本堂 | |
和歌山県紀の川市粉河2787 | |
風猛山(ふうもうざん) | |
粉河観音宗(天台宗系) | |
総本山 | |
千手千眼観音菩薩 | |
(伝)宝亀元年(770年) | |
(伝)大伴孔子古 | |
西国三十三所第三番 | |
粉河寺縁起絵巻(国宝) 大門・中門・本堂・千手堂(国の重要文化財) 粉河寺庭園(国の名勝) |
歴史
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて千手観音の像を刻んだ。
8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、金色の千手観音の像だけがあった。孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。
2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に尽くしたとのことである。
以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を得て栄えたことは確かである。清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。
西行の『山家集』や、架空の物語である『うつほ物語』『狭衣物語』にも粉河寺への言及があるなど、遅くとも平安時代中期・10世紀には観音霊場として著名であったことがわかる。平安時代後期には、その頃から始まった西国三十三所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉が紀州に攻め入り、根来寺や雑賀衆とともに抵抗したものの全山焼失した。この時、粉河寺縁起絵巻も焼損した。正徳3年(1713年)にも火災があり、現在の伽藍はほとんどがそれ以降の江戸時代の再建である。
本尊
粉河寺の本尊千手観音像は絶対の秘仏とされ、公開された記録はない。日本の仏教寺院では、本尊が秘仏である場合、「お前立ち」と称する代わりの像を本尊厨子の手前に安置する場合があるが、粉河寺においては「お前立ち」像も秘仏である。本尊像は火災を避けるために本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされる。
「お前立ち」像は年に一度、12月31日に僧籍にある関係者が掃除のために開扉するのみで、在家の者が拝観する機会はない。なお、内陣背面に安置された「裏観音」と称する千手観音像は拝観可能である。
2008年から2010年にかけて、花山法皇一千年忌を記念して、西国三十三所のすべての札所寺院において秘仏の結縁開扉が行われているが、粉河寺の本尊像はこの際にも開扉されることはなく、2008年10月に特別開扉されたのは、本堂の隣の千手堂の千手観音像である。なお、寺には高さ33センチメートルほどの木造の菩薩像頭部(11世紀頃の作)が所蔵され、これが旧本尊像の頭部であるともいわれている。