丸島鯨学校跡(まるしまくじらがっこうあと) 水俣市
所在地
水俣市丸島町
解説
鯨学校
丸島港は水俣市役所から南西へ2kmほどに位置した、水俣市の中心的な漁港です。この丸島港を臨む畑の一角に「史跡 丸島鯨学校跡」の小さな碑が建っています。残念ながら学校の詳しい資料は残されておらず、詳細については分からないことが多いのですが、開校のいきさつなどが語り継がれ、『みなまたのむかしばなし』などで紹介されています。
『新水俣市史 民俗・人物編』は、丸島鯨学校設立に関するエピソードとして次のように紹介しています。
明治17、8年(1884、85年)ごろ、台風による激しい風雨、高浪が丸島沖を襲い、台風が去った翌朝、波打ち際の砂地に一頭の鯨が小山のように横たわっていました。このことは急ぎ村人に知らせられ、思いがけない海の恵みに村中が喜びにわきました。
予想を上回る額に達した鯨の売上金は鯨発見の祝宴費用や各家庭への分配金に充てようということになり、厳しい生活をおくっていた村人は大方その意見に賛同しました。しかし、第一発見者の江口ルイ(オルカ婆さん)は、「これは神様が丸島の村に下さったお金だから、私ごとに使ってしまっては神様の意に反するのではないか、それより丸島から立派な若者を出すために学校を建てたらどうだろう」と村人を説きめぐりました。
その村を思う熱心な説得に村人たちは同意して、学校をつくることが決まりました。明治5年(1872年)の学制公布を受け、水俣にも学校はありましたが(袋小学校が最初)、通うことができるのは比較的裕福な家庭の子どもに限られていました。小さいながらも村人の総意で建てられたこの学校は「鯨学校」の愛称で親しまれ、明治30年(1897年)ごろまであったといいます。江口ルイには、県知事から学校を設立した功を賞して、賞状と金杯が贈られたということです。
現在でも丸島地区ではいかかご漁業や刺し網漁業などを中心に漁業が営まれ、水俣一の漁港として当時の面影を伝えています。しかし港湾の改修工事が進み、鯨学校は小さな碑にその跡をとどめているのみです。
参考文献
寺本哲往 編・発行 『みなまた郷土物語集』 1956年
水俣市史編纂委員会 編 『新水俣市史 民俗・人物編』 水俣市 1997年
水俣市史編纂委員会 編 『新水俣市史 民俗・人物編』 水俣市 1997年
周辺情報
周辺には湯の児温泉・湯の鶴温泉などがあり、近くの見どころとしては市立水俣病資料館・エコパーク・竹林園・徳富蘇峰生家・徳富蘇峰記念館・塩釜神社などがあります。