『古事記』や『日本書紀』にイザナキとイザナミが国産みを行う話とこの神話を作成したヤマト王権について検証してみたいと思います。この検証で、ある仮定のもとにお話しますので、実際のところは不明。「ヤマト王権が九州からやって来て、奈良県桜井市の纒向に政権基盤を置いた。」と仮定します。
纒向遺跡から4km程離れた奈良県磯城郡田原本町に唐古・鍵遺跡があり、この遺跡から弥生時代としてはもっとも古い総柱の大形建物跡が出土され、南方6kmにある耳成山からの流紋岩で作られた石包丁で多数の鍬や鋤の農耕具、斧の柄などの工具、高杯や鉢などの容器類の木製品も発見されたことから、弥生時代(紀元前3世紀頃)から水田による稲作が行われ、そのための集落が存在していました。中国・四川省の古墳(1世紀頃)で出土した神仙世界の天門を表す図柄とよく似ている土器の破片が発見されて話題になった唐古・鍵遺跡で、この絵をもとに現在、この地に復元された楼閣が立てられています。以前から稲作を生活の糧にしていた集団のところに中国出身の帰化人がやって来ているのでしょうかね。それとも、この地には各地の搬入土器が多く出土していることから市がすでに存在し、帰化人の海人族の技術者もいたようで、南部では木器の未成品や青銅器鋳造関連遺物や炉跡も発見され、農工商の機能をもった集落に成長していた。この地で近畿を中心に発見されている銅鐸を製造していたようですね。銅鐸が製造された時期は、弥生時代後期ですから、ヤマト王権が九州から纒向に移住してきた時期、2世紀頃にあたります。倭国大乱の時期ですね。その頃から後に、纒向に垂仁天皇が纒向珠城宮を、景行天皇が纒向日代宮を築いています。唐古・鍵遺跡を支配していたのは。『日本書紀』によると「崇神天皇に大水口宿禰が、箸墓古墳の主とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)・伊勢麻績君(いせのおみのきみ)とともに同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられた旨を天皇に奏上した。」という記事があります。この大水口宿禰は、ニギハヤヒの後裔であり、穂積氏の遠祖と言われ、穂積氏が物部氏の本流であり、この奈良県磯城郡田原本町にある唐古・鍵遺跡を本拠地にしていました。
穂積氏或いは物部氏が本拠地にしていた唐古・鍵遺跡の弥生時代中期末から後期の推定人口は、2,000人と推定されています。その頃、倭国大乱が起こる直前、九州の吉野ケ里遺跡では、5,400人も。でも、近畿でも唐古・鍵遺跡ほどの人口ではないものの、大阪府和泉市の池上・曽根遺跡では、1,000人が生活し、大阪平野には池上・曽根遺跡以外に40近くの集落が存在していました。この集落のすべてがヤマト王権の支配下にあったと言っていいでしょう。また、吉野ケ里遺跡が倭国大乱の後、完全に消滅していることを思うと、吉野ケ里遺跡の残党が近畿圏に流れて来たとも考えられ、吉野ケ里遺跡から銅鐸がはっけんされていることも考慮して、吉野ケ里遺跡にいた青銅器や鉄器の技術者も。池上・曽根遺跡にも青銅器の工房跡が発見されています。
鉄器の工房と言いますと池上・曽根遺跡から大阪湾沿岸に出て、海を隔てて西に薄らと淡路島が望めます。池上・曽根遺跡の真西に。弥生時代後期・1世紀ごろのおよそ100年間にわたり存在した、鉄器製造施設跡、鉄を加工した炉跡の遺構がある五斗長垣内遺跡や舟木遺跡が存在したことが確認されています。
このように国産みの神話は、考古学的な観点から生まれてきた。すなわち、イザナキとイザナミという架空の神が天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜ、生まれたのがオノゴロ島。これは、一説には友が島の地ノ島や沖ノ島だと言われていますが、私は大阪平野の集落や唐古・鍵遺跡の集落或いは、纒向遺跡の集落ではないかと。また、『古事記』に仁徳天皇が吉備の国に幸行するときに詠んだ歌として、『押してるや、難波の崎から出で立ちて、我が国見をすると、アハ島オノゴロ島アジマサの島も見える、サケツ(先つ)島も見える。』とあり、そのころからオノゴロ島があったようです。オノゴロ島はどこであったかわからないけれど。その後、イザナキとイザナミは大八島(淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬、佐渡島、本州)を生み出していきます。これって、ヤマト王権がこの地に侵略して勝ち取った順番ではないかと思われます。安土桃山時代の戦国時代に戦いが行われたとき、足軽などの兵士として農民が引っ張り出してきたように、ヤマト王権が武器を大和国や河内国の集落で作らせ、稲作をしている農民を戦場に。また、洪水を防いだり、灌漑を整備して、農地を増やすための土木工事にも大和国や河内国の集落の人々を使ったようにも思えます。