石川県の歴史
原始
石川県内で発見された旧石器時代の遺跡は能美市の灯台笹遺跡[44][45]など極めて少ない。縄文時代の遺跡では草創・早期の遺跡は少なく、中期と晩期にピークがある。能登町の真脇遺跡は縄文時代の前期から晩期まで約4,000年続く長期定住遺跡である[46]。縄文時代後期から晩期の遺跡としては金沢市のチカモリ遺跡[46][47]、野々市市の御経塚遺跡[46][48]がある。
概要
本遺跡は犀川の造り出した扇状地にあり、地下水が豊富にあるため木製品や植物製品が残されていた。1954年から数回にわたり発掘調査が行われたが1980年の調査の際に掘立柱の環状木柱列(ウッドサークル)が発見された。その後の調査で、直径30から85センチメートルの巨木柱の下部部分(柱根)が総計347点も発見され、円を描くように配置されている。それら木柱の多くは縦に半分に割られ、断面がカマボコ形になっているものやU字形になっている。加工されていないものは少ない。堅いクリ材であり、運搬に便利なように半截してあり、目途孔を開けている。
これら木柱のうち直径50センチ以上の23本の巨大な木柱は、集落の中央広場付近に8〜10本が組みになって、直径6〜8メートルの円形に規則正しく並べて立てられ、出入り口が付いている。円形遺構、正方形遺構、長方形遺構の三タイプに分けられる。これらのタイプが近接したり、重複したりしている。柱根だけが残っているので本来の長さは分からないし、どのような建築物であったかも分からない。しかし、柱の太さからいって普通の住居ではなかったことは推測できる。
これら、木柱根の出土が縄文時代の遺跡の中で極めて多く巨木文化の存在が考えられる。祭祀施設と想定されている。
1980年(昭和55年)チカモリ遺跡からクリの巨木を縦に半分に割り円形に並べた環状木柱列が見つかった。環状木柱列はその後真脇遺跡でも発見されている。環状木柱列の用途・機能は「儀礼の場」や「特殊な建物」など様々な考えがあり不明である[46]。羽咋市の吉崎・次場遺跡は北陸地方でも規模が大きい弥生時代の遺跡で近畿、東北、山陰などとの交流が認められる[46]。
能美市には60数基の古墳が点在する能美古墳群がある。その中心に位置する和田山・末寺山古墳群からは武器・武具など大量の副葬品が出土している。また、同じ能美古墳群の一角にある秋常山1号墳は全長約140mの前方後円墳である。中能登町の雨の宮古墳群には北陸最大級の前方後方墳である雨の宮1号墳がある。また、七尾市の能登島にある須曽蝦夷穴古墳はドーム型の墓室を持ち朝鮮半島の古墳にも通じるものとされる[46]。
古代
- 真脇遺跡・・・縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡
真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。用水路工事に伴う1982 - 1983年にかけて行われた発掘調査により発見された。遺跡は入江奥の沖積低地の遺物包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした土層などが話題を呼んだ。
この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期 - 中期にかけて多く見られる)。イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。
遺跡最晩期の土層からは円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。その太さは直径80 - 96センチもある。小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。
- 718年(養老2年)5月2日:越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して能登国成立。
- 741年(天平13年)12月10日:越中国に併合。
- 748年(天平20年):大伴家持が能登巡行。
- 757年(天平宝字元年):再び分立し能登国成立。
- 8世紀初めごろ:鳳至郡の最初の行政長官。鳳至郡司に外正ハ位下能登臣智麻呂が任命される。(中央官人が派遣)
中世
旧珠洲郡
- 平安時代に入ると荘園開発が進み12世紀半ばには能登最大級の荘園である摂関家九条家領の若山荘が成立し、事実上の支配権は日野家がその領主になる。荘園内にある法住寺や春日神社を庇護し支配権を確立。鎌倉時代に入ると地頭職も定められるが形骸化し、引き続き日野氏の支配が続く。
- 1470年(文明2年):松波城着工。1474(文明6)年に完成。能登畠山3代当主・畠山義統が建設。
三男・義智が松波に入部して自ら松波畠山氏の祖となり以後100年近く同地を領した。
旧鳳至郡
- 崎山城・・・能登畠山氏の重臣であった三宅一族の居城
江戸
- 織田・上杉家の能登畠山家を巡る騒乱を経て、織田家配下前田利家の所領に。
- 江戸期、加賀藩独自の十村役に山本家・中谷家・源五家等がなり支配
- 松波には鍛冶町,本組などの町々が形成され,収納蔵,塩蔵などが置かれた。
- 1627年(寛永4年):能登奥郡(珠洲郡・鳳至郡)の年貢・塩の算用を担う奥両郡算用場が珠洲飯田に置かれる。
- 1729年(享保14年):能登半島で大地震
- 1756年(宝暦6年)6月:大雨・洪水 死者76名
- 1756年(宝暦6年)7月:宝暦の百姓一揆(地域の23カ村の千人ほどが宇出津の十村役源五宅を襲撃)
古代
県域は飛鳥時代には越国あるいは三越分割後の越前国に含まれていた。奈良時代に入り、718年に羽咋・能登・鳳至・珠洲の4郡を割いて能登国が立てられた。能登国は741年越中国に併合され、この頃大伴家持が越中国の国司として赴任している。757年には越中国から分離し、再び能登国が立てられた。平安時代初期の823年になって越前国から加賀・江沼2郡を割いて加賀国が立てられた。これは令制上最後の立国である。
七尾市にある能登国分寺跡は、能登地方を支配した能登臣(のとのおみ)一族が白鳳時代に建てた寺院を843年に国分寺としたものである。法起寺式伽藍配置を持ち[50]、約400年にわたり能登の仏教の場として栄えたとされる[46]。奈良時代から平安時代には、能登半島には渤海の使節がたびたび到着し交易が行われていた。志賀町の福浦港では渤海使が船の修理や宿泊をしたと伝えられており、平安時代初めに渤海使接待のため能登国に建てられた能登客院はこの地にあったと考えられている[51]。