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倭寇のメンバーについては、朝鮮人の割合が圧倒的となっていたという記録が残っている

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前期倭寇と後期倭寇
倭寇の歴史は大きく見た時に前期倭寇と、過渡期を経た後期倭寇の二つに分けられる。
 

前期倭寇

 前期倭寇が活動していたのは14世紀、日本の時代区分では南北朝時代から室町時代初期、朝鮮では高麗から朝鮮王朝の初期にあたる。
 日本では北朝を奉じて室町幕府を開いた足利氏と、吉野へ逃れた南朝が全国規模で争っており、中央の統制がゆるく倭寇も活動し易かった。前期倭寇は日本人が中心で、元寇に際して軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された対馬壱岐・松浦・五島列島などの住民が中心であり、「三島倭寇」と総称された。
 朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する地方の私軍による復讐の意味合い、および、再度の侵攻への予防という側面もあったと考えられる。また、これらの地域では元寇による被害で労働力不足に陥り農業生産力が低下したために、これを補完する(奪還する)目的があったとも考えられている。
 その証拠として前期倭寇の初期においては、朝鮮半島で唯一稲作が盛んに行われていた南部の沿岸地方を中心に襲撃し、食料や人間を強奪していることが挙げられる。さらには、連れ去られた家族を取り戻すためであった事例もあり、実際に家族と再会した記録も残っている。
 
 1370年代の前期倭寇の行動範囲は朝鮮北部沿岸にも及び南部では内陸深くまで侵入するようになった。
倭寇の被害を中心的に受けていた高麗では1376年には崔瑩が鴻山で、1380年には、李成桂が荒山、崔茂宣羅世が鎮浦で、1383年には鄭地らが南海島観音浦で、倭寇軍に大打撃を与え、1389年朴葳による対馬国侵攻では、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜を救出し、その後、町を焼き討ちして帰還した。これ以降倭寇の侵入は激減する。
 倭寇討伐で名声を得た李成桂は、高麗王朝を倒して李氏朝鮮を建国した。倭寇の勢力は著しく衰退したものの、朝鮮への侵入が完全になくなることはなかった[1]。しかし1419年に朝鮮王朝が軍を対馬に送って倭寇を撃破(応永の外寇)したことと、同年に遼東半島で明軍に敗れたことが致命傷となった。
 
 応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。清の徐継畭の『瀛環志略』や李氏朝鮮の安鼎福の『東史綱目』には、倭寇の原因は日本に対する侵略行為を行った高麗人(朝鮮人)への報復である、と記述されている。
 
 中国では1368年に朱元璋王朝を建国し、日本に対して倭寇討伐の要請をするために使者を派遣する。使者が派遣された九州では南朝の後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮懐良親王が活動しており、使者を迎えた懐良は九州制圧のための権威として明王朝から冊封を受け、「日本国王」と称した。その後幕府から派遣された今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、南朝勢力は衰微し室町幕府将軍の足利義満が南北朝合一を行うと、義満は倭寇討伐を行い、新たに「日本国王」として冊封され、勘合貿易が行われる。
 前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名日明貿易の独占や対馬と朝鮮の間の交易再開、李成桂による征討などによって下火になっていく。

後期倭寇

 日本では1523年に勘合を巡って細川氏大内氏がそれぞれ派遣した朝貢使節が浙江省寧波で争う寧波の乱(寧波争貢事件)が起り、勘合貿易が途絶すると倭寇を通じた密貿易が盛んになり、さらに中央で起った応仁の乱により混乱状態が戻ると、再び倭寇の活動が活発化する。
 
 後期倭寇の中心は私貿易を行う中国人であったとされ、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも記述されている。ただし少ないながらもこれら日本人は、当時日本が戦国時代であったことから実戦経験豊富なものが多く、戦争の先頭に立ったり指揮を執ることで倭寇の武力向上に資していた。
 
 この時期も引き続いて明王朝は海禁政策により私貿易を制限しており、これに反対する中国や朝鮮の商人たちは日本人の格好を真似て(偽倭)、浙江省の双嶼福建省南部の月港を拠点とした。
 これら後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、後期にはポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や、日本の博多商人も関わっていた。
 
