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[転載]台湾からオランダを追い出した・鄭成功の母「田川マツ」について書かれた本を探しています/平戸の鄭成功記念館にいきましょう /

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鄭成功生誕祭 平戸 2015/07/14

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中国明の軍人・鄭成功の母「田川マツ」について書かれた本を探しています。
当館の蔵書から、以下の5冊をご紹介します。
1)『日本の女性名:歴史的展望 中(教育社歴史新書)』p.232
 
 現在、台湾では、国姓爺こと、鄭成功(一六二四~一六六二)は、救国の英雄と仰がれ、その母・田川マツは、日本女性の亀鑑とたたえられている。彼(原文のママ)は平戸の川内浦の人で、鄭芝龍の妻となって福松ー後の鄭成功ーを産んだ。正保二年(一六四五)、マツは芝龍に喚ばれて中国に渡ったが、翌三年、芝龍が清に降伏したことを潔しとせず、泉州城内で憤死した(130)。その悲壮な生害のありさまは、近松の『国姓爺合戦』に生き生きと描かれている。
 注「130」は『長崎女人伝 上(西日本選書1)』(深潟久著 西日本新聞社 1980.9 p.52-57)ですが、当館では所蔵していないため確認できていません。

2)『日本女性人名辞典(普及版)』(参考図書のため貸出不可)p.646-647
田川マツ たがわまつ 生年不詳~正保三年(一六四六)
 鄭成功の母。肥前の国平戸川内浦の住人田川七左衛門の娘。明の泉州(中国福建省)出身の鄭芝竜と契って福松と七左衛門を生んだ。福松が後の鄭成功である。芝竜は平戸老一官と称して藩主の寵を受けた。のちオランダ船で南に行く途中海賊に捕えられたが才幹を認められ、頭目の死後は党類を率いて中国南部の沿岸を攻め、明朝に帰順し、富貴権勢赫々たるものがあった。子供たちは平戸に残っていたが、福松は単身渡海し一五歳で南京の太学に学ぶ。二一歳の時明王隆武に謁し、国姓朱を賜り、成功と改名、軍部督となった。人々は国姓爺と敬称した。。のち平戸の母を招きよく尽した。清が起り明王が危険に瀕した時、芝竜は清に降ったが、マツは泉州安平城内で憤死した。平戸川内浦千里ケ浜に鄭成功の児誕(じたん)石と葉山鎧軒撰文の碑が立つ。(『史都平戸』『長崎女人伝』)
 参考文献『史都平戸:年表と史談』(松浦史料博物館 初版1962~9版2012)『長崎女人伝 上』とも、当館では所蔵していないため確認できていません。

3)『鄭氏台湾史:鄭成功三代の興亡実記(汲古選書37)』p.3-5
 
I 鄭氏台湾政権の成立過程
 一 鄭成功集団の形成
  1 日中混血の招討大将軍
 当時の台湾、オランダ、中国(唐・明・清)の情勢と、それを背景にした鄭芝龍・鄭成功の説明が中心のため、田川マツについての記述は多くはありません。なお、ここでは鄭成功に「朱成功」の姓名を与えたのは「唐王隆武帝」となっています。
 
4)『東アジ新冷戦と台湾』p.79-82
第2章 最後の日本人台南市長・羽鳥又男について
 「開台聖王」鄭成功の母・田川マツ
 倭寇と台南、朱印船と台南、平戸と台南の関係を説明する中で、田川マツについての記述があります。
また、「田川マツ」の名前は明確に書かれていいませんが、参考までに平戸市の長崎県県指定史跡文化財「鄭成功居宅跡」も合わせてご紹介しておきます。
http://www.city.hirado.nagasaki.jp/city/info/prev.asp?fol_id=11837

5)『秘話鄭成功異聞』 (齊藤孝治/著 いなほ書房 2013.6)
p.19
「プロローグ 通説の嘘」
p.70
田川マツと翁氏

田川マツの記述があります。

[事例作成日:2014年8月1日]
日本  (281 8版)
日本の女性名 中 角田/文衛∥著 教育社 (232)
日本女性人名辞典 芳賀/登∥監修 日本図書センター (646-647)
鄭氏台湾史 林田/芳雄∥著 汲古書院 (3-5)
東アジア新冷戦と台湾 中村/勝範∥著 早稲田出版 (79-82)
秘話鄭成功異聞 齊藤/孝治∥著 いなほ書房 (19,70)
田川マツ(タガワマツ)






