荒井由実☆Live in SUNPLAZA「あの日にかえりたい」~「春よ、来い」
淡き光立つ 俄雨(ニワカアメ)
いとし面影(オモカゲ)の沈丁花(ジンチョウゲ)
溢るる涙の蕾(ツボミ)から
ひとつ ひとつ香り始める
それは それは 空を越えて
やがて やがて 迎えに来る
春よ 遠き春よ 瞼(マブタ)閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする
君に預けし 我が心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと待っています
それは それは 明日を越えて
いつか いつか きっと届く
春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の 眼差(マナザ)しが肩を抱く
夢よ 浅き夢よ 私はここにいます
君を想いながら ひとり歩いています
流るる雨のごとく 流るる花のごとく
春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする
春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く
いとし面影(オモカゲ)の沈丁花(ジンチョウゲ)
溢るる涙の蕾(ツボミ)から
ひとつ ひとつ香り始める
それは それは 空を越えて
やがて やがて 迎えに来る
春よ 遠き春よ 瞼(マブタ)閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする
君に預けし 我が心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっと ずっと待っています
それは それは 明日を越えて
いつか いつか きっと届く
春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の 眼差(マナザ)しが肩を抱く
夢よ 浅き夢よ 私はここにいます
君を想いながら ひとり歩いています
流るる雨のごとく 流るる花のごとく
春よ 遠き春よ 瞼閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする
春よ まだ見ぬ春 迷い立ち止まるとき
夢をくれし君の 眼差しが肩を抱く
任谷 由実(まつとうや ゆみ、本名:同じ、1954年(昭和29年)1月19日 - )は、日本のシンガーソングライター。旧姓名は荒井 由実(あらい ゆみ)。1972年にシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。以降、ユーミンの愛称で呼ばれる。
公式ファンクラブは「Yuming Fan Club」。
オリコンでは、女性最多となるアルバムミリオン「通算10作」、アルバム首位「通算22作目」の記録を持つ。1970・1980・1990・2000・2010年代と5つの10年代連続でアルバム売上首位を獲得(歴代1位)。徳永英明、桑田佳祐、山下達郎(3人とも1980・1990・2000・2010年代)が保持していた記録を塗り替えた。
毎年、新潟・苗場プリンスホテルで開催される冬のコンサート『SURF&SNOW in Naeba』では、自身が持つ同一会場でコンサートを行う女性アーティスト1位の記録を毎年更新。
人物
2012年、歌手デビュー40周年として発売された『日本の恋と、ユーミンと。』がオリコン1位を記録し、CDアルバム売り上げ枚数は、ソロアーティスト並びに女性アーティスト史上初の3000万枚を突破。後にミリオンセールスとなる。
黒柳徹子のものまねが得意で、黒柳が司会を務めたNHK総合テレビ『あなたとともに50年 今日はテレビの誕生日』(2003年2月1日放送)に出演した際、本人の前でそれを披露した。ちなみに、テレビ朝日『徹子の部屋』には出演歴はないが、最終回への出演を希望している[注 2][3][注 3]。
荒井由実時代
中学時代には、当時国内外の文化人が集まるサロン的存在だった港区麻布台3丁目(1969年まで麻布飯倉片町8番地の住所表記だった場所)のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしており、またフィンガーズの追っかけもしていた。後に同レストランに集まったアーティストから、アルファレコードが生まれ、デビューのきっかけを作った。
