弘安の役
1281年(弘安4年・至元18年)、元・高麗軍を主力とした東路軍約40,000~56,989人・軍船900艘と旧南宋軍を主力とした江南軍約100,000人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船3,500艘、両軍の合計、約140,000~156,989人及び江南軍水夫(人数不詳)・軍船4,400艘の軍が日本に向けて出航した。日本へ派遣された艦隊は史上例をみない世界史上最大規模の艦隊であった。
また、高麗人の定慧寺の禅僧・冲止は、日本侵攻軍の威容を前にして以下のような漢詩を詠み、クビライと元軍を讃えた。
「皇帝(クビライ)が天下を統御するに、功績は堯(中国神話の君主)を超えた。徳は寛大で断折を包容し、広い恩沢は隅々にまで及んだ。車は千途の轍と共にし、書は天下の文章と共にした。ただ醜い島夷(日本)だけが残り、鼎魚のように群れをなして生きていた。ただ大海を隔てていることを頼りにして、(元と)領域を分けることを図った。日本は苞茅(朝貢)にかつて入ったことがなく、班瑞(朝貢)もまた聞いたことがない。そこで帝がこれに怒って、時に我が君(忠烈王)に命じた。千隻の龍鵲(軍艦か)の船と10万の勇敢な軍兵で扶桑(日本)の野において罪を問い、合浦の水辺で軍を興した。鼓声が大海に鳴り響き、旗は長い雲を揺さぶった」
「皇帝(クビライ)が天下を統御するに、功績は堯(中国神話の君主)を超えた。徳は寛大で断折を包容し、広い恩沢は隅々にまで及んだ。車は千途の轍と共にし、書は天下の文章と共にした。ただ醜い島夷(日本)だけが残り、鼎魚のように群れをなして生きていた。ただ大海を隔てていることを頼りにして、(元と)領域を分けることを図った。日本は苞茅(朝貢)にかつて入ったことがなく、班瑞(朝貢)もまた聞いたことがない。そこで帝がこれに怒って、時に我が君(忠烈王)に命じた。千隻の龍鵲(軍艦か)の船と10万の勇敢な軍兵で扶桑(日本)の野において罪を問い、合浦の水辺で軍を興した。鼓声が大海に鳴り響き、旗は長い雲を揺さぶった」
東路軍の出航
- 5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)・洪茶丘率いるモンゴル人、漢人などから成る蒙古・漢軍30,000人と征日本都元帥・金方慶率いる高麗軍約10,000人(実数9,960人)の東路軍900艘が、高麗国王・忠烈王の閲兵を受けた後、朝鮮半島の合浦(がっぽ)を出航。
元軍は東路軍(とうろぐん)「兵4万人・軍船900艘」と江南軍(こうなんぐん)「兵10万人・軍船3500艘」の二手に分かれて日本に攻めてきました.※1279年に宋は元との戦争に負け支配されていました.ですから江南軍の兵の大部分は宋の人たちだったのです.江南軍は寧波(にんぽー)という中国の港から出発しています.現在の上海の近くにあった港町です.
対馬侵攻
弘安の役で対馬が襲撃された場所は不明です。 手掛かりは高麗史にある日本国世界村大明浦だけです。
世界村については、ある大学教授は対馬市峰町佐賀(さか)と推定しています。
世界の発音と佐賀の発音は似ているのでしょうか。ただ佐賀は島の東岸にあり、遠回りになるので朝鮮南部から直接入港できる港ではありません。
港内も狭く大船団を収容するには適していないのです。それでは世界村はどこなのでしょうか。 対馬以外なのでは、という説もあるようです。
ただ、対馬には佐賀(さか)に似た発音の地名は豊玉町に嵯峨(さが)があります。島の中央部の浅茅湾入り口北側に位置しており、大船団の停泊に最適です。
さらに世界村大明浦の明の地名も近くにあります。明(みょう)崎と言い、大明浦と関係がありそうです。 その上、隣接する貝鮒地区には蒙古塚があり蒙古兵を埋めたという伝説もあります。
文永の役の際も船団は浅茅湾に停泊後に佐須を襲ったと考えられ、弘安の役でも同じルートをとったと 推理しています。
(注) 嵯峨や貝鮒は中世には浅茅湾口の現在の水崎に住居があったが、蒙古襲来で現在地に集団移転したという人もいる。
面白いことに、水崎の土地は嵯峨や貝鮒の領地だそうでス
世界村については、ある大学教授は対馬市峰町佐賀(さか)と推定しています。
