Quantcast
Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

[転載]対馬へ行こう!対馬の歴史(紀元前6800年ころ九州産の黒曜石出土〜663大和朝廷の朝鮮半島撤退〜大宰府の宗氏支配〜元・高麗連合軍の元寇(生写真もドンドン転載願います)

$
0
0
イメージ

対馬の歴史

古代〜安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治〜現代

対馬にはいつから人が住んでいたの?

 2005年10月現在、対馬で最古の遺跡は上県町の越高(こしたか)遺跡です。紀元前6800年頃の縄文時代の遺跡で、朝鮮半島の隆起文土器と、九州産の黒曜石などが同時に出土しており、その当時から朝鮮半島と九州の間で人・モノの流れがあったことを示しています。

魏志倭人伝 〜史書への登場〜

 対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

 断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。

 この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。
(写真:豊玉町烏帽子岳から浅茅湾を臨む)

白村江の戦い 〜金田城と防人〜

 古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い。当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、百済再興のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗してしまいます。
 大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、防衛のためにのろし台や防人(さきもり)が配置され、城が築かれました。美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かねたのき。667年)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
  現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、歴史のロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。
 平安時代(10世紀)に編纂された「延喜式」神名帳は、当時「官社」とされていた神社の一覧です。神名帳に記載された神社を「式内社」(延喜式内社)と呼び、古くから朝廷に認められた神社として、一種の社格になっています。
 西海道(九州)全体で107の式内社が名を連ねていますが、そのうち対馬は九州最多の29社を誇り、2位の壱岐の24社を加えると、2島で約半分を占めています。対馬・壱岐は、神道の源流のひとつといえる島々なのです。

 対馬には多くの神々が鎮座していますが、特に重要視されてきたのが、海神の娘・豊玉(とよたま)姫と、神功(じんぐう)皇后です。豊玉姫は「古事記」の海幸山幸伝承に登場する女神で、初代天皇である神武天皇の祖母にあたります。航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があり、島民に親しまれてきました。
 一方、神功皇后は懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行ったとされる勇ましい女神で、子の応神天皇とともに「八幡神」として全国の八幡神社に祭られています。神功皇后は九州北部に縁の深い女神であり、対馬にもたくさんの伝承地があります。


阿比留氏と宗氏 〜中世対馬の有力者〜

 現在の対馬でもっとも多い姓は「阿比留」(あびる)です。本土の人は「あひる」と読んでしまうこの姓のルーツは、平安時代まで遡ることができます。阿比留一族は交易などの実権を握って対馬で大きな勢力を持っていたようですが、鎌倉時代になると大宰府との関係が悪化し、惟宗(これむね)氏によって支配権を奪われます。惟宗氏はやがて宗(そう)氏を名乗り、鎌倉時代から江戸幕末まで600年続く対馬島主・対馬藩主の家系となりました。

 
  伝説では、大宰府の命を受けた惟宗重尚(これむねしげひさ)以下200騎が厳原町豆酘(つつ)に上陸し、阿比留氏と死闘を繰り広げ、美津島町鶏知(けち)で阿比留平太郎国時を討ち取り、上対馬町舟志(しゅうし)で阿比留禅佑坊を敗死させ、対馬の支配者となった、とされています。
 
 惟宗重尚は伝説上の人物であり、その武勇伝も後の世に生み出されたもののようですが、宗氏による阿比留氏追討の伝説は対馬では長く信じられてきました。
 宗氏は平氏の血をひくと自称しており、また、源平合戦で壇ノ浦に沈んだ安徳帝の子孫であるとも称し、厳原町久根田舎には安徳天皇の参考陵墓があります。宗姓を名乗ることができたのは島主・藩主だけであったため、現在島内に宗姓の人はいません。
 ちなみに阿比留氏は、上総国安蒜(あびる)庄の出身であるとか、蘇我氏の末裔であると称しており、対馬で最も多い姓となりました。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

元寇 〜国境の島を襲った悲劇〜

  阿比留氏に代わって対馬を統治することになった宗氏ですが、鎌倉時代から江戸幕末まで続くその治世は決して平坦なものではありませんでした。1274年、宗資国(助国)の時代には、元寇軍3万3000(蒙古2万5000・高麗8000)のうち約千騎が小茂田浜(こもだはま。現在の金田小学校周辺とされている)に上陸、それを迎え撃った資国以下80余騎が全滅しています。
 宗資国の首と胴体は、お首塚・お胴塚に別々に埋葬されており、戦いの激しさを伝えています。

