蒲郡の歴史と文化財 藤原俊成と平忠度
藤原俊成と平忠度
2012年度のNHK大河ドラマは『平清盛』でした。
後白河天皇と崇徳上皇が対立して戦った「保元の乱」(1156)が終結し、その3年後に起きた「平治の乱」で源氏は大敗、平家一門が台頭して、『平家物語』の有名な一節「平家にあらずんば人にあらず」の時代を迎えます。
後白河天皇と崇徳上皇が対立して戦った「保元の乱」(1156)が終結し、その3年後に起きた「平治の乱」で源氏は大敗、平家一門が台頭して、『平家物語』の有名な一節「平家にあらずんば人にあらず」の時代を迎えます。
しかし、おごれるものは久しからず。
治承4年(1180)に以仁王が発した平家討伐の命令によって全国の源氏が挙兵し、やがて「壇ノ浦の戦い」(1185)で平家は滅亡の憂き目をみます。
治承4年(1180)に以仁王が発した平家討伐の命令によって全国の源氏が挙兵し、やがて「壇ノ浦の戦い」(1185)で平家は滅亡の憂き目をみます。
彼らの栄枯盛衰は『平家物語』として琵琶法師に語られたり読み物になったりしています。
数多くの人物が登場しますが、その中で、藤原俊成と平忠度は、蒲郡とゆかりのある人物です。
数多くの人物が登場しますが、その中で、藤原俊成と平忠度は、蒲郡とゆかりのある人物です。
鎌倉時代に編さんされた歴史書『吾妻鏡』には、藤原俊成が開発した竹谷・蒲形荘についての記述が出てきます。
俊成から熊野社に寄進された領地は、熊野別当の湛快からその娘へ、娘から最初の夫行快(熊野別当)へ、
次いで娘の再婚相手の平忠度(清盛の異母弟、薩摩守)へと譲られました。
しかし平家が朝廷の敵となって敗れ、領地を没収されてしまいました。
湛快の娘は元の夫である行快に頼み、いずれは自分と行快との間の子に譲るという条件で協力を得て、領地を返してもらえました。
俊成から熊野社に寄進された領地は、熊野別当の湛快からその娘へ、娘から最初の夫行快(熊野別当)へ、
次いで娘の再婚相手の平忠度(清盛の異母弟、薩摩守)へと譲られました。
しかし平家が朝廷の敵となって敗れ、領地を没収されてしまいました。
湛快の娘は元の夫である行快に頼み、いずれは自分と行快との間の子に譲るという条件で協力を得て、領地を返してもらえました。
平忠度は、歌人としても優れた人で、藤原俊成から和歌を学んでいました。
寿永2年(1183)木曽の源義仲に追われて平氏一門が京都を離れて落ちのびる折、忠度は藤原俊成の屋敷に立ち寄り、
自分で詠んだ歌を書いた巻物を師に託しました。
俊成は後年その中から一首を選び「よみびとしらず」として歌集に載せています。
寿永2年(1183)木曽の源義仲に追われて平氏一門が京都を離れて落ちのびる折、忠度は藤原俊成の屋敷に立ち寄り、
自分で詠んだ歌を書いた巻物を師に託しました。
俊成は後年その中から一首を選び「よみびとしらず」として歌集に載せています。
歴史展示室には、藤原俊成や、熊野と源平勢力関係の説明パネルもあります。
藤原俊成
藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代) | |
平安時代後期 - 鎌倉時代初期 | |
永久2年(1114年) | |
元久元年11月30日(1204年12月22日) | |
藤原顕広 → 俊成 → 釈阿 | |
五条三位、五条三位入道 | |
京都府京都市伏見区深草願成町39周辺 | |
正三位・皇太后宮大夫 | |
藤原氏(北家・御子左流→ 同勧修寺流→ 御子左流) | |
父:藤原俊忠、母:藤原敦家女 養父:藤原顕頼 | |
藤原俊忠#系譜参照 | |
美福門院加賀ほか | |
藤原成家、藤原定家、建春門院中納言、後白河院京極局ほか |
藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。
