壱岐弘安の役瀬戸浦古戦場
少弐資時戦死の地、付近には戦死者を供養するための千人塚が遺る
第二回の元軍の襲来のいわゆる弘安の役(弘安4年・1281)に際し,壱岐の瀬戸浦(芦辺町)は激戦の地であった。これについては,「龍造寺文書」弘安5年9月9日肥前守護北条時定書状に,「去年異賊襲来時,7月2日,於壱岐島瀬戸浦令合戦由事,申状并證人起請文令披見畢」とあるのによっても明らかである。瀬戸浦の東方には武藤経資の三男資時の墓といわれるものがある。壱岐の守護としては,今日わずかに文永10年(1273)11月16日当時武藤資能を確認する(「松浦文書」)のみである。武藤(のち少弐)資時はあるいは壱岐守護代であったかともみられるが確認できない。
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新城神社
新城神社は、文永の役で戦死した壱岐の守護代平景の居館の地であった新城(樋詰城)跡にあり、社殿は明治19年に造営され、景をはじめ元寇で殉難した将兵を祀っている。
文永11(1274)年10月14日、元軍は勝本の北西海岸に上陸し、新城へ向かった。平景は少弐資能に援軍を頼んだが、間に合わず、100余騎ほどで元軍を迎え撃ち各地で戦ったがついに全滅した。景隆は鉄砲や毒矢という戦法の違いから、元軍に太刀打ちできず、戦場から退却して、15日に新城で自刃したという。
文永11(1274)年10月14日、元軍は勝本の北西海岸に上陸し、新城へ向かった。平景は少弐資能に援軍を頼んだが、間に合わず、100余騎ほどで元軍を迎え撃ち各地で戦ったがついに全滅した。景隆は鉄砲や毒矢という戦法の違いから、元軍に太刀打ちできず、戦場から退却して、15日に新城で自刃したという。
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壱岐 新城神社 元寇三〇〇年記念植樹碑
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弘安の役 壱岐侵攻
- 1281年5月26日、東路軍は壱岐に襲来。
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少弐資時の墓。第2回の元寇である弘安の役で戦死した当時19歳の守護代少弐資時の墓。芦辺港北の岬にある少弐公園の小高い丘に設けられている。近くの瀬戸浦は激戦地となり、元軍は瀬戸浦船匿城を攻撃、日本軍は全滅した。
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平安時代(10世紀)に編纂された「延喜式」神名帳は、当時「官社」とされていた神社の一覧です。神名帳に記載された神社を「式内社」(延喜式内社)と呼び、古くから朝廷に認められた神社として、一種の社格になっています。
西海道(九州)全体で107の式内社が名を連ねていますが、そのうち対馬は九州最多の29社を誇り、2位の壱岐の24社を加えると、2島で約半分を占めています。対馬・壱岐は、神道の源流のひとつといえる島々なのです。
西海道(九州)全体で107の式内社が名を連ねていますが、そのうち対馬は九州最多の29社を誇り、2位の壱岐の24社を加えると、2島で約半分を占めています。対馬・壱岐は、神道の源流のひとつといえる島々なのです。
対馬には多くの神々が鎮座していますが、特に重要視されてきたのが、海神の娘・豊玉(とよたま)姫と、神功(じんぐう)皇后です。豊玉姫は「古事記」の海幸山幸伝承に登場する女神で、初代天皇である神武天皇の祖母にあたります。航海守護・安産・豊漁などの庶民にも身近な神徳があり、島民に親しまれてきました。
一方、神功皇后は懐妊したまま三韓(朝鮮)征伐を行ったとされる勇ましい女神で、子の応神天皇とともに「八幡神」として全国の八幡神社に祭られています。神功皇后は九州北部に縁の深い女神であり、対馬にもたくさんの伝承地があります。
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