世界の発音と佐賀の発音は似ているのでしょうか。ただ佐賀は島の東岸にあり、遠回りになるので朝鮮南部から直接入港できる港ではありません。
港内も狭く大船団を収容するには適していないのです。それでは世界村はどこなのでしょうか。 対馬以外なのでは、という説もあるようです。
ただ、対馬には佐賀(さか)に似た発音の地名は豊玉町に嵯峨(さが)があります。島の中央部の浅茅湾入り口北側に位置しており、大船団の停泊に最適です。
さらに世界村大明浦の明の地名も近くにあります。明(みょう)崎と言い、大明浦と関係がありそうです。 その上、隣接する貝鮒地区には蒙古塚があり蒙古兵を埋めたという伝説もあります。
文永の役の際も船団は浅茅湾に停泊後に佐須を襲ったと考えられ、弘安の役でも同じルートをとったと 推理しています。
(注) 嵯峨や貝鮒は中世には浅茅湾口の現在の水崎に住居があったが、蒙古襲来で現在地に集団移転したという人もいる。
面白いことに、水崎の土地は嵯峨や貝鮒の領地だそうでス
より
壱岐侵攻
- 5月26日、東路軍は壱岐に襲来。
壱岐弘安の役瀬戸浦古戦場
少弐資時戦死の地、付近には戦死者を供養するための千人塚が遺る
長門襲来
- 東路軍の一部は中国地方の長門にも襲来する。
広橋兼仲の日記『勘仲記』(6月14日条)によると、東路軍の軍船と思われる軍船300艘が中国地方の長門の浦に来着したことが大宰府からの飛脚によって京都に伝えられたことを記載している。また、壬生顕衡の日記『弘安四年日記抄』(6月15日条)にも「異國賊船襲来長門」とあり、長門に元軍が現れたことが確認できるが、長門襲来の実態に関しては史料が少なく不明な点が多い。
博多湾進入[編集]
東路軍は捕えた対馬の島人から、大宰府の西六十里の地点にいた日本軍が東路軍の襲来に備えて移動したという情報を得た。東路軍は移動した日本軍の間隙を衝いて上陸し、一気に大宰府を占領する計画を立てると共に、直接クビライに伺いを立てて、軍事のことは東路軍諸将自らが判断して実行するよう軍事作戦の了承を得た。こうして当初の計画とは異なり、江南軍を待たずに東路軍単独で手薄とされる大宰府西方面からの上陸を開始することに決定した。
志賀島の戦い
- 6月6日、博多湾沿岸からの上陸を断念した東路軍は陸繋島である志賀島に上陸し、これを占領。志賀島周辺を軍船の停泊地とした。
東路軍の司令官で東征都元帥の洪茶丘は馬を捨てて敗走していたが、日本軍の追撃を受け危うく討ち死にする寸前まで追い込まれた。
しかし、管軍万戸の王某の軍勢が洪茶丘を追撃していた日本軍の側面に攻撃を仕掛け、日本兵を50人ほど討ち取ったため追撃していた日本軍は退き、洪茶丘は僅かに逃れることができたという。
海路から東路軍を攻撃した伊予の御家人・河野通有は元兵の石弓によって負傷しながらも太刀を持って元軍船に斬り込み、敵将を生け捕るという手柄を立てた。また、海上からの攻撃には肥後の御家人・竹崎季長や肥前御家人の福田兼重・福田兼光父子らも参加し活躍した]。
- 6月9日、東路軍の張成らは防御に徹して陣を固め、攻め寄せる日本軍に対抗するなどして奮戦した。しかし、この日の戦闘も日本軍が勝利し、東路軍は敗戦を重ねた。
この志賀島の戦いで大敗した東路軍は志賀島を放棄して壱岐島へと後退し、江南軍の到着を待つことにした。
壱岐島の戦い
龍造寺家清率いる龍造寺氏は、一門の龍造寺季時が戦死するなど損害を被りながらも、瀬戸浦の戦いにおいて奮戦。龍造寺家清は、その功績により肥前守護・北条時定から書下を与えられた。 一方、東路軍の管軍上百戸・張成を称える墓碑文にも6月29日と7月2日に壱岐島に日本軍が攻め寄せ、張成ら東路軍が奮戦した様子が記されている。
壱岐島の戦いの結果、東路軍は日本軍の攻勢による苦戦と江南軍が平戸島に到着した報せに接したことにより壱岐島を放棄して、江南軍と合流するため平戸島に向けて移動した。一方、日本軍はこの壱岐島の戦いで東路軍を壱岐島から駆逐したものの、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し(資能はこの時の傷がもとで後に死去)、少弐経資の息子・少弐資時が壱岐島前の海上において戦死するなどの損害を出している。