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[転載]紀州大水害は、昭和28年の7月18日前後の集中豪雨に起因する水害である。気候変動により今後益々降水の増加が予想される

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紀州大水害

 紀州大水害(きしゅうだいすいがい)は、昭和28年の7月18日前後の集中豪雨に起因する水害である。和歌山県中部を中心として山崩れや崖崩れ、洪水が起こり、和歌山県史上最悪の気象災害となった。28年水害7.18水害などともいう。
 
概要
 昭和28年(1953年7月17日から翌18日朝にかけて梅雨前線による豪雨(南紀豪雨)が和歌山県北部を襲い、和歌山県の山間部では24時間で500mm以上の雨量を記録した。
 これにより引き起こされた水害は、死者行方不明者計1015人、家屋全壊3209棟、家屋流出3986棟、崖崩れ4005か所など、被災者は26万2千人(これは当時の県民の1/4にあたる)にのぼるという和歌山県史上最悪の気象災害となった。
 
 被害は和歌山県内の有田川日高川熊野川を中心に県内全域におよび、上流の山間部では各地で土砂崩れ山津波を起こし、その下流平野部では大規模な河川の氾濫が起き、両方で大きな被害を出した。
 
 特に日高川と有田川が被害甚大で、有田川上流の花園村(現在のかつらぎ町花園)では大規模な山腹崩壊と土石流により中心集落が壊滅したという。また、日高川河口では上流から流された犠牲者の遺体が浜を埋め尽くしたという話も残っている。
 
 前述の花園村では、山腹崩壊が土石流を起こしただけではなく、有田川を堰き止めた天然ダムを形成した。この天然ダムは同年10月の台風で決壊し、溢れた水は復興に向かっていた下流地域で仮堤防を破壊して再び水害を起こした。
 
 これだけ被害が出たのは、記録的な短時間豪雨だっただけではなく、戦中戦後で山林が荒廃し、河川防災も立ち遅れていたことも災いしたといわれている。
 
 なお、呼称は必ずしも確定しておらず、上掲の名の他に南紀豪雨(『日本の自然災害』p.201)、和歌山地方大水害(『日本の自然災害』p.490)、昭和二八年七・一八水害(『和歌山懸災害史』p.16)、一八水害(『和歌山懸災害史』p.136)などいくつかの呼称が見られる。 和歌山県内では七・一八水害がほぼ定着している。

気象の概況

 時期的には梅雨の後半にあたり、集中豪雨が発生しやすい時期である。この年の7月14日に黄海上で発生した低気圧は西進して日本海に入り、これから南へ延びる閉塞前線が東海地方で寒冷前線および停滞前線につながり、さらに西に延びていた。この前線の活動によって各地で雷雨が発生、特に7月17日から18日にかけて紀伊半島の中部山岳地帯で集中豪雨となった。
 
 この時の雨は高野山系から大峰山系にかけてに集中し、その間の龍神では450mmまでは観測したが、相当量があふれたと見られ、この地域が日高川、有田川の水源にあたり、おそらく500mmほどの雨が降ったと考えられる。
 後の聞き取り調査によると有田川源流域の花園村付近では17日の24 - 24時から18日の3 - 4時頃に最も強く降った。奈良県猿谷の自記雨量計で18日2時ころに時間雨量69.9mmとあるが、戸外のバケツが1時間でいっぱいになったとか、山の木の葉が雨に打たれて落ちたなどの目撃などから、最大で時間あたり100mmほどになったのではないかとも言われる。
 なお、この雨はきわめて局地的で、この間に和歌山市では132mm、潮岬で95mm、大阪ではほとんど降っていなかったという。
 
 洪水の初期にすでに水は堤防を越えた。有田川では下流域の堤防が決壊したのが午前7-8時頃で、これによって流れの幅が500-1000mも広がったにもかかわらず、さらに水位が上がり、最高水位は午後4時頃に記録された。
 
 
地域ごとの状況
大きな水害になったのは貴志川、有田川、日高川、熊野川である。

貴志川水系

 本流の紀ノ川でもあちこちで洪水が発生する被害があったが、特に貴志川流域の被害は大きかった。水位は約6m上昇し、各地で洪水、家屋が流出するなどが起き、特に美里町の上神野、下神野、長谷毛原、国吉で被害が大きかった。貴志川町と桃山町では堤防が決壊して本流が移動したため、洗堀個所が1ヘクタールに達した。

有田川水系

 上流域では山肌はあちこちで崩れ、清水町の二川では高さ240m幅350mに渡って地滑りが起き、これによって約百戸の家屋が消えた。これはこの水害での斜面崩壊では最大規模のものである。このような流出土砂によって上述のように多数の天然ダムができた。徳田などの集落はその全部が流失、集落の多くが流失したところもいくつかあった。花園村役場も流失した。
 
 有田川は増水が最も激しく、最大で10mの水位の上昇があった。殿原、宮原などの堤防が決壊し、保田、宮原、箕島などの地域が泥の海になった。金屋橋は午前七時に流失、それより下流の橋は一つを残して流失した。紀勢西線は宮原駅前後が2.7kmに渡って流失した。
 また宮原小学校、保田中学校は校舎全部が流失した。洪水の引いた跡には泥や樹木が取り残されたが、その厚みは1mにもなり、家屋がほぼ埋められる状況も見られた。

日高川水系

 日高川の水位上昇は最大で7m、設置されていた橋は上流から下流までそのほとんどが流失した。
各地で堤防が決壊、下流域の御坊市周辺一帯はほとんど冠水し、水の引いた跡には泥と樹木が積み重なっていた。

熊野川水系

熊野川では本宮地域の被害が大きく、各地で山崩れが起きた。また林業被害が大きく、流失した木材は十二万石に及んだ。これらの木材はその後に一部が海岸に流れ着き、山をなすこともあった。

それ以外の地域

 有田から日高にかけての河川ではそれなりに水害が生じ、たとえば国道42号線では切目橋(切目川)と南部大橋(南部川)が流失している。ちなみに、参考文献にあげてある『目で見る100年』のシリーズは和歌山県を六地域に分けて出版されているが、和歌山市と田辺・西牟婁の巻はこの災害を取り上げていない。

被害

和歌山県内の被害は以下の通り。
  • 死者・行方不明者:1015人
  • 負傷者:5709人
  • 家屋全壊:3209棟
  • 家屋流出:3986棟
  • 床上浸水:12734棟
  • 床下浸水:15313棟
  • 道路損壊:8102か所
  • 橋梁流失・損壊:1293か所
  • 山・崖崩れ:4005か所
  • 田畑流失・埋没:5929町歩
  • 田畑冠水:7322町歩
 
 
十津川歴史資料館では、明治22年の水害の様子が展示されています。また、十津川道の駅では、平成23年の水害にに関するパンフレットを販売しています。
北海道の新十津川村は、奈良の十津川から行ったんですね。奈良十津川には、北海道の新十津川のお土産が売っています。
 
尾鷲の熊野古道センターでは、勝浦や新宮付近の水害のビデオを上映しています。
 
 
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転載元: 水.土壌.心を美しくカメラを通して考え真実を伝える


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