長崎のキリスト教の歴史
伝来と繁栄
1. キリスト教の伝来
長崎におけるキリスト教の歴史は、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルが、その翌年に平戸で布教を行ったことから始まります。多くのポルトガル船が寄港し、宣教師たちが活動した長崎地方では、多くのひとがキリシタンになりました。
2. キリスト教の繁栄
大村の領主であった大村純忠は、洗礼を受け、日本で初めての「キリシタン大名」となりました。 1580年、純忠が長崎などをイエズス会に寄進したため、長崎はキリスト教文化が栄えました。有馬では、日野江城の城下に教育機関としてセミナリヨやコレジヨが置かれ、「天正遣欧使節」として知られる4人の少年たちも、ここで学んだのち、1582年に長崎港からローマへ赴きました。
弾圧と潜伏
3. 秀吉に始まるキリシタンの取締り
日本人奴隷や白人によるアジア侵略の問題もあり、豊臣秀吉は、大航海時代の1587年に「バテレン追放令」を発し、宣教師たちの追放を命じました。1596年には、26人の宣教師・信徒らが、長崎の西坂の丘で、はりつけに処せられました。
秀吉に始まった禁教政策は徳川幕府によって強化され、1614年には禁教令が全国に発布されました。 1622年には、国外追放に従わず潜伏していた宣教師と、彼らをかくまったとされた信徒ら計56人が西坂の丘で処刑された「元和の大殉教」が起きました。
秀吉に始まった禁教政策は徳川幕府によって強化され、1614年には禁教令が全国に発布されました。 1622年には、国外追放に従わず潜伏していた宣教師と、彼らをかくまったとされた信徒ら計56人が西坂の丘で処刑された「元和の大殉教」が起きました。
4. 島原・天草一揆
有馬や天草の領民たちは、1637年から翌年にかけて武装蜂起し「島原・天草一揆」が勃発しました。約3万7千人の領民たちは、原城に立て籠もりましたが、88日間の戦いの末、女性や子供までもが死にました。
その後、原城は破壊されましたが、発掘調査では人骨とともに十字架やメダイが出土しています。
5. 天草での信仰の継承
島原・天草一揆の後、天草も長崎奉行所の支配を受けることとなりました。絵踏みなど厳しくキリシタンを取り締まる仕組みが整えられるなか、津の人々は、表向きは仏教徒を装いながら、潜伏キリシタンとして信仰を継続しました。
6. 大村藩での弾圧と、外海からの移住
海禁政策(いわゆる鎖国)により 宣教師の入国も途絶え、1644年に最後の神父が殉教して以降、各地のキリシタンたちは、指導者となる神父がいない中、自分たちだけでひそかに信仰を守り伝える完全な潜伏時代に入りました。かつて大村純忠の下でキリスト教文化が栄えた大村藩でもキリシタンへの徹底した取締まりが行われるなか、監視の目が届きにくい山間部の外海地方などの限られた地域に潜伏キリシタンが残ることとなりました。
外海の潜伏キリシタンは18世紀末頃から、開拓移民として、五島などの離島部へ移住していきました。
7. 平戸での信仰の継承
平戸でも、16世紀末以降は厳しい禁教政策がとられ、多くのキリシタンが殉教し、残った信徒も潜伏を強いられました。教会堂の代わりに、先祖の殉教地や安満岳、中江ノ島などが聖地として信仰のよすがとされました。これらの聖地は今なお崇敬されており、禁教時代の独特の景観を現在もとどめています。また、平戸地方の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる「かくれキリシタン」によって今なお大切に守られています。
絵踏み (川原慶賀 筆、ライデン国立民族学博物館蔵)
かくれキリシタンの重要な聖地である 中江ノ島で聖水を採取する「お水取り」
復活
8. 大浦天主堂での「信徒発見」
19世紀中期、幕府は開国へと方針を変え、欧米5ヶ国に開国を迫られた長崎港には外国人居留地が形成され、居留地内に大浦天主堂が建設されました。
完成まもない1865年3月、長崎市内の浦上地区にいた潜伏キリシタンたちがこの聖堂を訪れました。彼らは、聖堂にいるフランス人は自分たちが長く待ち望んだ宣教師であるのかを確かめるためにやって来たのです。
250年も潜伏しながらキリストの教えを継承してきた日本人がいることは、驚きと感動をもって当時のヨーロッパに伝えられました。
9. 信徒による教会堂の建設
信仰の自由を求める国際社会の非難が高まる中で、1873年、明治政府はついに禁教の高札を撤去しました。キリシタンたちは、250年に及んだ潜伏を経て、初めて信仰を公にすることができるようになりました。
各地の信徒たちは、信仰継承の証として、潜伏してきたそれぞれの集落に教会堂を建設しました。信徒たちが苦しい生活の中でも生活費を切り詰めること等で資金が工面され、建設作業や運搬作業には多くの信徒が労働奉仕として携わりました。
山間部や島々の入り江に今もひっそりと立つ教会堂の数々は、潜伏キリシタンの時代からそれぞれの集落で信仰が守られ、継承されてきたことを静かに物語っています。
各地の信徒たちは、信仰継承の証として、潜伏してきたそれぞれの集落に教会堂を建設しました。信徒たちが苦しい生活の中でも生活費を切り詰めること等で資金が工面され、建設作業や運搬作業には多くの信徒が労働奉仕として携わりました。
山間部や島々の入り江に今もひっそりと立つ教会堂の数々は、潜伏キリシタンの時代からそれぞれの集落で信仰が守られ、継承されてきたことを静かに物語っています。