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1938年 東宝文化映画部作品 日中戦争における南京攻略戦終了直後の南京城内外の様子を撮影した日本の記録映画。

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2012/10/16 に公開
1938年 東宝文化映画部作品 日中戦争における南京攻略戦終了直後の南京城内外の様子を撮影した日本の記録映画。
この映画は、遠からず行われると予測された南京攻略戦に備え、『上海』と同時に準備の進められた企画である。撮影班一向は、『上海』の撮影が終わるのを待ってその機材を引き継ぎ、1937年(昭和12年)12月12日未明に南京へ向けて出立。南京陥落の翌日14日に南京に到着し、そのまま年を越えて1月4日まで撮影を続けた。
フィルムは消失したものと長年考えられてきたが、1995年(平成7年)に中国の北京で発見された。ただし10分ほどの欠落があると見られる。

【内容】
南京攻略戦における各戦闘箇所ごとの解説
中国兵捕虜にタバコを渡す日本兵
日本軍による南京入城式
日本軍による戦没者のための合同慰霊祭
南京にいた外国人により組織された国際委員会が設定した南京難民区という安全区域
日本軍や南京市民による城内の復興の始まり
南京の自宅に戻り始めた市民達
赤十字看護婦の活動
良民証という中国人のための身分証明の交付を行う日本軍
日本軍による正月の準備から新年までの様子
正月に爆竹で遊ぶ南京の子供達
南京自治委員会の発会式

◎南京陥落は1937年12月13日だが、当映画撮影班にとってその日は南京に入る前日であり、敗残兵(便衣兵参照)の暴行の話を聞き、器材が掠奪されることを恐れていた。
◎南京に入った翌14日は、南京城北部の掃蕩中であり、撮影班は掃蕩と思しき激しい銃声を聞いている。
◎さらに翌15日から城内の撮影が開始され、訪れた挹江門(ゆうこうもん)の附近ではまだ掃蕩が行われていた。
◎16日には撮影班は紫金山麓、郊外遊園地である中山陵と附近の音楽堂を撮影しているが、その際には犬が悠々と歩いていたことが記録されている。
◎17日には日本軍による南京入城式が撮影された。天覧に供するため、そのフィルムは直ちに空輸されている。
◎撮影班は映像に残されているように南京の避難民が非常に哀れであった状態を目の当たりにし、その場における優しい日本兵の対応も見ている。また、水道設備の建設風景や中国人捕虜に対する施療風景も撮影された。
◎当時の南京には日本の新聞記者やカメラマンが約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていたが、その中で当映画撮影班は軍特務部撮影班であったため新聞社ニュース班の撮れないところでも自由な撮影が許されると製作事務の米沢は撮影日誌に記している。
◎一方、撮影の白井茂は、見たもの全部を撮ったわけではなく、撮ったものにも切られたものがあると回顧録で述べており、南京に到着した12月14日から銃殺のため処刑地の揚子江河畔に連行される長蛇の列を目撃したがカメラは廻せず、その目撃に憔悴し幾晩も悪夢にうなされたとも述べている。
◎産経新聞は、鬼よりも怖いはずの「南京憲兵分隊」の前を平気で歩いている住民や、日本軍の兵士が通っても素知らぬ顔で正月を祝って爆竹に興じる子供たち、そして特に「鑑札を持っておれば日本軍の保護を受けることができる」という「急告」を見て、何千人もの中国人が鑑札を求めて殺到している場面に注目し、もしも南京市内で6週間の間に20万や30万もの中国人を日本軍が虐殺していたら、このような現象は有り得ないという映画評論を載せている。
◎映画監督の水島総は、広い光景を撮った場面が多い映画であり、撮られて都合の悪いものがあればカメラマンは狭い絵のワンショットにするし、住民の恐怖感を持っていない顔が映像で確認でき、住民が整然と並んでいることも日本軍に対する恐怖がないことを示していると述べている。
◎軍事評論家の佐藤守は、この映画には南京大虐殺で30万人が殺されたという中国政府の宣伝とは裏腹な、気抜けするぐらい穏やかで平和な南京市内の状況が写し出されていると述べている。圧倒的な戦力不足の状況下で30万人もの大量虐殺をしたというのであれば、このようなシーンは絶対に撮影できなかっただろうし、正月に爆竹を鳴らして遊ぶ中国人の子供達の表情からも市内の治安が回復されたことが十分伺えるとも述べている。



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