田川マツ   

田川松と幼年の鄭成功の想像彫像(台南市鄭成功祖廟
田川 マツ[1](たがわ まつ、1601年1646年)は、江戸時代肥前国平戸藩士田川七左衛門の娘である。

生涯

当時平戸を本拠に活躍していた明国福建省の海商、鄭芝龍の妻となり、鄭森こと後の英雄・鄭成功と田川家を継ぐ七左衛門の二子を生んだ。鄭森が6歳になったころ、鄭芝龍の故郷の福建省に、親子ともども移り住む。1646年による福建侵攻の際、清軍に邸内に攻め込まれ自害した。

評価

子の成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、台湾で最初の漢民族政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたことも事実であるため、今日では台湾の漢民族の「開発始祖」として社会的に極めて高い地位を占めている。

鄭成功まつり

長崎県平戸市千里ヶ浜の児誕石
1624年7月14日マツはその子を妊娠中に貝拾いをしているとき、急に産気づき、岩にもたれかかり出産した。
その岩は今でも平戸市川内港の近くの千里ヶ浜に「児誕石」として顕彰されており、地元川内地区では毎年この日に「鄭成功まつり」を実施している。

出典

  1. ^角田文衛『日本の女性名――歴史的展望』国書刊行会 2006年(底本 教育社歴史新書 1980年–1988年 全3巻)p.287

関連文献

  • 『鄭成功の母』福住信邦、講談社出版サービスセンター, 1987年10月


田川七左衛門   

田川七左衛門(たがわ しちざえもん)
2.江戸時代の平戸藩の武士(1626年寛永4年) - 1696年元禄9年))。鄭成功の弟(初名田川次郎左衛門)で、1.の孫にあたる。父は鄭芝龍、母は田川松。兄とは手紙等のやり取りがあり、鄭成功より七左衛門に宛てた書が中国南安市の鄭成功記念館に残っている。末裔に法政大学教授の鄭審一(2.の11世孫。1969年没)、その次世代(12世孫)は1955年に福住姓に改名している[1][2][3]

脚注

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  1. ^田川七左衛門王朝網路
  2. ^歓迎来自日本的亲人泉州文史资料全文库
  3. ^旧集落で観光協会をつくって 台湾と独自の海外交流 - よかネット

鄭成功記念館へのアクセス

http://www.hirado-net.com/teiseikou/images/photo/map-m.jpg

平戸市へのアクセス

http://www.hirado-net.com/teiseikou/images/photo/access.jpg

平戸市までのアクセス平戸観光協会のサイトへジャンプします

平戸市内のアクセス平戸観光協会のサイトへジャンプします


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周辺の観光情報

中野地区観光マップ

中野地区マップを公開しました。(PDF←クリック)

鄭成功分霊廟

http://www.hirado-net.com/teiseikou/images/photo/kanko01-s.jpg台南市(台湾)の「明延平郡王祠」に祀られている神位の分霊廟です。鄭成功誕生の地、千里ヶ浜を見渡せる高台に祀られています。当地(川内地区)でも英雄としてたたえ続けられています。

児誕石

http://www.hirado-net.com/teiseikou/images/photo/kanko02-s.jpg鄭成功の母マツが、千里ヶ浜に貝拾いに行った際、にわかに産気づき、この岩にもたれて鄭成功を生んだとされています。

鄭延平王慶誕芳跡

http://www.hirado-net.com/teiseikou/images/photo/kanko03-s.jpg松浦家第35代熈(ひろむ・観中公)が、鄭成功の偉業をたたえ、京都の儒学者 朝川善庵に「鄭将軍成功伝」(全文5,000字程度)を作成させました。この文章を刻んだ石碑を作ろうとしましたが適当な石がありませんでした。そこで、朝川善庵没後、平戸藩家臣である葉山鎧軒(はやま・がいけん)に命じ、字数を減らし嘉永5年(1852)に建てられました。

松浦史料博物館

http://www.hirado-net.com/teiseikou/images/photo/kanko04-s.jpg



1.鄭成功の足跡と鄭成功が結ぶ友好国



1.鄭成功とは?

