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若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。

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若狭国   

若狭国 別称所属相当領域 諸元国力距離数 国内主要施設若狭国府若狭国分寺若狭国分尼寺一宮
地図 令制国 若狭国.svg
-若狭国
-北陸道
若州(じゃくしゅう)
北陸道
福井県南部(嶺南地域)から敦賀市を除いた部分
中国
近国
3郡20郷
福井県小浜市
福井県小浜市(若狭国分寺跡
(未詳)
若狭彦神社(福井県小浜市)
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若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。


沿革

古代

律令制で統一国家が成立する前の若狭地方は、若狭国造角鹿国造の領土だったと言われており、日本書紀には若狭国造やツヌガアラシトの記述がある。しかし、4世紀後半にはヤマト王権の支配下にあった。
ヤマト王権の支配下に入ると、7世紀に若狭国が設置された。当初は遠敷郡三方郡から成ったが、 天長2年(825年7月10日に遠敷郡の西部が大飯郡として分立して、以後は3郡となった。

奈良時代、ヤマト王権の日本海側入口として、海産物を朝廷に多く献上した為に、「御食国(みけつくに)」に該当すると推定されている。調を納めるよう定められ、8世紀には製塩が非常に盛んであった。塩を京に運んだことを示す木簡で1990年代までに見つかった129点のうち、若狭国は第1位で49点、38%を占める[3]

奈良東大寺で実施されるお水取りは、東大寺が小浜に持っていた荘園に由来するである。平安時代から江戸時代まで、若狭地方は京都の外港として発展した。

お水取り

3月12日、後夜の咒師作法の中で(13日午前1時)、咒師は蓮松明という松明に照らされながら5人の練行衆とともに南側の石段を下りて閼伽井屋(あかいや 別名・若狭井)へ向かう。

大勢の参拝者の見守る中、雅楽も奏され、おごそかに行列が進む。途中小さな神社に立ち寄り法要を営んでから、咒師と堂童子と駆士と数人の童子が閼伽井屋に入り香水をくむ。他の5人の練行衆は入口を警備する。香水は閼伽桶とよばれる桶に入れられ榊を飾った担い台に載せられ内陣に運ばれる。香水は須弥壇下の香水壺に蓄えられ、本尊に供えられたり、供花の水として用いられたりする。

この水は、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が神々の参集に遅れたお詫びとして二月堂本尊に献じられたと伝えられ、今でも遠敷明神の神宮寺であった若狭小浜市若狭神宮寺では今もこの井戸に水を送る「お水送り」(3月2日)の行事が行われている。お水取りが終わると咒師作法は再開される。


中世

鎌倉時代には執権である北条氏自身が守護職を務めていたが、鎌倉幕府と北条氏の滅亡後は、北条氏を倒し武家の棟梁となった足利氏の最有力支族である斯波氏など、その時代時代の室町幕府の実力者か、それに連なる人物が京に近い若狭の守護職を得ている。

室町時代初期の一色範光以降は一色氏が世襲するようになるも、一色義貫が殺害された後は安芸国分郡守護の安芸武田氏から分出した若狭武田氏が若狭守護職を獲得し、丹後に拠点を移した一色氏と丹後守護職を廻り激しく対立した。

若狭武田氏は戦国時代に将軍家や管領細川氏の信任を得て勢力を保ち小浜を拠点に日本海交易を展開するが、永正の錯乱以降の畿内の戦乱と共に衰退の色を深め、一族間の内乱の末、親族である越前朝倉氏に庇護され、その傀儡となる。その朝倉氏も尾張守護代より台頭し畿内を席捲する勢力となった織田氏に滅ぼされた。

織田政権において、若狭国は織田信長配下の丹羽長秀が支配し、旧武田氏の被官を指揮した。本能寺の変の後、織田信長に代わって豊臣秀吉が政権を握ると(豊臣政権)、若狭国は山内一豊などの秀吉の子飼いの大名が治めるようになる。

近世

江戸時代になると、京極高次が若狭を領することとなり後に越前敦賀郡を含む若狭地方一帯は小浜藩領となった。又、江戸時代には北前船が若狭地方を本拠地とした為に、敦賀小浜は海運の一大拠点として盛えた。又、小浜と京都を結ぶ今の国道367号が「鯖街道」と呼ばれていたように、江戸時代には特にの水揚げが多かった。のちに藩主家は京極家から酒井家へと替わる。

幕末になると、水戸を本拠地とする天狗党が京都を目指して蜂起したが、敦賀に逃れた天狗党員は皆殺しされた。

鯖街道

   
若狭街道熊川宿
鴨川に架かる出町橋。たもとには「鯖街道口 従是洛中」と書かれた石碑がある。

鯖街道(さばかいどう)は、若狭国などの小浜藩領内(おおむね現在の福井県嶺南地方に該当)と京都を結ぶ街道の総称である。
主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートであったが、その中でも特にが多かったことから、近年になって鯖街道と呼ばれるようになった[1]

近現代

明治維新を迎えると、1871年8月29日廃藩置県後、同年12月31日には、旧若狭国に敦賀郡今立郡南条郡を加えて敦賀県を形成した。1873年(明治6年)1月には、今立・南条を除く嶺北で構成された足羽県を編入し、敦賀県は、現在の福井県と同じ県域となった。

1876年(明治9年)8月21日には敦賀県が分割され、敦賀郡と若狭地方(嶺南)は滋賀県に編入された。

4年半後の1881年(明治14年)2月7日には、嶺南4郡と嶺北福井県が形成された。突然このことを知らされた人々の中から遠敷郡の有志と、福井置県と同時に堺県の大阪府併合が布告される中、嶺南分割を滋賀県の京都併合への危機感と重ね合わせていた滋賀県令が、何度も嶺南4郡の滋賀県への復帰を政府に願い出たが、却下されてしまった。
帰郷後、福井県設置後、初めての臨時県会への抵抗から、運動の中心人物1名、遠敷郡2名、敦賀郡1名が当選していた県会議員を辞職するなど、滋賀県への復帰を求める運動は、開始から約1年半の間、様々な形で続いた。

1881年(明治14年)に、福井県令は、電信施設の設置を突如、政府が計画した他の地域の電信敷設計画を遅らせ、優先して嶺南に建設することを決定し、小浜小学師範・中学校開設費を原案通り可決し、年内にその設置を布達するなどの配慮を行った。嶺北と嶺南の地域対立の構図は、1881年からの約10年間、福井県政において、克服すべき大きな課題として存続し続けた[4]

明治前期に舞鶴鎮守府が設置されると、小浜線の敷設が進められた。

第二次大戦後には、若狭湾岸に原子力発電所が次々と建設され、これ以後は「原発銀座」と呼ばれている。また、現在の若狭地方は沿岸観光地域になっている。

近世以降の沿革



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