10歳で父と死別し、鳥羽院近臣であった義兄の藤原顕頼の後見を得て国司を歴任するも位階は停滞。岳父である藤原為忠の「為忠家百首」への2度の出詠など、天承・長承期(1131~35年)より詠作を本格的に始め、保延4年(1138年)藤原基俊に師事。保延6・7年(1140・41年)自らの不遇への悲嘆、出家への迷いなどを「述懐百首」に詠い上げる[3]。崇徳天皇の歌壇の一員となり、「久安百首」を詠進する14名の歌人に加えられるなどの知遇を得る一方、美福門院加賀と再婚し、久安元年(1145年)以降、美福門院の御給で昇叙を果す[3]。
保元元年(1156年)7月の保元の乱により崇徳院歌壇が崩壊。保元4年(1159年)内裏歌会が再開されたが、二条天皇の歌壇では当時の歌の家であった六条藤家の藤原清輔が重用された[4]。仁安元年(1167年)俊成は念願の公卿(非参議)となり、翌年御子左流に復す[5]。その後「住吉社歌合」「廣田社歌合」などの社頭歌合の判者を務めるが[3]、安元2年(1176年)9月咳病悪化により出家する[6]。
安元3年(1177年)に清輔が没し、治承2年(1178年)九条兼実と初めて会談[6]、九条家歌壇に師として迎えられ「右大臣家百首」などを詠進する。寿永2年(1183年)後白河院の院宣を受け、文治4年(1188年)第七勅撰集『千載和歌集』を撰進[3]、名実ともに歌壇の第一人者となった。文治5・6年(1189・90年)には皇大神宮・春日・賀茂・住吉・日吉の5社に百首歌を奉納(「五社百首」)[7]。建久4・5年(1193・94年)頃成立した「六百番歌合」(九条良経主催、俊成加判)では、六条藤家と御子左家の歌人たちがその威信をかけて激突した[7]。
正治2年(1200年)以降歌壇を形成した後鳥羽院の命により「正治初度百首」「千五百番歌合百首」等を詠進。建仁元年(1201年)和歌所寄人、建仁2年(1202年)「千五百番歌合」の春歌第三・四巻の判者を務める。建仁3年(1203年)後鳥羽院より九十賀宴を賜り、鳩杖・法服等を贈られる。元久元年(1204年)秋「祇園社百首」、11月10日「春日社歌合」と最後まで詠作を続け、同年11月30日91歳で生涯を閉じた。
家集に『長秋詠藻』『俊成家集(長秋草)』等があり、『長秋詠藻』は六家集の一つに数えられる。『詞花和歌集』以下の勅撰集に414首[8]が採録され、その数は貫之・定家に次いで歴代歌人3位である[9]。歌学書・秀歌撰に『古来風躰抄』『古今問答』『万葉集時代考』『正治奏状』『三十六人歌合』等がある。
歌風は「たかくすみたるを先として艶なるさまもあり」[10]、「やさしく艶に心も深くあはれなる所もありき」[11]と評されたように格調高く深みのある余情美を特徴とし、古歌や物語の情景・心情を歌に映し奥行きの深い情趣を表現する本歌取や本説取(物語取)などの技法を確立した。歌合の判詞の中で用いた「幽玄」「艶」は、歌道から能楽・茶道をはじめとする日本の芸能に影響を与え、中世を代表する美的理念となった[12]。指導者としても、息子・定家をはじめとして、寂蓮・藤原家隆・後鳥羽院・九条良経・式子内親王など優秀な歌人を多数輩出し、新古今歌風形成に大きな役割を果たした。
平忠度
平忠度/右田年英画([[明治 時代]]) | |
平安時代末期 | |
天養元年(1144年) | |
元暦元年2月7日(1184年3月20日) | |
兵庫県明石市忠度塚 神戸市長田区腕塚堂・胴塚 埼玉県深谷市清心寺 | |
右衛門佐、従四位上、伯耆守 正四位下薩摩守 | |
桓武平氏維衡流(伊勢平氏) | |
平忠盛、藤原為忠の娘 | |
清盛、家盛、経盛、教盛、頼盛、忠度、その他[1] | |
熊野別当湛快の娘 | |
忠行 |
天養元年(1144年)伊勢平氏の棟梁である平忠盛の六男として生まれる。母は藤原為忠の娘(異説として原高成の女とも[2])。紀伊国の熊野地方で生まれ育ったと言われており、熊野別当湛快の娘で湛増の妹でもあった女を妻としたこともあったようである。
歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した。『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している[3]。
さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな—千載集六十六
『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集[4]。なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されている。 源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。平家物語によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られて討たれた。その時箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。
行(ゆき)くれて木(こ)の下かげをやどとせば花やこよひのあるじならまし
彼が討たれた際、文武に優れた人物を…と敵味方に惜しまれたという。戦の後、忠澄は忠度の菩提を弔うため、埼玉県深谷市の清心寺に供養塔を建立している。 兵庫県明石市には、忠度の墓と伝わる「忠度塚」があり、付近は古く忠度町と呼ばれていた(現・天文町)。また忠度公園という小さな公園もある。神戸市長田区駒ヶ林には、平忠度の腕塚(地図)と胴塚(地図)がある(神戸市認定地域文化財)。
唱歌「青葉の笛」(大和田建樹作詞、作曲・田村虎蔵)の二番は、平家物語巻七「忠度都落ち」と巻九「忠度最期」の二場面を、続けて歌っている。即ち一度都落ちした忠度が京に取って返して歌の師・藤原俊成に、近々編纂される勅撰和歌集の為に自分の歌を託した事と、一の谷で忠度が討たれた時(「今はの際間」)に箙の中に残っていた歌が、「花や今宵の主ならまし」であった事を歌っている。
更くる夜半に 門(かど)を敲き わが師に託せし 言の葉あわれ 今わの際まで 持ちし箙に 残れるは「花や 今宵」の歌
蒲郡市博物館博物館への交通アクセス
印刷用ページを表示する 掲載日:2016年7月27日更新
鉄道でお越しの場合
JR東海道本線蒲郡駅もしくは名鉄蒲郡線蒲郡駅で下車。
南出口(海側)を出て、正面の「港町3番」交差点を渡り、突き当たりの広い道路まで直進後、「郵便局前」交差点を右折。
ガラス張りの建物(商工会議所)と海を左手に見ながら舗道を進み、「市民会館東」交差点を横断。
白い建物(蒲郡市民会館)と駐車場を抜けた先にあるグレーの建物が博物館です。
南出口(海側)を出て、正面の「港町3番」交差点を渡り、突き当たりの広い道路まで直進後、「郵便局前」交差点を右折。
ガラス張りの建物(商工会議所)と海を左手に見ながら舗道を進み、「市民会館東」交差点を横断。
白い建物(蒲郡市民会館)と駐車場を抜けた先にあるグレーの建物が博物館です。
駅から徒歩で約10分
※博物館行きのバス路線はありませんので、蒲郡駅南口からタクシーをご利用下さい。
車でお越しの場合
高速道路音羽・蒲郡インターチェンジよりオレンジロードを南下。
東海道新幹線・JR線高架を通過後、「竹島入口」交差点を直進、「竹島園地」交差点を右折。
竹島水族館を過ぎ、道なりに進み、「郵便局前」交差点を通過。
「市民会館東」交差点を通過。
道路前方の白い建物(蒲郡市民会館)を過ぎると、駐車場の入口があります。
その向こうに見えるグレーの建物が博物館です。
東海道新幹線・JR線高架を通過後、「竹島入口」交差点を直進、「竹島園地」交差点を右折。
竹島水族館を過ぎ、道なりに進み、「郵便局前」交差点を通過。
「市民会館東」交差点を通過。
道路前方の白い建物(蒲郡市民会館)を過ぎると、駐車場の入口があります。
その向こうに見えるグレーの建物が博物館です。
無料駐車場 約300台分(蒲郡市民会館と共有)
http://www.city.gamagori.lg.jp/uploaded/image/10939.gif