良カルデラ(鹿児島県)の噴火による火山灰層の下から出土。放射性炭素による年代測定で3万3000-3万2000年前とされた熊本市の石の本遺跡と同じ地層と判断された。

 竹岡俊樹・共立女子大講師(旧石器考古学)は、科学的に中期以前と判断できている遺跡がほとんどない現状を指摘した上で「出土した石器には中期の特徴を持つものがみられる。九州での中期から後期への変遷を考える上での基準資料になる」としている。
 
 
 
 
象ヶ鼻E遺跡 [ 詳細情報 ]:熊本県阿蘇市一の宮町中通北山
 河原第1遺跡:阿蘇郡西原村河原大野
 面木遺跡:熊本市河内町面木・松尾町平山
 谷尾崎遺跡]熊本市谷尾崎町
二重峠A遺跡]阿蘇市車帰
 下石ヶ迫遺跡:菊池郡菊陽町辛川
 二重峠:阿蘇市車帰
 河原第10遺跡 [ 詳細情報 ]:熊本県阿蘇郡西原村河原大野
 
 戸屋原遺跡 [ 詳細情報 ]:熊本県上益城郡山都町田所戸屋原
緯度経度:32.656722, 131.011417
 
 狩尾牧場L遺跡:熊本県阿蘇市狩尾
 
大観峰A遺跡:熊本県阿蘇市山田
 
 山下遺跡:岐阜県各務原市下切町3丁目
 
 象ヶ鼻J遺跡:熊本県阿蘇市一の宮町中通北山
 

 

 
縄文時代
狩りをする縄文人
貝塚の栄え
 
曽畑式土器(そばたしきどき)

宇土市岩古曽町・曽畑貝塚出土

曽畑貝塚は朝鮮半島の櫛目文土器の影響を受けた曽畑式土器の標式遺跡。
曽畑貝塚は、轟貝塚とほぼ同じか、やや遅れた時期に形成された貝塚です。貝塚に隣接した低湿地からは貯蔵穴群が発見され、これにより貝類の廃棄場所と、食物を貯蔵する場所を明確に区別して利用していることが確認できる。
曽畑式土器は蜘蛛の糸のような細い線刻で飾られた特徴のある土器。沖縄県北谷町の遺跡から発見されているほか、韓国の釜山市の遺跡からも出土。土器以外にも石器などの利器にも類似のものがあり、『曽畑人』が自由に往来していたと思われる。日本列島の土器の中では、このように広域に分布する土器はほかにない。
黒色研磨土器(御領式土器)
二子山石器製作跡(ふたごやませっきせいさくあと)
 
 
 縄文時代、熊本県下で発見された早期の遺構は、爪形文土器が発掘された人吉市の白鳥平B遺跡などわずかな例しかない。これは、約6200年前(約7300年前とも)の鬼界カルデラ爆発によって九州全土が壊滅的な打撃を受けたためと考えられている。
 しかし縄文中期には下益城郡城南町の御領貝塚・黒橋貝塚が見られ、後期になると東日本や朝鮮半島との共通点も見られる土器文化が発展した。熊本平野で発見された約13箇所の貝塚はそのほとんどが後期にあたり、現在の海抜5mあたりに位置している。宇土市の曽畑貝塚からはドングリ貯蔵の痕跡も見られ、また出土した曽畑式土器は同型のものが沖縄諸島朝鮮半島からも発見されている。
 城南町の阿高貝塚と黒橋貝塚から見つかったイタホガキ製貝面や阿高式土器は、佐賀県腰岳の黒曜石とともに、韓国釜山市東三洞(トンサムドン)貝塚からも出土している。逆に、天草市の大矢遺跡からは朝鮮半島の形式である石製結合釣り針が見つかっている。
 
 
 このような農耕の痕跡はこの他にも数箇所から見つかっている。さらに上南部遺跡(熊本市)からは土偶磨製石器の石刀などの特殊遺物が数多く出土している。県下の縄文時代遺跡は約770ヶ所を数える。
 
 
弥生時代
弥生文化と弥生土器
青銅器の製作と伝播(でんぱ)
溝に囲まれた集落
 
 
 弥生期になると場所を変え、海岸線から離れた台地上に環濠集落を形成するようになった。石斧など典型的な弥生時代遺物が発見される遺跡はやがて熊本平野全域におよび、広い範囲で稲作が行なわれたことを示している。一方、沿岸部にも同時代の小規模な貝塚が発見されている。宇城市三角町の文蔵貝塚では焼いた小さな巻貝の殻が多数見つかった。これはホンダワラを焼く製塩法の名残りであり、『万葉集』で歌われた「藻塩焼き」が行なわれていた証拠とされる。
 さらに時代が下ると、阿蘇山黒川流域や熊本平野の白川域および菊池川流域からも製鉄の遺構が発見された。槍鉋農具である先や鉄斧、また端切れと考えられる三角形や棒状などの鉄片なども見つかっている。二子塚遺跡(熊本市)からは炉跡を中心に焼土ブロック木炭、熱を受けが付着した台石など、製鉄の痕跡が出土している。また、青銅器も熊本市の徳王遺跡や泗水町の古閑原遺跡から出土した銅鏡などがある。弥生時代遺跡数約740は日本国内の13%を占める。
古墳時代
最古の古墳
古墳からみる畿内王権との関わり
方形周溝墓・円形周溝墓の流行
江田船山古墳と朝鮮半島の宝物
 
火の国の成り立ち
 初期のヤマト王権は、服属化させた地方に「県」(あがた)を置き、その地の豪族を県主に任じたと『日本書紀』にある。同紀や『筑後国風土記』には、熊本に置かれた3つの「県」が見られる。球磨県はその名称が現在も引き継がれ、閼宗県(あそけん)は阿蘇地方に対応する。
 八代県は現在の宇土地方を含むより広い領域を含んでいたと考えられる。緑川氷川に挟まれた宇土半島基部では塚原古墳群に代表される120前後の前方後円墳が発掘されているが、この中のひとつ向野田古墳(宇土市松山町)には30代と推定される未婚女性が埋葬されていた。
 これは卑弥呼に代表され、『豊後国風土記』の「比佐津媛」や『日本書紀』の「神夏磯媛」と同様に地域を統治していた巫女の存在を示すと考えられている。
 
江田船山古墳
 宇土半島基部の遺跡は、装飾文様が施された国越古墳や氷川流域の丘陵部に形成された野津古墳群などに代表され、この地域は火君(ひのきみ)発祥の地とされている。火君は地域を代表する豪族であり、『古事記』では神八井耳命(かみやいみみのみこと)の後裔として、『日本書紀』や『肥前国風土記』では熊襲討伐を果たした景行天皇一行が不思議な火に誘われて至った地で土蜘蛛退治に活躍した者の子孫として記されている。そして、この故事から「火の国」の名称が生まれたとされる。
  • この海上の火は不知火といい現在でも見ることができる。漁火の蜃気楼現象である。
 江田船山古墳から出土した大刀銘文から、火君など火の国の豪族は既に近畿の大伴物部氏と関係を持っていたことが明らかになっている。豪族のひとつ建部君(たけべのきみ)は、その名が大和朝廷から軍事的部民として名を下賜された一族で、現在は熊本市黒髪・子飼本町に相当する中世までの地名武部・竹部・建部あたりを本拠としていたと思われる。
 
 
 
 
 
 
 
 
飛鳥時代
古墳から寺へ
白村江の戦いと肥後の兵士
 

転載元: 観光立国のブログ


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