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[転載]通化大虐殺

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マスコミが語らない事件。
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  昭和21年(1946年)2月3日に支那共産党に満州国通化省通化市は支那共産党軍に占領されていましたが、中華民国政府の要請に呼応した日本人が蜂起しました。しかし、計画は事前に露見していました。ろくな武器を持っていなかった蜂起軍は変電所、支那共産党司令部、公安局を襲撃しましたが、共産党軍の重火器によりあえなく敗退しました。このとき、1月10日に日本人の有力者が逮捕され投獄されていたのを奪還にも行っていますが、軽機関銃で撃ち殺され全員戦死したどころか、獄舎にも向けて銃撃したので、獄舎にいた140名も全員殺害されました。

  その後、共産党軍は事件に関係したものだけでなく、関係しないものまで全員逮捕したので3000人にもなったといいます。零下20度近い獄舎、憲兵隊跡、公安局、県大隊などへ死の行進をさせました。獄舎の8畳ぐらいのところに100人ぐらい詰め込み、5日間立ち尽くしになり、水も飲めません。気が狂って叫ぶ人が出ると「うるさい」と窓から弾が飛びます。
  5日目から尋問が始まりますが、尋問の前に殴りつけて白状を迫り、倒れると外に放り出されて凍死するものも出ました。死刑になったもの、凍死したもの、拷問によって死んだものはトラックに積んで凍結している揮川に投げ捨てられました。逮捕された留守宅は女性や子供ばかりで、朝鮮人部隊が家宅捜索として掠奪し、女性を陵辱しました。自殺した女性もいます。

  満州製鉄林業課のイイヅカ氏
「となりの教室から、調べられている人の悲鳴が聞こえてくる。板の間に正座させられて、事件のことを知っているだろうと聞かれる。知らないと答えると、木刀で容赦なく打ち据えられる。拷問に耐えかねて、二階の便所から逃げ出した人がいた。ところが、一緒に便所に行っていた人まで、お前が逃がしたのだろうといわれて僕らの見ている前で撃ち殺された」

  通化にいた上坪隆(RKB毎日放送)
「男は無差別に次から次へ銃殺される。銃殺された日本人の衣服を剥ぎ取るために待ち構えていた中国人が、ドラを鳴らしながらワーッと群がってくる。丸裸にされた遺体は凍てついた土手を滑り台のように滑って凍った川につきおとされる。川床にはかちかちになった死体がごろごろ転がっていた」

  次のような証言もあります。
「中国共産党の本拠地である延安から派遣された若い裁判官の前で、台の上に日本人が立たされる。満州時代の罪状を民衆に問う。黒山の野次馬の中から『俺達を酷使した、俺達を殴った』という声が上がる。裁判長が『どうする』と問うと、『打死!打死!(殺せ殺せ)』と民衆が叫び、これで裁判は終わり。その日本人は背中に『南無阿弥陀仏』と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された」

  この事件の戦死者は厚生省援護局の資料では約300名で事件後の死者は1200名となっています。大虐殺を行ったのは朝鮮人部隊がほとんどで、共産党軍主力は通化を離れて作戦展開しており、司令部はこの虐殺を知って銃殺中止命令を出したようです。
  通化の日本人はこの年の夏の終わりにようやく引き揚げることができました。この年(昭和21年)の暮れに中華民国政府軍が通化を奪還すると事件犠牲者の慰霊祭が行われました。昭和22年(1947年)には支那共産党軍が通化を再び占領しました。

  通化事件の遺族は昭和27年(1952年)に遺族会を設立し、昭和30年(1955年)以降、毎年2月3日に靖国神社で慰霊祭を行っています。



参考文献
  「通化事件」松原一枝著
  「愛新覚羅浩の生涯」渡辺みどり著
  「少年は見た 通化事件の真実」佐藤和明著
WikiPedia「通化事件」

添付画像
  鞍山の昭和製鋼所(PD) 通化からは東に約250キロほどのところ。通化と鞍山の間には満州族の自治区がいくつかある。
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転載元: かつて日本は美しかった


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