            
中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゅう)を父に、平戸川内の田川マツを母に1624年7月14日平戸で生まれました。幼名を福松、中国名を鄭森と言います。 鄭成功は、わずか7歳で単身海を渡り、21歳の時、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱」を賜ったことから、人々は彼を「国姓爺」と呼びました。後に清朝との戦いの中、父芝龍が清に投降しますが、鄭成功は「抗清復明」の旗印を揚げ不利な戦いを続ける中で、台湾に進攻し占拠中のオランダ人を追放しました。その後、政府を設置し法律を定め、開拓を行い、民を養い大いに時運の挽回を図りますが、ついに病のために1662年39歳で亡くなりました。
                

鄭成功の父 鄭芝龍

中国福建省南安出身で、字は飛黄、後に飛虹将軍、平戸老一官となりました。20歳で平戸に渡り田川マツと結婚し2子(福松及び七左衛門)をもうけました。平戸藩主からかわいがられ機知に富んだ芝龍は徐々に頭角を現し、日本・台湾を拠点に東アジアにおける最大の海商集団の頭領となりましたが、後に明朝の誘いに応じ帰順すると総戎大将軍に任命されました。やがて清が台頭し明王が危機に瀕したときに清朝へ投降しますが、幽閉の身となり1661年に処刑されました。

鄭成功の母 田川マツ

田川七左衛門の娘。マツが千里ヶ浜で貝拾いに行った際、にわかに産気づき千里ヶ浜の大石(千里ヶ浜の児誕石)にもたれて鄭成功を生んだと伝えられています。 1645年鄭成功の招きにより母(マツ)は中国泉州に渡りますが、やがて清の攻撃による泉州城陥落に際し、城内にいた母マツは降伏することなく泉州城内で自害し日本女性の意気を示しました。

鄭成功の軌跡

1624年平戸で生まれると、7歳にして父芝龍の故郷中国福建省南安に渡り、名を森と改め、その後南安県学の学生となり、孔子を拝して儒服を受領します。1644年には南京の国子監太学に入学し名を大木と改名、後に明の王 隆武帝より国姓である「朱」姓と、「成功」の名をいただきます。その後、清の台頭により明王が危機に瀕すると、「抗清復明」を誓い、本拠地を厦門、金門に置きました。しかし、南京での戦いに敗北すると、徐々に清の攻勢は勢いを増し、鄭成功軍は台湾に本拠地を移し時運の挽回を図りました。

平戸海外関係年表

1542年 1543年 1550年 1565年 1584年 1600年 1609年 1613年 1623年 1639年 1641年
明の海商五峯王直平戸に拠点を置く
ポルトガル人種子島に鉄砲を伝える
ポルトガル船初めて平戸入港(ポルトガル貿易開始)
ポルトガル貿易大村領福田港に移る
ルソン船にてイスパニア(スペイン)人初めて平戸入港
オランダ船リーフデ号豊後に漂着
オランダ船平戸入港(平戸オランダ商館設置 貿易開始)
イギリス船平戸入港(平戸イギリス商館設置 貿易開始)
イギリス商館閉鎖
ポルトガル人日本来航禁止
オランダ商館閉鎖 長崎移転

鄭成功生涯年表

1622年 1624年 1630年 1638年 1644年 1645年 1646年 1648年 1650年 1661年 1662年 1683年
鄭芝龍平戸川内浦に居住する。
7月14日(旧暦)福松(鄭成功)生まれる
福松中国(明)に渡る。福松を森と改名 。
南安県学の学生となり、孔子を拝して儒服を受領する
南京の国子監太学入学。森を大木と改名 。
明王隆武帝と謁見し、国姓である「朱」の姓と、「成功」の名を賜る。これより「国姓爺」 と称される。
母マツが日本から泉州に移り住む。
清の攻撃により泉州城陥落に際し、城内にいた母マツは自害する。
鄭成功は「招討大将軍」に任命され「反清復明」のための戦いを誓う 。
日本に援兵を請う(1651年、1658年、1660年含め計4回)
金門、アモイを占拠、勢力の充実を図る
台湾占拠中のオランダと戦い勝利し拠点を台湾におく。台湾に政府を設置し法律を定め、開拓を行い、民を養い大いに時運の挽回を図る
5月8日(旧暦)台湾において病没 享年39歳
清朝に降伏、3代に亘る鄭氏政権が幕を閉じる




転載元: 文化財を大切にしましょう。歴史を学び未来に活かしましょう


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