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[転載]12月8日は大東亜戦争開戦記念日、ハーバート・フーバー第31代米大統領はルーズベルトを「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判、侵略戦争ではなく自存自衛戦争

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12月8日は、大東亜戦争開戦記念日です。
 
ククリット・プラモード(タイ元首相)
 
日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあった為である。
128日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大決意された日である。更に815日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの2つの日を忘れてはならない。
 
大東亜戦争までの時代背景をみると、アメリカなど白色帝国主義国家による植民地支配や、白人社会に有色人種差別意識がありました。
 
日清戦争当時、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は黄色人種(具体的には日本人)の進出によって、今後白色人種に災禍がもたらされるとする黄禍論(Yellow Peril)を唱えました。
 
この黄色人種脅威論は白人国家に広がり、白人社会に存在した人種差別意識や有色人種に対する嫌悪感により支持されると共に、警戒感を造成しました。
 
日露戦争では、白人諸国がロシアの勝利を予想したにもかかわらず、日本はロシアを打ち破りましたが、これは近現代史上初めて白人が有色人種に敗れたことでした。
 
インドのジャワハルラル・ネール(後のインド首相)

小さな日本が大国ロシアに勝ったことは、インドに深い印象を刻み付けた。日本が最も強大なヨーロッパの一国に対して勝つことができて、どうしてそれがインドに出来ないといえようか。だから日本の勝利はアジアにとって偉大な救いであった。インドで我々が長い間捕らわれていた劣等感を取り除いてくれた。
 
日露戦争で、アジアの小国の日本が勝利を収めたことにより、白人国家は日本が白人による世界支配体制を脅かす存在になると考え始めました。
 
昭和初期、米国はフィリピンを、英国はインド・ビルマ・マレー半島を、フランスはインドシナを、オランダはインドネシアを植民地支配していました。
 
アジアが白色帝国主義諸国により植民地支配される中、唯一の独立国は「日本」でした。
 
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※枢軸国のタイ王国を独立国と考えるかは、二重外交や戦後処理問題など、各々の判断にお任せ致します。
※大東亜戦争の期間は、靖国神社では「支那事変」と12月8日よりを「大東亜戦争」と分けて英霊を祀っています。
 
反日勢力は大東亜戦争を日本の侵略戦争だと歴史を捏造していますが、大東亜戦争とは日本が生きるために行なった自存自衛戦争でした。
 
米第32代大統領、フランクリン・ルーズベルトは、対独戦に参戦する口実を欲しがっていたことから日本を戦争に追い込んだのです。
 
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ハーバート・フーバー第31代米大統領は、ルーズベルトを、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』だった」と批判していました。
 

真珠湾攻撃70年「ルーズベルトは狂気の男」フーバー元大統領が批判

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日本軍による米ハワイ・真珠湾攻撃で、黒煙を上げる米海軍の戦艦アリゾナ(ロイター)

【ワシントン=佐々木類】ハーバート・フーバー第31代米大統領(1874~1964年)が、日本軍が1941年12月8日、米ハワイの真珠湾を攻撃した際の大統領だったフランクリン・ルーズベルト(第32代、1882~1945年)について、「対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込む陰謀を図った『狂気の男』」と批判していたことが分かった。

 米歴史家のジョージ・ナッシュ氏が、これまで非公開だったフーバーのメモなどを基に著した「FREEDOM BETRAYED(裏切られた自由)」で明らかにした。

 真珠湾攻撃に関しては、ルーズベルトが対独戦に参戦する口実を作るため、攻撃を事前に察知しながら放置。ドイツと同盟国だった日本を対米戦に引きずり込もうとした-などとする“陰謀説”が日米の研究者の間で浮かんでは消えてきたが、米大統領経験者が“陰謀説”に言及していたことが判明したのは初めて。

 ナッシュ氏の著書によると、フーバーは第33代大統領のトルーマンの指示で戦後の日本などを視察。46年に訪日し、東京で連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥と会談した。その際、フーバーはマッカーサーに対し、日本との戦争は「対独戦に参戦する口実を欲しがっていた『狂気の男』の願望だった」と指摘。在米日本資産の凍結など41年7月の経済制裁は「対独戦に参戦するため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだ」と語ったという。

 マッカーサーも、「ルーズベルトは41年夏に日本側が模索した近衛文麿首相との日米首脳会談を行い、戦争回避の努力をすべきだった」と批判していた。

 著書ではフーバーが「米国から日本への食糧供給がなければ、ナチスの強制収容所並みかそれ以下になるだろう」とマッカーサーに食糧支援の必要性を説いていたことも詳細につづられており、フーバーの対日関与の功績に光を当てるものにもなっている。

 ナッシュ氏は「この著書が、今でも米国の英雄とされているルーズベルト大統領への歴史評価を見直すきっかけになってほしい」と話している。
産経新聞 2011年12月7日

