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[転載]世界史上最大の艦隊 第二次元寇 弘安の役 1281年

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弘安の役

モンゴル語で「勇猛なる」という意味の上陸用快速船艇である抜都魯(バートル)軽疾舟と思われる軍船に乗船する元軍。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵18・第31紙
河野通有兜掛の楠(枯死)
河野通有が弘安の役の戦勝祈願に参詣した際に兜を掛けたとされる楠木。
大山祇神社
 
 
 1281年弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。
 
 
 
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 クビライに仕えたの官吏・王は、この日本侵攻軍の威勢を「以来、出師の盛なること、未だこれを見ざるなり」とその記事『汎海小録』の中で評している。
 
 また、高麗人の定慧寺の禅僧・冲止は、日本侵攻軍の威容を前にして以下のような漢詩を詠み、クビライと元軍を讃えた。
 「皇帝(クビライ)が天下を統御するに、功績は(中国神話の君主)を超えた。徳は寛大で断折を包容し、広い恩沢は隅々にまで及んだ。車は千途の轍と共にし、書は天下の文章と共にした。ただ醜い島夷(日本)だけが残り、鼎魚のように群れをなして生きていた。ただ大海を隔てていることを頼りにして、(元と)領域を分けることを図った。日本は苞茅(朝貢)にかつて入ったことがなく、班瑞(朝貢)もまた聞いたことがない。そこで帝がこれに怒って、時に我が君(忠烈王)に命じた。千隻の龍鵲(軍艦か)の船と10万の勇敢な軍兵で扶桑(日本)の野において罪を問い、合浦の水辺で軍を興した。鼓声が大海に鳴り響き、旗は長い雲を揺さぶった」
 
 

東路軍の出航

河口杭
元軍の侵入を妨害するために河口に打ち込まれた杭。1905年明治38年)に出土。戦後、博多区呉服町界隈のビル建設現場からも多数出土した。
元寇史料館所蔵
  • 5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人(実数9,960人)の東路軍900艘が、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航。
元軍は東路軍(とうろぐん)「兵4万人・軍船900艘」と江南軍(こうなんぐん)「兵10万人・軍船3500艘」の二手に分かれて日本に攻めてきました.※1279年に宋は元との戦争に負け支配されていました.ですから江南軍の兵の大部分は宋の人たちだったのです.江南軍は寧波(にんぽー)という中国の港から出発しています.現在の上海の近くにあった港町です.

対馬侵攻

  • 5月21日、東路軍は対馬沖に到着し、対馬の世界村大明浦に上陸。上陸した東路軍は日本側の激しい抵抗を受け、郎将の康彦康師子等が戦死した。
弘安の役で対馬が襲撃された場所は不明です。 手掛かりは高麗史にある日本国世界村大明浦だけです。 
世界村については、ある大学教授は対馬市峰町佐賀(さか)と推定しています。
 
世界の発音と佐賀の発音は似ているのでしょうか。ただ佐賀は島の東岸にあり、遠回りになるので朝鮮南部から直接入港できる港ではありません。
 
港内も狭く大船団を収容するには適していないのです。それでは世界村はどこなのでしょうか。 対馬以外なのでは、という説もあるようです。  
 
ただ、対馬には佐賀(さか)に似た発音の地名は豊玉町に嵯峨(さが)があります。島の中央部の浅茅湾入り口北側に位置しており、大船団の停泊に最適です。
 
 さらに世界村大明浦の明の地名も近くにあります。明(みょう)崎と言い、大明浦と関係がありそうです。 その上、隣接する貝鮒地区には蒙古塚があり蒙古兵を埋めたという伝説もあります。  
 
  文永の役の際も船団は浅茅湾に停泊後に佐須を襲ったと考えられ、弘安の役でも同じルートをとったと 推理しています。
 
(注) 嵯峨や貝鮒は中世には浅茅湾口の現在の水崎に住居があったが、蒙古襲来で現在地に集団移転したという人もいる。
 面白いことに、水崎の土地は嵯峨や貝鮒の領地だそうでス
 
より
 
 
 

壱岐侵攻

  • 5月26日、東路軍は壱岐に襲来。
壱岐弘安の役瀬戸浦古戦場
少弐資時戦死の地、付近には戦死者を供養するための千人塚が遺る
弘安の役瀬戸浦古戦場
 
 
 

