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Channel: 歴史&環境&公徳心ツアー&地方創成&観光産業振興
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[転載]元寇の地、鷹島

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遠矢の原(モンゴル村)
兵衛次郎の墓  対馬小太郎の墓  刀の元の六地蔵
開田の七人塚  元寇記念の碑 五輪塔と法○印塔  少弐景資の石像(龍面庵) 
元寇の地、鷹島を訪ねて
開田の七人塚(ひらきだのしちにんずか)
文永の役の折り、東浜に上陸した元軍は、日本軍が博多湾に重点を置き鷹島を手薄にしていたことから、島民のほとんどを虐殺した。船唐津免の開田とゆうところの一軒家は、人目につきにくい山の中にあったが、飼っていた『ニワトリ』が鳴いたため、「ニワトリがいるなら人も住んでいるはずだ」と元軍は山の中を捜し一軒家を発見。8人家族のうち7人が殺され、灰だめに隠れていたお婆さん1人が助かったということです。それ以来、開田ではニワトリを飼わないと伝えられている。(開田の悲墳塚ともいう。)

医王城跡(里免)いおうじょうあと
  今より約860年前「大曲右京」という人が本島を領有していたが、源太夫判官久市公が西下して宇野御厨検校となるに及び領を納めて帰順、大曲長門守、大曲右京助、大曲左右衛門太夫と続き慶長の頃は、大曲休也と代々大曲家の居館であった。
 北側には、今も残る深い壕を巡らし、城塞の正面中腹には元家老屋敷であったと伝えられる宅地跡が残っている。 
※大曲休也の墓
 医王城の東南方、松阪の台地「永光寺」墓地にある。永光寺累代住職の墓塔に囲まれて「永光院殿忠叟浄玄居士慶5年1月16日卒」とある。
 医王城主にして、永光寺中興の開墓とうたわれ後世にその名をとどめている。 

今宮神社・広久山満福寺跡及び大銀杏 
今宮神社・広久山満福寺跡(三里免) 
 今宮神社は、1148年(久安4年)に8代藩主・松浦久の子、直(なおし)が父のために満福寺境内の一隅に建てたと伝えられています。
 広久山満福寺は、松浦市の梶谷城にいた松浦久が年老いてから鷹島町原免の日本山に出城を築き、里村の別邸を作ったとき三里地区の平坦な地形を見て耕作する土地に最も適しているので、将来、一族発展の根拠地としてここに建てたと伝えられている。
 境内には、松浦久と元寇の役で鷹島を守るために活躍し、重傷のためここで自刃した第14代答(こたう)の墓や戦死した人々の墓標、五輪塔、宝筐印塔(ほうきょういんとう)が無数にあります。又、樹齢400年といわれる大銀杏(おおいちょう)があり、枝からは乳柱が垂れ下がっており昔からその皮を煎じて飲むと乳が出ると言い伝えられてきました。 
大銀杏  昭和32年6月24日 長崎県文化財に指定

アコウの樹(住吉神社)里免
アコウの樹 
 住吉神社には、鎮守の森には珍しく、アコウの樹がそびえている。熱帯樹のこの樹がどうして、この島に根をおろしたものだろうか。
 昔は、密貿易や海賊の拠点であったろうこの島だからこそ、はるかに遠い南の国から持ち帰って植えられたのではないだろうかと伝えられている。
 おそらく、ここ鷹島がアコウの樹の北限であろう。 
懸仏(昭和49年10月8日)、アコウの樹(昭和55年2月29日)
長崎県文化財に指定・天然記念物

宮地嶽史跡公園
宮地嶽史跡公園(阿翁免)
  牧之岳(三里免)と共に昭和45年に史跡公園として整備され、展望絶景の地で玄界灘が一望できる高台にある。
 宮地嶽神社、愛宕神社が祭られており、五輪の塔、元寇記念の碑、休憩所等が建っている。
 (玄海国定公園特別区域、標高116.6m)
 

