靖国神社 みたままつり
かつての日本人が靖国神社に寄せた思いは、現代の私たちが思うより遥かに強いものでした。大東亜戦争で国のために命を捧げた人々の遺書には、死後もこの国土に魂を留めて子孫の行く末を見守っていこうという思いが表れており、そこには、日本人が持ちつづけてきた独自の死生観が息づいています。
靖国神社の社格は創建当時、別格官幣社でした。
戦後は民間の宗教団体となっている。昭和20年(1945)12月15日に、GHQの「神道指令」によって、「国家神道」が廃止された結果、やむなく一宗教法人となりました。
しかし、靖国神社は、全国8万社といわれる神社を統括する神社本庁には所属しません。単立神社です。
「靖国神社はいずれ国家に返すべき神社である」という理由で属していないのです。
しかし、靖国神社は、戦後も政府とまったく無関係となったわけではなく、占領終了後、靖国神社の合祀は、国や都道府県と靖国神社との共同作業で行われてきたのです。膨大な数の戦没者の調査は、一民間団体のできることではなく、靖国神社に祀られる人々の選考は厚生省(厚生労働省)・都道府県が行い、靖国神社が祭神として合祀するかどうかを決定します。官民一体の共同作業で行われていまう。ただし、靖国神社は戦後、財政的には、戦没者遺族を中心とする人々の献金によって維持され、国の財政的な援助は行われていないのが実情です。
戦後長い間、靖国神社を国家が護持すべきという運動が続けられました。
靖国神社がやむをえず一宗教法人となったのは、いわゆる国家神道、特に靖国神社を標的にしたGHQの占領政策によるものであり、日本人自身の自主的な考えではないからです。
主権回復後、靖国神社に本来の公的性格を回復すべきだという議論が起こりました。これが靖国神社国家護持運動です。この運動は昭和40年代には一段と活発になり、昭和45年には、わずか数ヶ月で2000万人にも及ぶ国家護持要求の署名が集まりました。国会では、自民党が中心となって靖国神社国家護持法案が6回も提出されましたが、自民党自体がもう一つ法案成立に熱心ではなく、しばしば野党との国会対策の道具にされ、結局、同法案は廃案となり、運動は挫折しました。
その後、昭和50年に三木首相が私人としての参拝を主張したのがきっかけで、憲法論議がされるようになり、昭和60年にはせっかく公式参拝という政府見解を出したのだが、中国、韓国から首相の靖国参拝に批判を受けるようになると、首相が参拝をやめてしまい、国家と靖国神社の関係について否定的な意見が増えました。事の本質を見失ってしまったのです。
靖国神社が国のために命を捧げた人々を慰霊する施設として、明治以来存続してきたことを考えれば、当然、国家が護持すべき施設なのです。
どこの国でも、祖国を守るために命を捧げた人々に敬意を表する場所がある。戦没者への慰霊は、その国の宗教的伝統に基づいて行われていると、何度も述べてきましたが、日本の国の戦没者慰霊という重要な問題に関して内政干渉をする現在の中国や韓国の政府は国際社会の常識を大いに逸脱していていますが、、それ以上にわが国の政府の外交姿勢が間違っています。
日本には日本の伝統・文化があります。我国の伝統・文化を堂々と主張し、摩擦をおそれず、日本の立場を主張し、死生観までの容喙は内政干渉だと指摘し、その姿勢を貫徹し、はっきりものを言ってこそ、相手もわかってくるでしょう。しかし逆の場合は、ますます誤解を深め、相手の言い分に迎合し、侮りをうけるでしょう。誇りをもって毅然とした態度で応対することが必要です。
その点で、最大の問題は、わが国の指導層の姿勢にある。日本の伝統・文化をよく理解し、日本人としての精神を取り戻し、戦没者の慰霊と靖国神社の問題に対して、正しい対応をすべきです。
英霊には、遺族をもたない「みたま」も存在します。戦没者の中には、若くして独身のまま、あるいは子孫を持つことなく亡くなった人々があり、こうした人々は、自分の子孫に慰霊をしてもらうことができません。
また、戦争において家族がすべて死に絶えた人々、いわゆる絶家になった「みたま」も存在します。
国家が祀らなくてどうする。
国のために死んでいった人を無縁仏にしてはならない。
多くの戦没者は死後、靖国神社に祀られると信じて亡くなっていった。多くの将兵が近親者および戦友たちに「靖国で会おう」と言い残して散華していった。その人々の思いに応えることが、国民の義務であり、国家の義務です。内閣総理大臣が参拝するのは責務です。
国を思い、民族の安寧を願って散華された「みたま」の為に・・
靖国神社 国家護持