 
ルーズベルト大統領は不戦を公約に掲げていたので、日本から攻撃をさせるように工作をしました。
 
日本による戦争回避を潰すために、フライング・タイガースによる日本軍への攻撃計画・ABCD包囲網による日本の資源断ちをしました。
 
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日本は、日米交渉で和平努力をしていました。
 
しかし、昭和16年11月26日、米国側当事者、コーデル・ハル国務長官から日本側に提示された交渉文書「ハル・ノート」により和平を断念しました
 
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ハル・ノート
 
62、激怒、安堵、絶望、喝采のハル・ノート
 
(昭和16年11月)二十七日、ハル・ノートに接した我が国政府軍部首脳は直ちに連絡会議を開いたが、出席者全員がアメリカ政府の強硬な態度に衝撃を受け、落胆し、和平交渉の前途に絶望した。東京裁判において東郷は、
 
「ハル・ノートは日本に、支那・仏印からの撤兵を要求していた。さらに三国同盟を死文化する条項も含んでおり、日本が之を受諾すれば、三国同盟を日本から破棄する事になり、国際信義の問題となる。この問題を除外しても、日本がハル・ノートを受諾して撤兵し、警察官までも即時引揚げる事になれば、中・南支でも日本がそれまでした事はすべて水泡に帰し、日本の企業は全部遂行できない事になる。また、南京政府に対する日本の信義は地に墜ち、地方での排日・侮日感情は強くなり、日本人はこの地方から退去しなければならなくなる。
さらにハル・ノートは満洲方面についても同じ事を要求しており、従って日本は満洲からも引揚げなければならなくなり、その政治的影響は自ずから朝鮮にも及び、日本は朝鮮からも引揚げなくてはならない事になる。
換言すれば、日本の対外情勢は満洲事変前の状況よりも悪くなり、ハル・ノートは日本が日露戦争以前の状態になるような要求である。
これがすなわち東亜における大国としての日本の自殺である。ハル・ノートは日本に対し全面的屈服か戦争か、を迫るものと解釈された。
もしハル・ノートを受諾すれば、日本は東亜における大国の地位を保持できなくなるのみならず、三流国以下に転落してしまうのが、ハル・ノートを知る者全員の一致した意見であった。従って、日本は自衛上戦争する外ないとの意見に一致した。
 
と証言し、さらに東條は、キーナン検察官から「証人はハル・ノートを見た事があるか」と質問された際、「これはもう一生涯忘れません」と、ハル・ノートの内容を知った時の驚き、失望、怒りを一言の下に表した。
【国民のための大東亜戦争正統抄史1928-56戦争の天才と謀略の天才の戦い6066東條内閣の和平努力】抜粋
 
 
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大東亜戦争への道
 
東郷茂徳は東京裁判の口述書でその時の我方の反応を
「ハル・ノートに対する出席者全員の感じは一様だったと思う。米国は従来の交渉経緯と一致点を全て無視し、最後通牒を突きつけてきたのだ。我々は、米側は明らかに平和解決の望みも意思も持っていないと感じた。蓋しハル・ノートは平和の代価として日本が米国の立場に全面降伏することを要求するものであることは我々に明らかであり、米側にも明らかであったに違いないからだ。
日本は今や長年の犠牲の結果を全て放棄するばかりか、極東の大国たる国際的地位を棄てることを求められたのである。これは国家的自殺に等しく、この挑戦に対抗し、自らを護る唯一の残された道は戦争であった
と述べている。
 
これは軍部の見解ではなく、文官たる外務大臣の意見であることに注意すべきである。無論、東條首相の宣誓供述書も殆どこれと同趣旨である。即ち連絡会議の結論は(1)ハルノートは明らかに最後通牒であり(2)米国は我国が受諾できない事を知りつつ、しかも関係国との緊密な了解の上に通知してきて居り(3)米側はすでに対日戦争を決意しているが如くである。
中村粲「大東亜戦争への道」抜粋
 
当時、日本は石油の80%をアメリカから輸入し、残りの20%を英国とオランダから輸入していました。

これら3カ国が日本に石油を売らなければ、日本は滅亡したのであり、日本に石油を売らないということは、「日本に死ね」と言うのと同じことでした。

日本がハル・ノートを受け入れ、日本が支那や満州から撤退していたら、日本では失業者が溢れ、夥しい数の日本人が餓死などで死んでいたでしょう。

そして、亜細亜の大国の地位を失い、小国に転落すれば、米国・ソ連に植民地支配されていたでしょう。
 
英国に植民地にされたアイルランドの人口は、1841年の820万人が1911年には444万人と約半分になりました。
 
1939年
7月、米国が日米通商航海条約を破棄
1940年
1
月、米国が錫、屑鉄の対日輸出額を前年度の半分にすると通告 
6月、米国が工作機械の対日輸出を禁止
7月、米国が航空機用ガソリンの東半球への輸出を禁止
9月、米国が屑鉄の輸出を全面禁止
1941年
4月、日米交渉開始
7月、ルーズベルト大統領など米国首脳がフライング・タイガーによる日本本土爆撃計画に署名
7月、米国が在米日本資産を凍結
8月、米国が対日石油輸出を全面禁止
9月、日本は帝国国策遂行要領
10月、東條英機内閣発足、「帝国国策遂行要領」を白紙に和平努力
11月26日、米国がハルノート提示
12月8日、真珠湾攻撃・マレー半島侵攻、日本政府による対米英宣戦布告
  
