但馬国
但馬国 別称所属相当領域 諸元国力距離郡・郷数 国内主要施設但馬国府但馬国分寺但馬国分尼寺一宮
■-但馬国 ■-山陰道 | |
但州(たんしゅう) | |
山陰道 | |
兵庫県北部 | |
上国 | |
近国 | |
8郡59郷 | |
1. 未詳 2. 兵庫県豊岡市 | |
兵庫県豊岡市(但馬国分寺跡) | |
兵庫県豊岡市 | |
出石神社(兵庫県豊岡市) |
沿革
のちに但馬国となる地域には以下の2つの国造が置かれていた。
- 但遅麻国造(たじまのくにのみやつこ、たじまこくぞう) ⋯⋯ のちの但馬国東部にあたる地域(のちの朝来郡・養父郡周辺にあたる[2])を支配した。氏族は但馬氏。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば第13代成務天皇の代に竹野君同祖の彦坐王(第9代開化天皇皇子)の五世孫である船穂足尼を国造に定めたという。
- 二方国造(ふたかたのくにのみやつこ、ふたかたこくぞう) ⋯⋯ のちの但馬国西部にあたる地域を支配した。但馬国には二方郡の名が残り、明治29年(1896年)七美郡と二方郡の地域をもって発足した美方郡の現在の郡域(香美町・新温泉町)の周辺が二方国造の支配地域である[3]。『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば但遅麻国造と同じ成務天皇朝に出雲国造同祖の遷狛一奴命の孫である美尼布命を国造に定めたという。
こののち、のちの丹波国・丹後国・但馬国の3国にあたる地域は丹波国造の支配地域である丹波国となった。但馬国は7世紀後半に丹波国より8郡を分割して成立したとする説もあるが確証はない。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されている。
国内の施設
国府
初期の国府の所在地には、豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡とする説、気多郡(現在の豊岡市日高町)内とする説があるが、明らかでない。『日本後紀』によると、延暦23年(804年)に気多郡高田郷に国府が移されたという[5]。豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の付近で発掘された祢布ヶ森遺跡(豊岡市日高町祢布)がこれに比定される(位置)。
国分寺・国分尼寺
- 但馬国分寺跡(豊岡市日高町国分寺、位置)
- 但馬国分尼寺跡(豊岡市日高町水上・山本、位置)
- 国分寺跡から北方の豊岡市立日高東中学校付近。礎石が伝世され、尼寺の遺構とされる。北方の天台山法華寺(豊岡市日高町山本、位置)が後継を称する。
神社
- 朝来郡粟鹿神社
- 比定社:粟鹿神社(朝来市山東町粟鹿)
- 養父郡夜夫坐神社二座(五座のうち)
- 比定社:養父神社(養父市養父市場)
- 養父郡 水谷神社
- 比定社:水谷神社(養父市奥米地)
- 出石郡伊豆志坐神社八座
- 比定社:出石神社(豊岡市出石町宮内)
- 出石郡 御出石神社
- 気多郡山神社
- 比定社:山神社(豊岡市日高町山宮、位置)
- 気多郡 戸神社
- 比定社:戸神社(豊岡市日高町十戸、位置)
- 気多郡 雷神社
- 比定社:雷神社(豊岡市佐野、位置)
- 気多郡 欘椒神社
- 比定社:欘椒神社(豊岡市竹野町椒、位置)
- 城崎郡海神社
- 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧[6]。