今日、12月8日は
多くの方が『真珠湾攻撃』にて大東亞戦争が始まったと思っていますが
実は違います
去年もお話したかな?
海軍が真珠湾攻撃を始める1時20分前、マレー半島に上陸した陸軍の奇襲・強襲攻撃で開戦にいたりました
つまり『マレー半島の深夜』『ハワイの早朝』という時間しか陸軍が安全にマレー半島の揚陸地点・コタバルに上陸にできないということで考えられた作戦でした
当時、日本の作戦目標は南方資源の確保でしたので
海軍はその為にアメリカ太平洋艦隊とイギリス極東艦隊を抑える役割でした
作戦の主力は陸軍、それも輸送船に乗った多くの陸軍部隊でしたので
イギリスやオランダの航空機からの攻撃を避けるために
あえてこの夜(午前1時30分)に上陸することとなりました
上陸部隊の先陣は当時最強と呼ばれていた
我が地元福岡・久留米の『菊兵団』こと第18師団の歩兵第56連隊を基幹とする佗美支隊の精鋭
しかし待ち構えるイギリス軍も必死に反撃して死闘が繰り広げられました
苦戦しながらも8日正午までに橋頭堡を確保
夜にはコタバルの飛行場を強襲
翌日にはコタバル市内を制圧して、マレー作戦の第一歩を築きました
そんな激闘のあった12月8日
海軍だけでなく、陸軍のことも忘れないでくださいね
※戦後、海軍=善 陸軍=悪のようなイメージがなぜか植えつけられましたが、陸軍のこのような活躍なくして戦後のアジア諸国の独立運動があったことを忘れてはいけません
で、ナチタ重工業ですが・・・・・・・・・・
とある演習地で、陸上自衛隊との演習に参加!
最近このパターンが多いです(笑)
ナチタ総統:「金田、忘れてないか?我が地元福岡の久留米に第一戦車連隊があったことを!」
金田工場長:「ちゃんと覚えてますぞ、第一戦車連隊がマレー半島で快進撃をしたことを」
今日は演習地に九七式中戦車『チハ』を持ちこんだナチタ重工業
ナチタ総統:「これが『志』のマーキングで有名な第一戦車連隊第三中隊の九七式中戦車チハタンだ!」
金田工場長:「チハ・・・タンですね(笑)」
開戦当時主力の九七式中戦車『チハ』
スケールモデルでも定番のこのカラーリングは実は久留米の第一戦車連隊の車輛です
この第一戦車連隊第三中隊の戦車と第5師団の佐伯中佐が率いる約600人の【佐伯挺身隊】とで、イギリス植民地マレーとタイの国境にあった強力な陣地『ジットラ・ライン』を激戦の上突破・占領
その後マレー半島を歩兵に協力しながら南下しました
※当時『ジットラ・ライン』にはイギリス軍は兵力6000名を配置していたといわれましたが、少数の佐伯挺身隊と第一戦車連隊第三中隊による夜襲でここを占領、翌日にはイギリス軍は遁走しました
大本営陸軍部内でも想定以上の戦果だったようです
『ジットラ・ラインだけにじっとしとられん』
ところで、今日は九七式中戦車以外にも
試運転を兼ねて・・・・・アレを持ちこんだナチタ重工業
金田工場長:「総統、四式中戦車チトも持ってきました!」
ナチタ総統:「金田~!チハと比べるとこれまたデカイな!」
これが戦後「幻の戦車」とよばれた
たった2両だけ完成した四式中戦車「チト」
75mm砲を搭載したその姿は勇ましいです!
ナチタ総統:「金田、チハタンと同じでなんで砲塔が右側よりなんだ?」
金田工場長:「日本では戦後左よりがもてはやされましたが、やはり総統は極めて右ですよね?」
※なんで当時の日本の戦車の砲塔が右寄りだったのかはわかりませんが、想像するに右側に操縦席があって、砲塔の車長に近いからコミュニケーションがとり易かった?
この四式中戦車チト【試作車】では右側に砲塔が寄ってますが、計画された量産型では砲塔は中央に置くように改設計されてます
その性能についてはいろいろといわれる旧陸軍の戦車
走行を厚くすると重量が増え、輸送船から港湾施設や艀(はしけ)に降ろすことも困難だったでしょうし
ドイツの様な重戦車を東南アジアや日本本土のような軟弱な地面で走らせる困難さは想像に難くないですね
ナチタ総統:「車体後部側面フェンダー上の排気管の位置も伝統だな」
金田工場長:「74式戦車までの日本戦車の特徴ですな!」
※なんでこの排気管の位置かは知りませんが、私的には戦車を盾に後方に歩兵が隠れることが出来る為?なんかじゃないかと想像しております
その名残が、戦後の61式や74式の車体後部にあった車内との連絡用の電話機だったんじゃないかな?
勝手に想像して満足しています(笑)
で、この四式中戦車は
初めての対戦車戦闘を考慮して設計された戦車でした
それまでは歩兵の支援や陣地突破を目的にしてました。
今日、12月8日
いつまでも忘れてはいけませんね