大阪市浪速区 大阪ドームを近くに望む大正橋の東詰に「安政南海地震津波碑」が建てられています。
長尾武さんという養護学校の先生がこの碑について調べてまとめられた「水都大坂を襲った津波(改訂版)~石碑は次の南海地震津波を警告している~」という本を読んで、この碑がどんなに貴重な文化遺産であり、大切なメッセージを発しているのかを知ることが出来ました。
江戸時代大坂では二度の地震で津波が襲っている。すなわち宝永四年(1707)の宝永地震津波と、嘉永七年(安政元年ー1854)の安政南海地震津波である。以下長尾氏の本から抜粋。
「江戸時代、大坂では大火が頻発に発生し、人々は家財道具を川船に積み込んで、堀川に逃れることを常としていた。道路が狭く堀川が避難場所として利用されていたのである。宝永、安政両地震の際にも、地震の激しい揺れを恐れ、多くの人々が堀川に避難し、その後、津波が襲い、船に乗っていた人々のほとんどが溺死したのであった。『大地震両川口津浪記』は「大地震の節は津波起こらん事を兼て心得、必船に乗るべからず」と注意している。
安政南海地震津波の被害を受けた大坂の人々は、宝永地震津波の教訓を生かせなかったことを悔やみ、津波のあった翌年、犠牲者の霊を弔う石碑を建て、その碑文、『大地震両川口津浪記』で、後世の人々に津波の恐ろしさを教え、その教訓を忘れないように警告したのであった。」
碑文では地震の前兆ととらえられる五ヶ月前の伊賀上野地震から記述をはじめ被害の状況を詳しくかいており、地盤の液状化と思われる記述もあります。
そして船に避難してはいけないこと、火災のことを考えてお金や証文を蔵に保管し戸締りをして火の用心をすること、川に停泊している船は水勢の穏やかなところにつなぎかえ、囲い船(北前船のように冬期航海出来ず、休んで、修理などされている船)は出来るだけ早く高い場所に引き上げ用心すること、津波だけでなく液状化についても海辺、大川、大池の近くに住む人は用心することなど注意を促しているのです。
最後に「(口語訳)津波が平常の高潮と違うことは、今回被災した人々はよく知っているが、後の人々の心得のため、また溺死した人々の追善供養のため、ありのまま、拙文にて記しておきます。どうか、心ある人は、文字が読みやすいように、毎年、碑文に墨を入れてください。」と結んでいます。
すごい石碑です。南海・東南海地震の発生が迫る今、この碑の持つメッセージの意味は大きいと思います。碑文に墨を入れる代わりにここに紹介し、これからも大切に伝えていきたいと思います。
(最後の写真は近くの大正区の町並み 碑があるのは浪速区)
参考サイト
安政大津波の碑 http://www.city.osaka.jp/naniwa/spot/monument/ansei.html
西大坂の土木遺産 http://www.cvv.jp/cvv/advice/kengaku/nishiosaka/index.htm
徳島の地震津波碑 http://www.osaka-jma.go.jp/tokushima/tsunamihi/tsunamihitop.htm