14歳の時、プロとしての初めての仕事でスタジオでのピアノ演奏をした。以後、スタジオで演奏をしながらオリジナルの曲を書き、15歳で作詞家としてデビューし、1971年に17歳で作曲家としてデビューした、その作品は彼女を本格的なデビューへと誘った加橋かつみ(元ザ・タイガース)へ提供した「愛は突然に…」である。
染色の専攻を志し、1972年4月に多摩美術大学に入学。初めは作曲家志望だったが、アルファレコードを設立した村井邦彦の勧めで、同年7月5日にかまやつひろしがプロデュースしたシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビュー。しかし同シングルは300枚しか売れなかった。1973年11月にファーストアルバム『ひこうき雲』を発売、TBSラジオの深夜放送番組『パックインミュージック』金曜日第2部を担当していたパーソナリティの林美雄の絶大な支持を受けて知名度が上がり、翌1974年より本格的にステージ活動を開始する。
2012年 - 2013年の特番と『SONGS』で、「立教女学院のパイプオルガン、プロコル・ハルムに強い衝撃を受けた」と語り[5][6]、確かに「ひこうき雲」はプロコルを髣髴とさせるメロディーラインを持っている。また「キーボードでのロック (音楽)ができるかもしれない」と思ったとも語っている。
1975年10月発売のシングル「あの日にかえりたい」(TBSドラマ『家庭の秘密』主題歌)が、初のオリコンチャート1位を獲得(それ以前にもバンバンへの提供曲の「『いちご白書』をもう一度」が1位を獲得している)、1976年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第一次ブームを迎える。
松任谷由実時代
1975年12月にアレンジャー・松任谷正隆と婚約、1976年11月29日に横浜山手教会にて結婚。本人は引退する考えだったが、専業主婦にはなりきれず結婚後の姓に変更して、松任谷由実の名で音楽活動を続行。1978年から1983年はオリジナルアルバムを毎年2枚リリースするなど、ブレッド&バター、松田聖子、小林麻美などに楽曲提供をしながらもハイペースで曲を製作。「埠頭を渡る風」、「DESTINY」、「恋人がサンタクロース」、「カンナ8号線」、「真珠のピアス」、「ダンデライオン」などはこの頃作られた。また、リゾート地でのコンサートのスタイルをこの時期に確立。
1981年6月のシングル「守ってあげたい」が1981年のシングル年間ランキング第10位のヒットとなり、第二次ブームが到来。その年のアルバム『昨晩お会いしましょう』以降のオリジナルアルバムは17枚連続でオリコン1位を獲得、1987年のアルバム『ダイアモンドダストが消えぬまに』以降は9作連続のミリオンセラーを獲得。
彼女が始めた“見せる”ステージは1979年から始まり、本物の象が出た『OLIVE』・マジックを取り入れた『MAGICAL PUMPKIN』・エレベータを設置した『BROWN'S HOTEL』・噴水ショー『SURF & SNOW』・30mの竜に乗った『水の中のASIAへ』など年々エスカレート。億単位の金をかけ、内外の最新技術を積極的に取り入れた、コンサートの枠を超えた新たな一大エンターテイメントになっていった。当時のインタビューでも、「レコードで儲けた分、コンサートで夢と一緒にファンの方にお返しするのが役目」と語っていた。
当時人気の高かったスキーを題材にした映画『私をスキーに連れてって』(1987年)の主題歌と挿入曲を一手に担当し、「若者のカリスマ」、「恋愛の教祖」などと呼ばれた。「失恋」についてを歌い、彼女自身がライバルと評する中島みゆきの作風とは一線を画し、「中産階級の手に届く夢」を歌って、バブル景気に沸く時代の波に乗ったユーミンだったが、1990年代に入ると精神世界や民族的な音楽に着目。「満月のフォーチュン」「DAWN PURPLE」「真夏の夜の夢」「春よ、来い」「輪舞曲」などを生み出す。