対馬小太郎の墓(里免)
対馬小太郎の墓(里免) 
 里免清水川の南方丘上にあり、対馬の守護代・宗助国の家臣、「小太郎」の墳墓。 
 1274年(文永11年10月5日)元軍が対馬を攻撃。守護代・宗助国は一族80余騎を率いて奮戦したが、ついに及ばず戦死の直前、家臣の小太郎及び兵衛次郎に命じて急を太宰府に報告させた。
 二人は、玄海の荒波を乗り切り博多に上陸し、その使命を果たしたが元軍は壱岐を占領し、鷹島を襲い博多湾に侵入した。
 小太郎も博多防衛に加わった。弘安4年(1281年)元軍が再び来襲。鷹島襲撃の知らせに小弐景資の配下として奮戦中重傷を負い自刃。 
遺言に「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と残した。

刀の元(とうのもと)の六地蔵(里免)
刀の元の六地蔵(里免) 
 対馬小太郎の墓の近くに六地蔵と五輪の塔が六つ集まっているところを「刀の元」とよんでおり、弘安の役で里方面の敵の捕虜を斬首したところだと伝えられています。
六地蔵の顔面には、赤土が塗られているが、これは子供の病気をなおすために親が深夜にここにお参りをして赤土を塗るという信仰があり、今も尚、一部の人たちにより受け継がれている。

龍面庵(阿翁免)りゅうめんあん
 弘安の役(1281年、弘安4年)に小弐景資(しょうにかげすけ)が本陣を置いたところと伝えられ、同年7月30日の台風により敵船団はほとんど沈没、残敵5,000余りが鷹島に上陸したとの急報に博多から駆けつけ、約1週間にわたる戦いの末、敵兵を全滅させたという。
 景資に従って戦い戦死した壱岐の石田五郎為治、西牟田弥五郎の墓もあり、現在は、石工展示館や小弐景資の石像が建0っている。
 

兵衛次郎の墓(神崎免)
 もう少し北上してみよう。シーズン外れだが海浜キャンプ村も見てみる。さすがに誰も居ない。キャンプ場のテントを過ぎていくと元寇の鎮魂の碑が建立されている。
 原免の市杵島神社に向かう。ここでは県指定有形文化財の銅造り如来坐像が拝観できる。この仏像は元寇の折りに難破した元船に安置されていたものと謂われ、船唐津の漁師が網で上げたものだそうだが、仏様を上げた漁師も驚いたことだろう。
 
 元寇史跡巡りに成ってしまうようだが、次は対馬小太郎の墓に向かう。対馬小太郎は、文永11年の元寇で主君であった守護代・宗助国の一族80余騎の全滅を主君の命で太宰府に報告した。
 弘安4(1281)年、元軍が再び来襲。鷹島襲撃の知らせに、一族の敵を討つべく小弐景資の配下として鷹島に転戦、奮戦中に重傷を負い自刃した。
 小太郎の遺言は「我が屍を埋めるに対馬を望むべき丘陵に於いてせよ」と残したので、遠く対馬を望む丘陵に墳墓を設けた。
壱岐・対馬は今日は見えない
 すぐ近くの住吉神社にアコウノキの巨木が有ると言う。それも是非見なくては。この里免の住吉神社の創建は古い。神宮皇后の朝鮮行きの際の寄港地で、ここで武運長久の祈願を行い一宮を設けたとの事。
鷹島町歴史民俗資料館・埋蔵文化財センター
鷹島町歴史民俗資料館

資料館設置の趣旨

 玄界灘に浮かぶ鷹島は、伊万里湾に位置し、東に佐賀県肥前町、南に長崎県松浦市を望む景勝の地です。

 東西5km、南北13km、平和なこの島が、700有余年の昔元寇最後の戦場となりました。

 弘安4年(1281年)7月30日の夜、本格的な日本侵略を前に集結した総勢約4,400隻の船と、14万人といわれる元軍の大半が、ここ鷹島の海底に沈んだのでした。
鷹島町埋蔵文化財センター  
     