 対馬に上陸した元・高麗連合軍は暴虐の限りを尽くし、島人は未曾有の惨状に巻き込まれました。

文永の役

筥崎宮伏敵門の扁額『敵國降伏』
公家広橋兼仲の日記『勘仲記』(11月14日条)によると、文永の役最中と思われる時期に筥崎宮は火事により焼失したという[125]。この「敵國降伏」の扁額は、文永の役後の社殿再建時に亀山上皇により寄進された宸筆のものと伝えられる。

元・高麗連合軍の出航

元軍の雲版
雲版とは寺院において時間を知らせるために打ち鳴らす道具。元軍が銅鑼として使用したものと伝わる。雲版の表面には、鋳造年に文永の役の3年前である「至元八年(1271年)五月日 造」との年号が刻まれている。
筥崎宮所蔵
元軍の雲版(裏面)
裏面にも凡字・漢字で「完全に勝破せよ」という意味の一節などが仏教において用いられる呪文の一種である真言陀羅尼から引用されている。
筥崎宮所蔵
  • 1274年文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)[126]を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[127]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した。
 
 
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126~300艘、上陸用快速船艇の抜都魯(バートル:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた。

対馬侵攻

 『八幡愚童訓』によると、対馬守護代宗資国は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。元軍は対馬に入ると、島人を多く殺害した。
 同日、宗資国は元軍の襲来を伝達するため、小太郎兵衛次郎(ひょうえじろう)らを博多へ出航させていた。
 この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
『日蓮書状』、高祖遺文録
 この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書状にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。
 この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。
 元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している。
 
 
 イメージ
 
 
 
イメージ
 
元寇650年の碑
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
イメージ
 
元寇上陸の地 小茂田浜
 
イメージ
 
 
 
 イメージ
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
イメージ
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 樋口〇〇作

一.
頃は文永十一の    浪の花立つ神無月
傲慢無礼の蒙古勢  海をおおうて寄せ来る
助国公を始めとし   一族郎党おしなべて
忠義一途の対馬武士  頼む心の一すじは
霰たばしる真剣ぞ   踏み迷わじ万張?の
月は照りその神前に 一歩も入れじとただ進め
進め勇めの号令よ  吶威?一声いかづちの
天地に響くばかりなり

二.
智勇仁義の名将の  下弱卆のあるべきぞ
忠臣心をあつめつつ 御陵威を楯となり
きらめく剣に将を?り とどろく蹄に旗を抜き
死して忠戦の鬼となるも 生きて異国の奴なる?
寸歩も去らず戦?    敵は竹葦と攻め囲み
流石武勇の英将も  いとも手痛き戦いに
五丈?頭星落ちて  ?なお暗きなりにけり?


三.
中にも斉藤資定は、二つの腕はたたれても
忠義の二字は凛然と 大喝 敵をしりぞけて
顔を岩にふれて死す 散りきわ潔き山桜
大和心に?みしらは 小茂田の浜を落ちていく
若葉の木の光こそ  実に国民の基盤なれ
 
 
四・・・・?誰かお教え願います
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 イメージ
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
 

壱岐侵攻

 壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、平景隆は樋詰城で自害する。
 『高麗史金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
 元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。高麗軍の将である朴之亮及び金方慶の娘婿の趙卞はこれを蹴散らすと、敗走する日本兵を追った。
 蒙古・漢軍の右副元帥・洪茶丘とともに朴之亮や趙卞ら高麗軍諸将は、日本兵を1,000余り討ち取ったという。
 日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」と記している。
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。

 68歳であった宗資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭には、宗氏と家臣の子孫たちが甲冑に身を固めて参加し、海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀式が行われます。
熊本県の菊地神社資料館より
御首塚
イメージ
 
 
元軍の撤退後、対馬を中心とする倭寇の活動が激しくなり、高麗朝を滅ぼす原因のひとつとなりますが、背景には元寇への復讐という意味と再び元寇が起きないようにする防衛の意味がありました。