1996年、旧姓・荒井由実の名で活動を行う。セルフカバーシングル「まちぶせ」を発売。また、当時の仲間のミュージシャンを集めて、『Yumi Arai The Concert with old Friends』を開催した。このライブ・アルバム発売に伴い、年末リリースのアルバムが数か月遅れた。これ以降、日本の恒例行事とまで呼ばれたサイクル(冬のアルバム発売〜夏までツアー)が若干緩やかになったが、「カリスマはもういい。これからは好きな音楽をやる」と宣言した彼女は、以後も精力的に作品を制作。ステージはますます大掛かりになり、1999年にはロシアのサーカスチームとコラボレートしたコンサート『シャングリラ』を開催。同コンサートは2003年に『シャングリラII』、2007年にはシリーズ最後を飾る『シャングリラIII』として開催された。『シャングリラ』3回の総制作費は120億円以上、観客動員数は100万人。
コンサートツアーや逗子、苗場の映像が残されているが、発売へ向けて期待に沿えるものを計画中。また、松任谷正隆は『ひこうき雲』からの全アルバムをリミックスしたいと発言。5.1chサラウンドにも対応し、よりマスター音源に近づけることが可能なBlu-ray Audioにも興味を示している。
2010年5月に発売された「ダンスのように抱き寄せたい/バトンリレー」のトラック内には、CDとしては初めてCM(CDCM)が収録された。これは松任谷正隆が20年温めていた構想であったと『NEWS ZERO』で語った。
2010年代以降の楽曲提供としては、綾瀬はるか「マーガレット」(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)、オルケスタ・デ・ラ・ルス「太陽と黒いバラ」(作詞作曲:松任谷由実)、坂本真綾「おかえりなさい」(作詞:坂本真綾、作曲:松任谷由実)、芦田愛菜「雨に願いを」(作詞作曲:松任谷由実)、Char「Night Flight」(作詞作曲:松任谷由実)、松田聖子「永遠のもっと果てまで」「惑星になりたい」(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)がある。
2011年春以降、NHK『SONGS』と組み、「春よ、来いプロジェクト」を展開中。コーラスを専用サイトより投稿することができる。新たにレコーディングされた「(みんなの)春よ、来い」第1弾を5月に配信、11月には第2弾「(みんなの)春よ、来い 2011年秋編」も配信。収益の全てが被災地へ寄付される。12月、「NHK歳末・海外たすけあい」のイメージソングにも起用され、『第62回NHK紅白歌合戦』でも披露された。当初は紅組トリを務める可能性も示唆されていた。後日、2012年の『第63回NHK紅白歌合戦』出場の可能性をマスコミから聞かれた際には「ないと思います」とコメントし、実際出場しなかった。
ja.wikipedia.org/wiki/長崎県立奈留高等学校 - キャッシュ
http://search.c.yimg.jp/module/image.php?url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F9%2F92%2FLocation_dot_red.svg%2F61px-Location_dot_red.svg.png&sig=1x93L1lSTvcPw8RagXX7Jxz1YAg-&size=s
長崎県立奈留高等学校(ながさきけんりつ なるこうとうがっこう、Nagasaki Prefectural Naru High School)は、長崎県五島市奈留町浦にある県立高等学校。五島列島を構成 する島の一つである奈留島にある。 .......
www.youtube.com/watch?v=ycj99A-zQLE
http://search.c.yimg.jp/module/image.php?suid=LSmFd3epj_GAwMNTjmV4hMq2tL2z8OqFjaG8cgHbcO20TxOsjWw3mO2NeABX50Sf5RK5Mjqt9MTJgwnLbcUuzSCqMjh7Nfw3YLwR5Q3Og8UbQAEqYe51CME2qgLsNKj.RA5P4TLW&sig=f.fS8m8D97Csa3iJzYeG5V.rwIc-&size=s
40年前から荒井由実の名前と歌は有名で知っていたが、この動画を見て、40年前は、 ユーミンも当時流行の ...