 後期倭寇の頭目には、中国人の王直徐海李光頭許棟などがおり、王直は日本の五島列島などを拠点に種子島への鉄砲伝来にも関係している。1547年には明の将軍である朱紈が派遣されるが鎮圧に失敗し、53年からは嘉靖大倭寇と呼ばれる倭寇の大規模な活動がはじまる。こうした状況から明朝内部の官僚の中からも海禁の緩和による事態の打開を主張する論が強まる。
 その一人、胡宗憲が王直を懐柔するものの、中央の命により処刑した。指導者を失ったことから倭寇の勢力は弱まり、続いて戚継光が倭寇討伐に成功した。
 
 しかし以後明王朝はこの海禁を緩和する宥和策に転じ、東南アジアの諸国やポルトガル等の貿易を認めるようになる。ただし、日本に対してのみ倭寇への不信感から貿易を認めない態度を継続した。倭寇は1588年に豊臣秀吉が倭寇取締令を発令するまで抬頭し続けた。これが豊臣秀吉による文禄・慶長の役の一つの伏線となる。

倭寇以後の東アジア海上世界

 豊臣秀吉の海賊停止令により、倭寇の活動は一応は収束をみるが、東アジアの海上世界では林道乾林鳳(リマホン)、明を奉じてに抵抗した鄭芝竜鄭成功の鄭一族などが半商半海賊的な存在で、倭寇ではないが同時代の海上勢力である。
 日本の海賊といえば鎌倉時代から室町時代にかけて、東シナ海や黄海を暴れまわった倭寇が有名だ。
 倭寇は海賊とは言っても元々は密貿易を本業としていた連中だが、明国政府、幕府の取り締まりや、さらに他の海賊との間の抗争などもあって、次第に武装集団化して海賊になったものと見られる。

 倭寇には前期と後期によってその構成員や活動目的、範囲などが変わってくる。前期倭寇は13世紀終わりから14世紀に活躍し、日本人が主要メンバーであった。
 前期でも初期段階の倭寇集団は、対馬・壱岐・松浦・五島列島などの住民たちと元寇の役で経済的窮乏で没落した武士団が倭寇の興りである。
 彼らは元寇に際して、元軍とその支配下にあった高麗軍によって住民を虐殺された被害者とその遺族であった。彼らを「三島倭寇」と総称された。

 朝鮮半島や中国沿岸に対する海賊行為は、元寇に対する被害地方の復讐行為と考えられる。清の徐継畭の「瀛環志略」や李氏朝鮮の安鼎福の「東史綱目」には倭寇の発生原因は、日本人による元寇への報復であったという記述がある。

 高麗王国はこの倭寇によって衰退させられた。
 高麗を攻撃した倭寇は既に海賊という規模ではなく、数千人規模の騎兵隊や武装歩兵軍団で構成され、今でいう海兵隊のような軍隊規模の組織であったらしい。
 おそらくこれほどまでに朝鮮半島内部まで荒らしまくったのは、元寇での被害が想像を絶するほど、筆舌に尽くしがたいものがあったことを物語っている。
 これに対して高麗も黙っていたわけではなく、何度も倭寇殲滅作戦を敢行している。対馬は倭寇の根拠地だったこともあり、対対馬倭寇掃討作戦を実施して成果もだしている。
 しかし、結果的には倭寇討伐軍司令官の李成桂が弱体化した高麗をほろぼし、李氏朝鮮を成立させた。
                       
                                高麗史から見た前期倭寇の出現図

 それにしても地方の田舎の住民集団が一国の王国を滅亡に導くほど、軍事的に強力であったのは驚きである。
 もっとも西国豪族の武士団が中核となっていたはずだから、今風に言えば、海軍軍閥であったのだろう。
逆に高麗王国はそれほど軟弱なヘタレ国家だったのだろうか?
                                
