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[転載]1274年10月5日、対馬は元と高麗の連合軍の襲撃を受ける。その戦いの激しさは、「お首塚」や「お胴塚」としてバラバラに存在する資国の墓が物語っている。長崎県HP

ながさきにこり> 09号> ふるさと再発見(その1)
 
 
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ふるさと再発見 国境の島 対馬へ
 
 
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小茂田浜神社に保管されている鎧兜
 
 
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島の軍神はいま島人たちに守られている
 
 
 
 国際情勢が緊張するたびにその地理的条件から幾度となく国防の最前線としての役割を果たしてきた対馬(つしま)。時代に翻弄(ほんろう)され続けたこの島は、鎌倉時代から幕末までの約600年間、宗(そう)氏という一族によって統治されてきた。その宗氏の初代資国(すけくに)は現在、島の西側にある「小茂田浜神社(こもだはまじんじゃ)」に祀(まつ)られている。
  1274年10月5日、対馬は元(げん)と高麗(こうらい)の連合軍の襲撃を受ける。いわゆる元寇(げんこう)である。このとき資国は小茂田に上陸した約1000人の軍勢に対し、わずか80余騎を従えて、自ら戦った。その戦いの激しさは、「お首塚」や「お胴塚」としてバラバラに存在する資国の墓が物語っている。
 
 
御首塚
 
 
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御首塚の入り口には標識があります
 
 
 
 
 
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御首塚の祠
 
 
 
 
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御首塚の祠の中
 
 
 
 
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御首塚の石は740余年動いていないのだろう
 
 
 
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小茂田神社 鳥居
 
 

 小茂田浜神社では毎年11月に慰霊の大祭が行われている。この日、地元の人々は資国をはじめ、国難に殉じた人々を鎮魂しようと、鎧(よろい)兜(かぶと)を身に着け武者行列を組む。神社には代々祭りで使われてきた鎧兜が大切に保管されていた。
 地元の人はこう話す。「対馬の人は皆、資国が島を救ってくれたと思っています。だから祭りの日は近くの小中学校は午後から休み。大人も子どももみんなで感謝の気持ちを表すんですよ」。
100年以上も前のものだという鎧兜はすり切れ、錆(さ)びていた。人々が長きに渡って慰霊を続けてきた何よりの証拠だ。
 初代資国の壮絶な死で幕開けした宗氏の苦難と奮闘の歴史。宗氏が生き抜いてきた道を辿(たど)りながら、知られざる国境の島を旅をしよう。
 
 
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厳原
万松院にある香炉
 
 

1274年 文永の役

 

元・高麗連合軍の出航

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元軍の雲版
雲版とは寺院において時間を知らせるために打ち鳴らす道具。元軍が銅鑼として使用したものと伝わる。雲版の表面には、鋳造年に文永の役の3年前である「至元八年(1271年)五月日 造」との年号が刻まれている。
筥崎宮所蔵
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元軍の雲版(裏面)
裏面にも凡字・漢字で「完全に勝破せよ」という意味の一節などが仏教において用いられる呪文の一種である真言陀羅尼から引用されている。
筥崎宮所蔵
  • 1274年文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・忽敦(クドゥン)[126]を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[127]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[16]
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126[10]~300艘、上陸用快速船艇の抜都魯(バートル:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた[11]

対馬侵攻

 
 
 
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対馬小茂田浜
 
 
 
 
 
 
 
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元寇上陸の地 小茂田浜
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元寇650周年記念モニュメントが小茂田神社にあります

 
 
 
 『八幡愚童訓』によると、対馬守護代宗資国[129]は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという。元軍は対馬に入ると、島人を多く殺害した。
 
 同日、宗資国は元軍の襲来を伝達するため、小太郎兵衛次郎(ひょうえじろう)らを博多へ出航させていた。
この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)
『日蓮書状』、高祖遺文録
 この文書は文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、紐か縄などによってか不明だが、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。
 ただし、後段にもあるように、日蓮のこの書状にのみ現れ、「手ヲトヲシテ」云々が実際に行われたかは不明である。
 
 この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜とし獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。
 元軍総司令官である都元帥・忽敦(クドゥン)は文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主忽都魯掲里迷失(クトゥルクケルミシュ)に献上している。
 

 




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空理空論

働かざる者食うべからず
 
 
 
峰町は歴史の宝庫です
 

転載元: 元寇を学び日本とアジアの平和を護る


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