長門襲来

  • 東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来する。
広橋兼仲の日記『勘仲記』(6月14日条)によると、東路軍の軍船と思われる軍船300艘が中国地方の長門の浦に来着したことが大宰府からの飛脚によって京都に伝えられたことを記載している。また、壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(6月15日条)にも「異國賊船襲来長門」とあり、長門に元軍が現れたことが確認できるが、長門襲来の実態に関しては史料が少なく不明な点が多い。
 
 

博多湾進入[編集]

元寇防塁」と思しき石築地とその上に陣取る御家人たち
中央の赤い扇を仰ぐ人物は菊池武房。石築地の前を竹崎季長一行が移動する。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵12・第7紙
河野通有奉納の大鎧
『萌黄綾威腰取鎧・大袖付』

重要文化財・大山祇神社所蔵
 
 東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。
 
 対馬・壱岐を占領した東路軍は博多湾に現れ、博多湾岸から北九州へ上陸を行おうとした。しかし、日本側は既に防衛体制を整えており、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地(元寇防塁)を築いて東路軍に応戦する構えを見せたため、東路軍は博多湾岸からの上陸を断念した。日本軍の中には伊予の御家人・河野通有など石築地を背に陣を張って東路軍を迎え撃とうとする者もいた。後に河野通有は「河野の後築地(うしろついじ)」と呼ばれ称賛された。
 
 

志賀島の戦い

志賀島を占領し、海上(恐らく日本軍)の様子を窺う元軍将兵。詞書は失われ詳細不明。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵20・第35紙
志賀島の戦い[257]
東路軍目指して進軍する関東御使・合田遠俊筑後国御家人・草野経永筑前国御家人・秋月種宗肥後国御家人・大矢野種保種村兄弟らの軍船。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵14・第17紙
モンゴル型兜
河野通有奉納『黒漆塗革張冑鉢』

重要文化財大山祇神社所蔵
  • 6月6日、博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした。
東路軍の管軍上百戸・張成の墓碑によると、この日の夜半、日本軍の一部の武士たちが東路軍の軍船に夜襲を行い、張成らは軍船から応戦した[258]。やがて夜が明けると日本軍は引き揚げていった。
  • 6月8日午前10時頃、日本軍は軍勢を二手に分け、海路と海の中道伝いの陸路の両面から志賀島の東路軍に対して総攻撃を敢行した[259][260][261][262][263]
海の中道を通って陸路から東路軍に攻めいった日本軍に対して、張成らは弩兵を率いて軍船から降りて応戦[25。志賀島の東路軍は日本軍に300人ほどの損害を与えたが、日本軍の攻勢に抗しきれず潰走する。
 東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれた。
しかし、管軍万戸の王某の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛け、日本兵を50人ほど討ち取ったため追撃していた日本軍は退き、洪茶丘は僅かに逃れることができたという。
 
 
イメージ
 
 
 
 
海路から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って元軍船に斬り込み、敵将を生け捕るという手柄を立てた。また、海上からの攻撃には肥後の御家人・竹崎季長や肥前御家人の福田兼重福田兼光父子らも参加し活躍した]
  • 6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦した。しかし、この日の戦闘も日本軍が勝利し、東路軍は敗戦を重ねた。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。
 
 
 

壱岐島の戦い

鎮西奉行・少弐経資、薩摩守護・島津久経らの兵船。
蒙古襲来絵詞』後巻・絵15・第19紙
  • 6月29日、一方、日本軍は壱岐島の東路軍に対して松浦党、彼杵、高木、龍造寺氏などの数万の軍勢で総攻撃を開始した。
 この戦闘で薩摩の御家人・島津長久比志島時範、松浦党の肥前の御家人・山代栄船原三郎らが奮戦し活躍した。山代栄はこの時の活躍により、肥前守護・北条時定から書下を与えられている。
  • 7月2日、肥前の御家人・龍造寺家清ら日本軍は壱岐島の瀬戸浦から上陸を開始。瀬戸浦において東路軍と激戦が展開された。
 龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦。龍造寺家清は、その功績により肥前守護・北条時定から書下を与えられた。 一方、東路軍の管軍上百戸・張成を称える墓碑文にも6月29日と7月2日に壱岐島に日本軍が攻め寄せ、張成ら東路軍が奮戦した様子が記されている。
 
 壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している。
 
 京都の官務・壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(7月12日条)によると、壱岐島の戦いにより元軍が壱岐島を放棄したため、元軍が退散し撤退したという風聞が日本側にあったことが確認できる。
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る


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