 14世紀終わりから15世紀になると朝鮮人が倭寇の中心になる。彼らも相変わらず、自国なのに李氏朝鮮王国を荒らし始める。
 15~16世紀にはいると、後期倭寇の主要構成員は朝鮮人から中国人に代わっていく。明国は朝貢貿易しか認めず海禁令を敷いて海外貿易を自由にさせなかった。このことが密貿易を盛んにさせる原因となった。
日本人は約3割以下だったが、当時日本は戦国時代だったこともあり、武士崩れの浪人達が中国人などの密貿易商人の指導をしていた形跡もある。




                倭寇図巻明軍(左)と倭寇(右)の海戦


 中国人や朝鮮人が主体なのに倭寇という言い方はおかしいが、初期倭寇が高麗王朝を衰退させるくらいの強力な海賊だったので、当時の朝鮮や明国の沿岸部では「倭寇」という名前そのものが恐怖の代名詞だった。
それで朝鮮人や中国人はお得意の「虎の威を借るキツネ」の如く、自ら倭寇を名乗ったのだ。

 倭寇は豊臣秀吉の倭寇取り締まり令(1588年)の発令でようやく活動を弱めた。李氏朝鮮もこの時代までずっと倭寇対策が国の重要安保政策だった。
 もっともこの時代は中国人が主体だが、日本の戦国浪人や博多商人や朝鮮人さらには、スペイン、ポルトガルの商人や船員崩れなども加わり、多国籍海賊になっていた。
 しかも当時の最新兵器である鉄砲も装備し、中には大砲も装備した軍艦仕様のものもあったらしい。
       http://ryotaroneko.ti-da.net/e2202547.html
イメージ 1
倭寇の回数推移(田中健夫著「倭寇と勘合貿易」所蔵の統計より
 
 
 
 
田中健夫氏の倭寇の回数のグラフを見ると、倭寇の回数が急増するのは14世紀の後半からだ。これは元寇のあった13世紀後半とは、年数が離れ過ぎてはいないだろうか。私は『明史』日本伝に次の様に記述されているこの部分をもっと注目して良いと思うのだ。
「明が興り、太祖高皇帝(朱元璋)が即位し、方国珍・張士誠らがあい継いで誅せられると、地方の有力者で明に服さぬ者たちが日本に亡命し、日本の島民を寄せ集めて、しばしば山東の海岸地帯の州県に侵入した。」(講談社学術文庫『倭国伝』p.394)

中国の正史にこのように明記されている記述を、なぜ歴史家は無視するのだろうかと不思議に思う。『明史』の記述の正しさは、上記グラフで1368年頃から倭寇の回数が急増しているのをみれば明らかである。

倭寇ルート

倭寇の構成は、それから時代を経るにつれて日本人主体から、中国人、高麗人主体に移っていくと多くの本に書かれているのだが、なぜこの特定時期に回数が増えた背景については、『明史』を読んではじめて納得した。
しかし教科書では、途中から倭寇の主体が日本人ではなくなって行くことがはっきり書かれておらず、そのために多くの人が、この時期の日本人が朝鮮半島で海賊行為を繰り返していたかのような印象を持ってしまうのは残念なことだと思う。

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-47.html
 
 
 高麗は倭寇が原因で国力を弱め1392年に李成桂に滅ぼされることになるのだが、その後の倭寇のメンバーについては、朝鮮人の割合が圧倒的となっていたという記録が残っている。
 
 朝鮮王朝実録の『世宗実録』114卷二十八(1446年丙寅)十月壬戌条(10月 28日 (壬戌))には、
「臣聞前朝之季、 倭寇興行、 民不聊生、 然其間倭人不過一二、而本國之民、 假著倭服、 成黨作亂、 是亦鑑也。」とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の賎民であると記述されている。
 
 「朝鮮王朝実録」は韓国の歴史書で、世界遺産にも登録されている書物で、そこに15世紀の半ばには倭寇の構成員のうち日本人は二割程度で、残りの八割は李氏朝鮮国の賎民だと明確に書かれている事実は重要である。同じ「倭寇」という呼び名でありながら、途中で自国民中心の集団に変質していたのだ。
 
 
 

