日本占領時期のシンガポール
日本占領時期のシンガポール | ||||||
昭南島 | ||||||
大日本帝国による軍事的統治 | ||||||
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首都 | シンガポール | |||||
政府 | 軍事的統治 | |||||
歴史・時代 | 第二次世界大戦 | |||||
• | 太平洋戦争勃発 | 1941年12月8日 | ||||
• | シンガポールにおいて大英帝国が大日本帝国に降伏 | 1942年 2月15日 | ||||
• | シンガポール空襲 | 1944年11月 - 1945年5月 | ||||
• | 大日本帝国の降伏 | 1945年8月15日 | ||||
• | シンガポールの日本軍が連合国に降伏 | 1945年 9月12日 | ||||
• | シンガポール、直轄の植民地となる | 1946年4月1日 | ||||
通貨 | 大日本帝国政庁発行のドル(俗称バナナマネー) | |||||
現在 | シンガポール |
日本占領時期のシンガポール(にほんせんりょうじきのシンガポール)では、第二次世界大戦中の大日本帝国によるシンガポール統治について述べる。大英帝国による植民地支配がシンガポールの戦い(1942年2月15日)により終了し、代わって日本軍による統治が始まった。
統治までの経
詳細は「シンガポールの戦い」を参照
日本軍はイギリス領マラヤ全域を2ヶ月で攻め落とし、イギリスの指揮官・パーシヴァルはシンガポール侵攻が始まって僅か1週間を経た1942年2月15日に降伏し、これを英国首相・チャーチルは「イギリス史上最悪の惨事であり、最大の降伏だ」と発言した[3]。
統治下の生活
抗日華僑の摘発
日本軍は占領後の1942年2月から3月末にかけて抗日華僑の摘発を行った。これは、華僑の反日意識が強烈でこの華僑により組織された抗日華僑連合会(ダル・フォース)が、マレー戦、シンガポール戦において英軍にみられない戦意を示し、シンガポール陥落直前に解体されたものの、大量の武器弾薬を与えられてシンガポール市内、マレー半島においてゲリラ活動に従事し、日本軍入城前後に市内で略奪、暴行を働いたためだった[4]。
日本軍は、イポー進撃の際に同地で発見した「抗日華僑名簿」及び、探偵局、警察署の記録、救出した邦人の進言などを基に「反抗華僑容疑者名簿」を作成して、主に抗日団体の指導者、抗日義勇軍人、共産党員などの抗日華僑の摘発を行ったが、短期間ということもあり調査は粗雑で関係の無い者も摘発された。こうして多数の華僑が処刑されたが、この事件によって華僑はますます反日態度を固め、市内、マレー半島における反日ゲリラ活動はその後も継続された[5][6]。
生活必需品の不足
日本軍の統治中は一貫して資源に乏しく、生活必需品の値段がうなぎ登りになるハイパーインフレーションに陥った。例として、米の値段は100カティ(約60kg)につき5ドルほどであったが、のちには5,000ドルにもなった。日本軍は食券制度を導入して人々の食物入手量に制限をかけた。1ヵ月に一度、大人は4.8キログラム、子供は2.4キログラムの米を購入できたが、戦争が継続するにつれ大人の米の量は25パーセント削減された[7]。
「バナナマネー」の効果は薄く、増刷する時期が不適当であったことや、闇市ではドル札が主流であったことから極度のインフレーションと通貨価値の暴落を引き起こした。
これらイモ類の栄養分は飢餓の減少に一役を買い、単調さを和らげるためにタピオカをその他の作物と組み合わせて食する新たな方法がいくつも発明された。イギリス当局、日本当局ともに、住民に対してわずかでも土地を持っていれば農耕による自給自足を推奨した。この農耕推奨は戦時中の西洋で実施されたヴィクトリーガーデンと似たものである[8]。