再生時間:3:17
投稿日:2012年12月25日
五輪真弓 第275回 10月12日(土)
五輪真弓が、ニューミュージック界期待の新人シンガー・ソングライターとしてデビューして40年。
番組では、父の故郷である長崎県五島列島の久賀島を訪ね、
キリシタンとして生きた先祖の苦難や父の面影に触れながら、自身の歌のルーツを振り返る。
久賀島を訪れた時に作曲した「時の流れに~鳥になれ~」は、島を見渡す高台で熱唱する。
番組では、父の故郷である長崎県五島列島の久賀島を訪ね、
キリシタンとして生きた先祖の苦難や父の面影に触れながら、自身の歌のルーツを振り返る。
久賀島を訪れた時に作曲した「時の流れに~鳥になれ~」は、島を見渡す高台で熱唱する。
プロフィール
東京都・中野区出身。
1972年「少女」でデビューする。女性シンガーソングライターの草分け的な存在。
1980年には、「恋人よ」をリリースして大ヒットする。
今年、9年ぶりとなるシングル「BORN AGAIN」を発表し、6年ぶりのコンサートを開くなど、
還暦を越えて、新たな活動を始めている。
1972年「少女」でデビューする。女性シンガーソングライターの草分け的な存在。
1980年には、「恋人よ」をリリースして大ヒットする。
今年、9年ぶりとなるシングル「BORN AGAIN」を発表し、6年ぶりのコンサートを開くなど、
還暦を越えて、新たな活動を始めている。
有名人データベース PASONICA JPN
2016年
1月
01日
金
五輪真弓
2016/01/01更新
■五輪真弓(いつわ まゆみ)
□肩書き
歌手
□本名
鈴木真弓
□生年
1951(昭和26)01.24(水瓶座/B型)
□出身地
東京都中野区
□出身校
都立桜水商業高校
□略歴(満年齢)
72年(21歳)シングル「少女」で歌手デビュー。
80年(29歳)シングル「恋人よ」がヒット。NHK紅白歌合戦に初出場。
※他の主なシングル:
「リバイバル」「時の流れに 鳥になれ」「恋は突然に」
※主な出演:
テレビ「SMAP×SMAP」「月曜プレミア!」「行列のできる法律相談所」
□趣味
ドライブ クルマ
有名人データベース PASONICA JPN
■五輪真弓
□幼少時代〜
・父親は長崎県・五島列島出身。
※久賀島の五輪村が「五輪」という苗字の発祥地
・両親は共働きだった。
・3人きょうだいの末っ子。兄と姉がいる。
・中野新橋に住んでいた。
・父親は趣味で楽器を演奏する音楽好きで家の中に常に音楽が流れていた。
・自由奔放でよく笑う子供だった。
・姉と一緒に近所の銭湯に通っていた。
・小学校時代、学校が好きではなかった。
・小学校時代、家の鍵を持たせて貰えなかったので家の近所で兄か姉の帰りをひとりで待った。
暇つぶしに道にチョークで絵を描いて小川や夕日を眺めた。
・中学時代、ビートルズに熱中。
・高校時代、フォークブームの影響で楽譜を買って独学でギターをマスターした。
・高1の時、3年生を送る会で体育館のステージで初めて人前で歌った。
・高2の時、同級生の友人と女性フォークデュオ・ファンシーフリーシンガーズを結成。
・FENをつけっぱなしにして洋楽を聴いていたので自然に英語のリスニングが鍛えられた。
・高校卒業後、英語の専門学校に進学。
□私生活
・ストレスで体調を崩して数年間休養した(=07年〜)。
・44歳の時に花粉症になった。
・胃が弱い。夏でもできるだけ冷たいものを口にしない。
・大晦日までにいろいろ整理をしようとしてよく年末に体調を崩す。
・好きな音楽…ジャズ。
・クルマの運転が好き。
運転中は人格が変わってスピードを出す。
高速道路を運転中に大声で発声練習をする。
・フランスが好き。フランスの個人主義がしっくりくる。
・のびのびと過ごせる環境が好き。
・55歳を過ぎた頃から心が自由になり柔軟な考え方ができるようになった。
・人から縛られるのが嫌い。
・気があわない人と一緒にいるのが苦手。
久賀島
久賀島座標面積最高標高 所在海域 所属諸島 所属国・地域 地図
五輪港(重要文化的景観) | |
北緯32度47分東経128度52分 / 北緯32.783度 東経128.867度座標: 北緯32度47分東経128度52分 / 北緯32.783度 東経128.867度 | |
37.35 km² | |
(番屋岳)340 m | |
五島灘 | |
五島列島 | |
日本(長崎県五島市) | |
概要
地理
五島列島の中では福江島・中通島に次いで3番目に大きい島で、福江島の北東、奈留島の南西に位置する。福江島とはhttps://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%94%B0%E3%83%8E%E6%B5%A6%E7%80%AC%E6%88%B8&action=edit&redlink=1