そして、昭和55年(1980年)、鷹島の海が水中考古学調査の最大の宝庫として選ばれたのです。
 昭和56年7月より開始された沈没船の遺物調査と引き揚げ作業によって、数多くの元寇遺物が発見されたため、この貴重な資料を収集保存し調査研究を進めるとともに一般に公開して鷹島内外の人々に元寇の特異性と知識を深め、あわせて地域住民の文化活動や児童生徒の学問探究の場として歴史民族資料館を設置した次第であります。
鷹島の歴史の謎に挑む
昭和55年(1980年)文部省は特定研究として「水中考古学による遺跡・遺物の発見と調査・保存の研究」を3ケ年計画で始めました。元軍(蒙古軍)が鷹島南岸で滅びてから、ちょうど700年後のことでした。
この研究は、考古学・日本史学・電子工学・海洋学など、それぞれの学問領域を越えて参加した多くの研究者たちによっておこなわれました。まず海底に埋もれている遺物を調査するため、電子工学の粋を集めた探査機器が投入されました。
すなわち鷹島の海底調査で歴史的な出来事が実際の遺物によって証明されたのです。

管軍総把印(県指定有形文化財)
  
 管軍総把印
高さ6.2cm、印面幅6.5cm×6,6 cm ちゅう14cm×3,2cm、重さ726gの青銅製の印鑑です。
鷹島南岸の神崎(こうざき)海岸で漁民の貝堀中に発見されました。
 印面部分はやや反りをもち、元の官用書体であったパスパ(ハ思巴)文字の 篆体(てんたい)、漢字の書体の一つ で篆書(てんしょ)、「大篆、小篆の二種類があり、秦(しん)の時代につくられた といわれる」管軍総把印(かんぐんそうはいん)と刻まれています。
ちなみに至元14年は西暦1277年に あたり、元寇の時期と一致しています。
 平成元年3月31日、県の指定有形文化財に指定されています。

鷹島町埋蔵文化財センターに保存展示中の海底から引き揚げられた木製のイカリ。
大型木製イカリ
 木製イカリは、平成6年(1993年)に、第3回鷹島町水中考古学調査により神崎防波堤工事に伴う緊急調査を長崎県より依頼を受け、鷹島町教育委員会が実施。
 水深20から22mより木製イカリを発見、700年前の弘安の役で沈んだ元寇船の碇で、当時のイカリの構造が判明し、鷹島型碇石の命名。
 海底から引き揚げられた木製イカリは、平成6年12月から平成9年8月まで脱塩処理され、イカリを保護し、イカリの形に固定した状態で含浸装置の中に入っています。
木製イカリ模型。

含浸装置。
PEG(ポリエチレングリコール)含浸装置。
木製大型イカリを保存処理中です。
この中で木材の中の水分とポリエチレングリコールを入れ替えます。

木彫釈迦仏座像
 
木彫釈迦仏座像
 高さ24cmの座像で、阿翁の農民が開墾中に発掘したものと伝えられ、大正7年頃、元寇史跡調査に来島された黒板勝美博士によれば、「元将の守護仏であったろう」という。

唐壺と鷹島住吉神社の懸仏
 
 唐壺と鷹島住吉神社の懸仏唐壺は、昔より内外海底から、多数引き揚げられ、いつの頃からか唐壺と呼ばれている。一見たこ壺と似ているが、さげ紐を通す三つの耳がついていて、昔は穀物や水を入れたものと思われる。この壺は、元寇の役に殲滅した敵船に積込まれていたものとみられ、近年にわかに珍重されて来た。懸仏は、県指定文化財(有形工芸品)。伝説によると、松浦党水軍が船中にかかげたものだという。

ご利用の案内 
開館時間:午前9時より午後6時   (休館日 : 毎週月曜日)
お問い合わせ  歴史民俗資料館
埋蔵文化財センター
  鷹島町教育委員会
ほんの一部のみ発信しています 是非一度お立ち寄りください。
他にも興味深い資料がたくさんあります。
 
宮地巌嶽史跡公園
対馬小太郎の墓
兵衛次郎の墓
他の理由
■ ヨーロッパへの進攻を防ぐため(白人の謀略)
 当時、モンゴルはトルコまで進攻していた。イスタンブールを越え、ギリシャやローマをモンゴルが脅かさないようにヨーロッパ人が謀った。
 マルコポーロが見もしないで、日本を黄金の国ジパングを虚偽の風雪を流布したのも、モンゴルを日本に進攻させ、ヨーラッパへのモンゴル進攻を防ぐためであった。
 東アジアの戦争で、利益を上げているのは、常に白人である。(大東亜戦争を一部を除く)
 
鷹島町歴史民俗資料館・埋蔵文化財センターより画像をお借りしています。
是非、訪問してみてください。(フグの季節が良いかもネ)

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る


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