明治40年(1907年)現在の山梨県甲州市石和町をはじめ山梨県下を襲った大水害、当時知事だった武田千代三郎氏の追想記。
長田組土木株式会社発行
丸山太一・熊谷喜孝編集
平成十三年三月十日発行非売品
「明治四十年大水害実記-武田千代三郎知事の追想記-」
御賜林 御下賜90周年記念として発行
現代語訳されたp50~p70を読ませていただきました。
p50までは、武田千代三郎知事の漢文による原文、丸山太一氏による書き下し文が記載されています。
2018年、今年も日本各地で大水害が起きました。
被害に遭われた方へこころよりお見舞い申し上げます。
偶然手にとった冊子があまりにも感動的だったので、つっかえつっかえ下手な朗読ですが、読ませていただきました。
山梨県内の図書館で借りることができますので、ご興味のある方はどうぞ読んでみてください。
南アルプス市の図書館では、610425076番で借りることができます。
長田組土木株式会社発行
丸山太一・熊谷喜孝編集
平成十三年三月十日発行非売品
「明治四十年大水害実記-武田千代三郎知事の追想記-」
御賜林 御下賜90周年記念として発行
現代語訳されたp50~p70を読ませていただきました。
p50までは、武田千代三郎知事の漢文による原文、丸山太一氏による書き下し文が記載されています。
2018年、今年も日本各地で大水害が起きました。
被害に遭われた方へこころよりお見舞い申し上げます。
偶然手にとった冊子があまりにも感動的だったので、つっかえつっかえ下手な朗読ですが、読ませていただきました。
山梨県内の図書館で借りることができますので、ご興味のある方はどうぞ読んでみてください。
南アルプス市の図書館では、610425076番で借りることができます。
明治40年の大水害
山梨県における治山・治水
山梨県では甲府盆地の東西に笛吹川、釜無川の二大河川が南流し、盆地南部で合流して富士川となる。この三河川やそれに合流する支流河川により古来から水害の多発していた地域で、中世後期から近世初頭には信玄堤(甲斐市竜王)や南アルプス市の御勅使川治水、笛吹川では万力堤、近津堤に代表される大規模な治水工事が継続されていた。
洪水は大雨などの気象条件以外に山林の荒廃などによる社会的条件によっても発生しやすくなるが、山間部である山梨県では林業などの山稼ぎや肥料・燃料となる草木採取が盛んで、江戸時代には山林は共同利用地である小物成地(入会地)として入会慣行により管理されていた。一方、江戸後期には甲斐国では養蚕が普及し、笛吹川とその支流が流れる盆地東部の峡東地方では煮繭用の木材需要が高まった。
明治40年水害の発生と被害状況
明治初年から明治20年代に水害が多発した山梨県である、明治20年代から明治30年代にも引き続き大水害が多発し、特に1889年(明治22年)、1892年(明治25年)、1896年(明治29年)、1898年(明治31年)の水害などは多大な被害を及ぼした[13]。
明治40年の大水害は、1907年(明治40年)8月21日夜半から8月26日にかけた台風の影響による記録的大雨に発生した。水害の様子は、同年8月23日から10月10日まで被災地を視察した警察官・望月嘉三郎の巡視日記である『明治四十年八月山梨県下水害地巡視日記』(以下『巡視日記』、原本は山梨県立博物館所蔵「古文書雑輯」、全文が『山梨県史資料編14 近現代1政治行政Ⅰ』に収録)に詳述されている。
『巡視日記』によれば山梨県では8月22日から8月28日まで大雨が降り続けたという。降水量は甲府で315.4mm、大月で728mm、山中湖で643mm、南部で469,2mm、鰍沢で305mm[14]。この大雨により河川は乱流し、土砂崩れや堤防の決壊、橋脚の破壊などを引き起こし、家屋の全半壊や集落の孤立、耕地の流出や埋没、交通の寸断など甲府盆地東部の峡東地方中心に多大な被害を出した[15]。死者は233人、流出家屋5757戸、埋没や流出した宅地や田地650ヘクタール、山崩れ3353箇所、堤防の決壊・破損距離約140キロメートル、道路の流出や埋没、破損距離約500キロメートル、倒壊した電柱393箇所とされる[16]。山梨県の近代における最大規模の自然災害となった。また、1910年(明治43年)にも大規模な水害が発生している。
『巡視日記』被災地や避難所の様子のほか行政の救援・医療体制、水害要因の考察などが記されている[17]。『巡視日記』では東山梨郡神金村(甲州市塩山)における山体崩壊や、東山梨郡加納岩村(山梨市)における村落間の暴動など水害を巡る状況を記しており、重川流域における被害に関しては鉄道による石材の輸出で山林が荒廃し、山体崩壊を招いたとする地元住民の見解を記している[18]。また、東山梨郡一宮村(笛吹市一宮町)では明治維新後に古来からの堤防が破壊されたことが水害を及ぼしたとする住民の意識を記している[19]。さらに、『巡視日記』では竹林の重要性なども考察している[20]。
『巡視日記』は県長官が災害時においても教育を重視して訓示を行っていることや、御真影を避難させた逸話など、同時代の社会状況を示す史料としても注目されている。
明治40年の大水害は郡内地方においても大きな被害を出し、作家・山本周五郎は幼少期に北都留郡初狩村(大月市初狩町下初狩)に居住しており、一家は被災して一家は東京府北豊島郡王子町豊島(東京都北区豊島)に転居している[21]。