倭寇 〜海賊たちの時代〜

 13世紀から16世紀にかけて、東アジア一帯で猛威をふるったのが「倭寇」(わこう)と言われる海賊集団でした。倭=日本人等、寇=侵略、であり、北九州(対馬・壱岐など)や瀬戸内海の漁民・豪族及びアジア人により構成されていたと考えられています。
 古来よりこれらの地域では海外との交易が盛んでしたが、卑劣な侵略である元寇への報復の意味及び防衛のためであり、日本・朝鮮の中央政府が弱体化したり、戦争や対外的な緊張により交易ができなくなると、盛んに行為を行うようになりました。
 倭寇の行為は熾烈をきわめ、それが高麗王朝の滅亡を早めたと言われています。

 倭寇に悩まされた李氏朝鮮は、倭寇の本拠地とされた対馬の武力鎮圧を試みたり(1419年応永の外寇)、食料が自給できないことが海賊行為の原因であると推察し、対馬の有力豪族や対馬島主である宗家に官位を与え、貿易を認める等の懐柔策を取ります。
 1443年(嘉吉3年)には宗家と李氏朝鮮の間で嘉吉条約(貿易協定)が結ばれ、これより宗家は朝鮮との貿易権をほぼ独占することになり、また、室町幕府と明国の間で勘合貿易が行われるようになったため、倭寇の活動は次第に下火になっていきます。
 後期倭寇は、明国の海禁政策(貿易制限)によって生活手段を奪われた中国人・ポルトガル人・イスパニア(スペイン)人・博多の商人などが中心となっており、正確には「倭=日本」寇とは呼べないものである。

 対馬市美津島町の西部にある尾崎地域は、一大勢力であった早田氏の拠点の一つでした。尾崎の北端にある水崎遺跡の発掘の結果、陶磁器の9割近くは朝鮮製で、その他に東南アジア製の陶器等も見つかっており、早田氏が朝鮮・中国・東南アジアにいたる広い交易圏を持っていたことをうかがわせます。

 

朝鮮出兵と和平交渉 〜宗義智の人生〜

 宗家宗義智(そう よしとし)は、豊臣秀吉による朝鮮出兵と、徳川家康による和平交渉という最も困難な時代に生きた島主でした。天下統一を果たした秀吉が次に目指したのが大国・明の支配であり、宗義智や小西行長の反対を押し切り、朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)が計画されます。
 先導役を命じられた義智は、義父でもある行長の密命を受け、水面下でさまざまな和平交渉を行ったと言われています。日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥れますが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされます。

 朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となります。関ヶ原の戦いにおいて、義智は義父の行長とともに西軍(三成方)に味方しますが、小西行長は敗戦後に処刑、義智の妻であった行長の娘マリアは離縁され、長崎で一生を終えたと言われています。義智は、家康によってお咎め無しとされ、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられます。
 李氏朝鮮は強硬に拒絶しますが、北方で勢力を拡大していた女真族への防備の必要もあり、家康から先に国書を通じること等を条件に通信使の派遣を承諾し、1607年に最初の通信使(回答兼刷還使)が派遣されます。

 秀吉の朝鮮出兵、妻との離縁、戦後の和平交渉など苦難に満ちた人生を送った宗義智は、江戸幕藩体制においてその功績を認められ、初代対馬藩主として元和元年(1615年)、その波乱に満ちた生涯を終えました。

 父・義智の苦労を偲んだ宗義成によって菩提寺が建立され、義智の法号から万松院と名付けられました。義智の妻マリアはキリシタンでしたが、厳原町の八幡神社の末社である今宮若宮神社に祀られています。

 
古代〜安土桃山時代 | 江戸時代 | 明治〜現代



考古学的に見ると、対馬の中心地は各時代で少しずつ移動したように見える。

・縄文時代 … 上県町〜峰町 → 越高遺跡、志多留貝塚、佐賀貝塚など
・弥生時代 … 峰町〜豊玉町 → 三根川流域の井手壇、高松壇、浅海湾岸のシゲノダン遺跡など
・古墳時代 … 鶏知周辺 → 根曽古墳や出井塚古墳などの前方後円墳
・古  代 … 国府(厳原)

動画
【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略①
 
http://www.youtube.com/watch?v=rvyl8TvlIjk&feature=fvwrel



Hojo Tokimune Second Mongol Invasion
 
http://www.youtube.com/watch?v=TLJIBDHDj9M&feature=related

Hojo Tokimune Munemasa Died for Japan 北条 宗政
 
http://www.youtube.com/watch?v=UjKWvP92Ous&feature=related
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
イメージ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ

転載元: 海洋文化交流のブログ


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1050

Trending Articles