1941年(昭和16年)12月8日、日本は独立国として自存自衛のために開戦をしました。
 
12月8日午前1時30分(日本時間)、日本は英領のマレー半島に侵攻しました。
 
日本による奇襲攻撃とされたハワイ真珠湾攻撃は、12月8日午前3時19分(ハワイ時間7日7時49分)からです。
 
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米国は真珠湾攻撃より1時10分前の6時40分、アメリカ領海で日本海軍の潜水艦を米国駆逐艦ウォード(ワード)号が攻撃して撃沈しています。
 
このことは、「米国海軍ヒューウィット調査機関提出書類75」(1945年6月7日)にも記されています。
 
シーボルト米国少将
アメリカの駆逐艦ウォード号は、奇襲以前に日本の特殊潜航艇を撃墜している。根拠はルーズベルト大統領の、「すでに日本との外交交渉は終わった。これからは諸君の手で解決されなければならない」という通告に基づいて。
「真珠湾の審判」より
 
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米国駆逐艦ウォード(ワード)号
 
 
アメリカ陸軍スチムソン長官の日記
「ハワイで我々を攻撃したことで、今やジャップは問題の全てを解決してくれた。これで全米国民が危機感を覚え、一致団結の機運が生まれた。」
 
英国軍需生産省オリバーリットルトン
「米国が戦争に追い込まれたというのは歴史の改作狂劇である。米国が、日本をして次のごとき限界まで追い込んだからだ。すなわち日本人は真珠湾において、攻撃するのを余儀なくされるまでアメリカに強圧されたのである」
1944年6月20日、ロンドンの米国商業会議より
 
キンメル米国大将
「アメリカ政府が日本の野村大使に手交した対日通告は、以後の日米交渉の可能性に事実上の終止符を打ったものであり、したがって太平洋戦争を避けえられないものにしてしまった」
「真珠湾の審判」より
 
マーシャル米国大将
「アメリカ側からさきに攻撃を開始すれば国論は分裂の恐れがあったから、外交の手続き上で、日本をして先に手出しを出させる必要があった。それではどう云う手を打つべきかについては、ハルが大統領のために準備すべきであると決定された」(ハルノート手交前日の戦争諮問委員会に出席。他のメンバーはルーズベルト、ハル、ノックス、スチムソン、スターク)
1946年4月9日査問委員会より
 
2013年4月23日、安倍総理大臣が参院予算委員会で村山談話に関連し、『侵略の定義は学会的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちらから見るかで違う』と答弁しました。
 
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この、「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない」とは事実です。
 
当時の「侵略」を禁止したパリ不戦条約は、自衛戦争を認めていました。
 
同条約に、「自衛権は、関係国の主権のもとにある領土の防衛だけに限られてはいない。そして本条約のもとにおいては、自衛権がどんな行為を含むかについては、各国みずから判断する特権を有する。」とする留保があります。

つまり、当時の国際法では、戦争当事国が「この戦争は侵略戦争ではなく自衛戦争だ」と判断すれば、その戦争は侵略ではないことになっていたのです。
 
大東亜戦争終結後の日本は、本当の侵略者である戦勝国と、反日勢力が捏造した歴史を洗脳されています。
 
反日左翼は、大東亜戦争開戦を軍部による暴走と主張して、天皇陛下の戦争責任を追及しています。
 
当時の日本人が戦った大東亜戦争とは、決して侵略戦争ではなく、日本の自存自衛戦争でした。
 
日本が戦わなければ、アジア諸国の独立は何十年後に実現したかも分からないのであり、アジア解放のための聖戦でもあります。
 
ジャワハルラルネールインド首相の妹のパンデイット夫人は、1945年にアメリカを訪れた際、「太平洋戦争は本質的には人種戦争だ」と述べました
 
【動画】
 
凛として愛(5/7)
 
日本海軍軍令部総長の永野修身大将
「戦うもまた亡国であるかも知れぬ。だが、戦わずしての亡国は、魂を喪失する民族永遠の亡国である。たとえいったん亡国となるも、最後の一兵まで戦い抜けば、われらの児孫はこの精神を受け継いで再起三起するであろう。」
 
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【動画】
 
大東亜戦争 その歴史的意義 FLASH
http://www.youtube.com/watch?v=m8o_Y6ekPcA
 
「大東亜戦争開戦の真実」4-1(H18.12.6)
 
歴史とは勝者が作るものでも勝者が正義とは限らないのであり、日本の和平努力・戦争回避を潰して日本に自殺を求め、開戦に追い込んだのは米国です。
 
日本は侵略国ではない!
 
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転載元: 近野滋之Blog『民族主義者の警鐘』


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