戦後の東京裁判はOSS(アメリカ戦略情報局)が深く関わっていました。このOSSは戦時中から日本の敗北を前提に日本の軍事的壊滅と社会の攪乱を目指した「日本計画」を作っていました。 戦後、連合国はナチス・ドイツのユダヤ人迫害を「人道に対する罪」という事後法で裁くことが出きると考えていましたが、日本にはそのようなものはない。そこでその方策を「日本計画」の一環としてOSSが任されることになります。
その基本案を作ったのがチャールズ・ケーディス大佐で、彼はOSSの欧州担当で共産主義者です。彼は日本をドイツと同じように犯罪国家にしたてようと画策しました。戦後、GHQの民政局の課長となり、局長コートニー・ホイットニーの下で日本を破壊する工作を行います。憲法もケーディス大佐が中心に推し進めたものです。
GHQは神道指令で「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と名称をあらため、昭和20年12月18日から日本の新聞各紙で「太平洋戦争史」という日本軍断罪の連載をはじめ、ここではじめて「南京虐殺」が登場します。この「太平洋戦争史」は以前にOSSによって「平和と戦争」という記事で前もって作られていたものでした。
この南京虐殺のもとは支那の国民中央党宣機構の顧問だったティンパリーがつくったプロパガンダで、これにOSSが飛びついたわけです。
しかし、さすがに東京裁判ではナチスのような共同謀議、共同計画によって部下に残虐行為を命令した、許可したという事実は何一つ出てきませんでした。検察側もこれには参り、上海派遣軍司令官だった松井大将の訴因1から54までは無罪とし、第55のみ有罪として死刑としたのです。
松井被告に対して多数判決は「・・・これらのできごとに対して責任を有する軍隊を彼は指揮していた。これらのできごとを彼は知っていた。彼は自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務も持っていた。同時に、その権限ももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、彼は犯罪的責任がある」というものです。
南京虐殺そのものが捏造であるのに加えて「不作為」の責任というものが過度に拡大解釈され、松井大将は死刑となりました。
東京裁判の南京事件の判決文の中には殺害した人数が3通りもあり、一方では20万以上、一方では10万人以上となっています。なんというデタラメでしょうか。判決文は判事が書いたものではなく、別途判決の起草委員会が作成したもので、公判中に指摘された誤りは訂正されずそのまま使われています。判事たちは判決文を論議するために召集されたこともありませんでした。結論ありきの世紀のインチキ裁判であり、そこで南京虐殺はでっち上げられたのです。
参考文献
「歴史通」WiLL2010.1 『戦争犯罪人という烙印』田中英道
「パール判事の日本無罪論」田中正明著
「南京事件の総括」田中正明著
「秘録 東京裁判」清瀬一郎著
参考サイト
WikiPedia「チャールズ・L・ケーディス」
添付画像
松井石根(PD)
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