教育
日本軍はシンガポールを切り取ったのち、日本語で現地の人々を教育するために昭南日本学園を設立した。Faye Yuan Kleemanは、自著『Under an Imperial Sun: Japanese Colonial Literature of Taiwan and the South』の中で「この学校は南アジアで最も成功した」と綴っている[9]。また、日本軍は「昭南第一日本人学校」を設立した[10](現・シンガポール日本人学校)。
連合軍の反撃
詳細は「昭南港爆破事件」を参照
シンガポールは、大日本帝国による統治を切り崩すために連合軍により画策された数多の作戦の標的となり、1943年9月26日にはイバン・ライアン率いる奇襲部隊・Z特殊部隊がシンガポール湾に侵攻し、7隻の日本の船舶を撃沈し、その総重量は39,000トンに及んだ(ジェイウィック作戦)。ライアンは他の作戦も指揮しており、リマウ作戦では足掛け1年にわたって3隻の日本船を撃沈した。しかし、彼はのちに13人の仲間と共に捕えられて殺害され、その他の作戦に参加した10人は日本軍の秘密裁判に掛けられ処刑された。
また、イギリス軍は、マラヤからシンガポールまでに至る地域の諜報網を敷いて、日本軍が持つ連合軍の情報を探るために、136部隊という秘密組織をカルカッタに組織した[11]。しかしながら白人コーカソイドがマラヤの民衆に混じって作戦を遂行することは難しいので、潜入部隊のリーダーとして、当時重慶にいたマラヤ系中国人の林謀盛(リム・ボー・セン)がリクルートされた[11]。林は同様に中国大陸にいたマラヤ系中国人から人員を募り、陳崇智らの同志を得た[11]。彼らは皆、国民党の政治組織の一員であり、無線通信技術や情報収集の訓練を受けていた[11]。潜入部隊はセイロンからオランダの潜水艦に乗り、1943年5月23日にペラ沿岸のパンコール島に上陸した[11]。
この潜入部隊は「グスタフス[注釈 1]」というコードネームで呼ばれた[11]。彼らはその後、ペラを中心に活動し、サボタージュにより経済活動を停滞させ、反日感情を巻き起こすといった作戦を実行に移した[11]。また、共産主義系のマラヤ人民反日軍との接触も果たした[11]。グスタフスは1944年3月まで、表向きはまっとうな商売を営んでいるように見せかけて、実際は諜報を行う地下組織を確立していた[11]。しかしながら、組織の一員が日本の潜水艦をうっかり友軍と誤認したことから計画が露見した[11]。
仲間の裏切りだったという説もある[12]。林謀盛と陳崇智を含む組織のメンバーは逮捕され、イポー近くのバトゥ・ガジャ刑務所へ連行された[11]。戦後、陳崇智が語ったところによれば、林謀盛は憲兵隊に協力するよう強いられたが拒絶したという[12]。そして、食事に配られたサツマイモを逮捕されている仲間に与えるよう見張り番に頼み、絶食した[12]。そして、赤痢に罹患したが治療を拒み[12]、6月29日に死亡したという。陳崇智が1995年に公刊した回顧録に依拠する文献では、林謀盛、陳崇智らは赤痢に罹患すると、林謀盛が死亡するまで適切な治療や食事が与えられなかったとしている[13]。136部隊は戦後解体された。解体前の最後の任務は、かつての盟友だったマラヤ人民反日軍の武装解除であった[11]。
1945年8月には、イギリス海軍から2隻のX艇が「ストラグル作戦」に参加した(シンガポール港への攻撃、日本の巡洋艦、高雄・妙高をリムペットマインを用いて破壊することを目的としていた)。この作戦により高雄は甚大な被害を受け、この功績を称えてイアン・エドワード・フレイザーにはヴィクトリア十字章が授与された。1944年11月から1945年5月にかけてはイギリス・アメリカ連合軍が空爆を行った。
統治の終焉
詳細は「チードレイス作戦」を参照