高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻

 高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻は、14世紀末から15世紀初めにかけて行われた、高麗李氏朝鮮正規軍による対馬への侵攻。倭寇の根拠地と目された対馬壱岐も目標とされた)を攻撃することで、その根絶を図るというのが口実であった。
1389年の侵攻
 「高麗史」、「高麗史節要」によれば1389年2月、戦艦300艘による対馬侵攻が行われ、朴葳を司令官として、金宗衍、崔七夕、朴子安が従った。
 日本船300艘と沿岸の建物を焼き尽くし、捕らえられていた者100余人を救出した。帰国後は昌王名義で賞賛されている。なお、捕虜にした倭寇はいなかった。これを理由に、留守中の敵陣をただ焼き討ちして来ただけではないのか、と周囲から批判も受けている。
 日本側史料では「宗氏家譜」(1719年)に2月18日に高麗軍を追い返したとある。これを称して「康応の外寇」という。ただし、これは「高麗史」を参考に記述したもので、この件での日本側の記録は存在しなかったものとみられる。また、「対州編年略」(1723年)は須茂三位法眼と早田氏の兵が、「津島紀事」(1809年)は藤宗慧、宗永と早田丹後、日下部土佐の兵が敵に当たったとある。ただし、これらも「高麗史」を参考にした上で後世の伝承を採用したもので、14世紀には存在しなかった地名が挙げられるなど確かなものとはいえない。
 これを韓国では、「第1次対馬征伐」と称している。上記のこと以上の記録はないが、現代の韓国では激戦の末に倭寇を降伏させた大勝利とされている。この攻撃以降、倭寇が激減したとされるが、上記の通り戦果は定かではない。いずれにしろ、1392年南北朝合一で政権強化を図った足利義満により倭寇の取締りが行われる。

1396年の侵攻計画

 朝鮮王朝実録によれば1396年12月、李成桂が壱岐・対馬討伐を命じた。 門下右政丞金士衡を五道兵馬都統処置使に任じ、南在、辛克恭、李茂を配下につけ、出立に当たっては成桂が南大門まで見送った。
 日本側史料では、この時期に朝鮮軍の侵攻があったという記録はない。ただし実録には以下の記録がある。1397年1月に慶尚道蔚州浦で降伏した倭寇首領の羅可温(ナガオン)、子の都時老(ツシラ)、配下の昆時羅(コンシラ)が役人を人質にして逃亡するという事件があったが、2月10日には朝鮮の官職を与えて帰順させたとある。また、1398年2月、倭寇首領の六、羅可温、望沙門(マンサムン)等に官職を与えるとともに、それぞれ藤六、林温、池門と改名させたという。
 士衡は翌年1月30日に帰還して出迎えを受け、2月8日に宴席を設けられているので、何らかの功績は認められたようである。
 これを韓国では、「第2次対馬征伐」と称している。李朝では以後も倭寇の帰順や帰化政策を進めるが、対馬では宗貞茂の死後の混乱により活動が活発化する。

1419年の侵攻

これを韓国では、「第3次対馬征伐」と称している。
 

応永の外寇

1419年、朝鮮王朝の太宗は倭寇撃退を名目にした対馬侵攻を決定し、対馬の有力者が明などに渡航し不在である時期を狙って、同年6月、李従茂率いる227隻、17,285名の軍勢を対馬に侵攻させた。応永の外寇とよばれる。朝鮮軍は敗退するが、この事件により対馬や北九州の諸大名の取締りが厳しくなり、倭寇の帰化などの懐柔策を行ったため、前期倭寇は衰退していく。
また同1419年、遼東半島の望海堝で倭寇は明軍に敗れたことが致命傷となったともいわれる[7]。なお、応永の外寇以前の形態は単なる局地的な奪還・復讐戦であり、これを倭寇と分類せず、それ以降を倭寇と考える説もある。
こうして前期倭寇は、室町幕府や北九州の守護大名日明貿易、対馬と朝鮮の間の交易再開などによって下火になっていった。
 
『厳原町史』厳原町誌編集委員会、1997年
動画
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【新羅の入寇・犠牲者への鎮魂】_韓国・朝鮮人の日本侵略②
 
 
 

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