元ちとせ - ワダツミの木
奄美の歴史概要
琉球王朝時代
(1266~1609)
(1266~1609)
薩摩藩時代
(1611~1867)
(1611~1867)
大正時代
(1912~1925)
(1912~1925)
昭和時代
(1926~1988)
(1926~1988)
現代
(平成時代)
(1989~)
(平成時代)
(1989~)
ゴホウラゴホウラ分類学名シノニム
ゴホウラ(護法螺、Strombus latissimus)はソデボラ科(スイショウガイ科)に分類される巻貝の一種。 特徴太平洋の熱帯・亜熱帯海域、日本では奄美大島以南の、水深10m程度の珊瑚礁に生息する。 殻高約18cm、殻質は重厚。殻口は非常に大きく、その上方が螺塔より高いことが特徴である。外唇縁は肥厚し、上縁は丸く張り出し、下縁には深い切れ込みがある。[1][2] 文化弥生時代初期から九州北部などでゴホウラの殻を縦切りにして製作した貝輪が盛行し、当時の権力者(主に男性)のステータスシンボルであったと考えられる。また生息地近くの沖縄本島などでこの貝輪を生産したと考えられる遺跡が多数知られており、ここで粗加工され交易されていたと考えられる。[3][4] | |||||||||||||||||||||||||||||||
南島と大和朝廷との交流 奄美はヤマト王権(大和朝廷)に方物を献上した独自の国であったが 奄美市名瀬小湊で発見された7世紀前半の貝製品の生産集落遺跡。2010年8月に国指定史跡に。 掘立柱建物跡・墓・動物の骨などの他、ヤコウガイの貝匙・イモガイの貝符など貝製品が大量に出土。また、大量の兼久式土器の他、鉄器も出土している。 当時の奄美の生活を知る上で貴重な遺跡であることは間違いない。また、鉄器が琉球弧で最も早い時期に使用されていた可能性も否定できず、今後の調査・研究が待たれる。 (写真下左:貝符 写真下右:貝匙) http://www.fnet.ne.jp/amami/history/place/img/kaisaji.jpg | |||||||||||||||||||||||||||||||
グスク時代 (按司の割拠時代) 奄美 大島奉行所跡 辺留城古墓 大島奉行所跡のすぐ近くにあった入り口。辺留城古墳が近くにあるらしい。とりあえず入り口から入り坂を登って丘の上に出たが、サトウキビ畑が広がるだけでそれらしいものは見つからなかった。 この時代の奄美群島は、遺跡や伝承、また群島外の歴史書によって様子の推定が行われている。 『漂到琉球国記』や『元亨釈書』では、日本本土から見て奄美は日本の域内であり「貴海国」と称され、沖縄諸島以南の「琉球国」は異域と見做されていた。『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。 奄美群島でも、按司(領主層)やグスク(城砦)を支配層を語る上で使うが、沖縄本島発祥のこの名称自体、一部を除き当時使用した証拠は無い。事実、現在グスクと呼ばれる遺跡の多くがヒラ、ハラ、モリなど違う名称であった。11世紀頃、グスクの構築が始まる。奄美群島のグスクは集落ごとに複数築かれ、規模はそれほど広くなく住民の共有の施設でもあった。グスクは浜を見下ろす立地をとるものも多いが、集落背後の山の中腹や山頂などにも築かれ、複数(3〜4個)のグスクで有機的な防衛網を構築していた。交易の利便性と、海からの襲撃に対応するためである。 その後、グスクは按司により采配されるようになり、そこに拠って互いに抗争していた。按司の中には、日本本土からの移住者との伝承を持つ者も居た。海賊や島外勢力の襲撃に対して、住民を率い戦い、英雄と讃えられる者も出現した。カムィヤキ古窯跡群(徳之島)で生産されたカムィヤキ(類須恵器)は、琉球弧全体に流通の広がりを見せており、それを生産販売する勢力の存在が考えられるが判明していない。12世紀には中尊寺金色堂で奄美産の蝶細がみられるなど、本土との交易も盛んであった。倉木崎海底遺跡(奄美大島)などで、12世紀後半 - 13世紀頃の中国産陶磁器が大量に引き揚げられており、中国との交易も確認されている。 鎌倉時代に入り北条得宗領(すなわち執権北条氏の惣領・嫡流による直轄領)とされ、実務上は得宗被官である千竈氏の采配地となった。『千竈時家処分状』(千竈文書)によって明らかにされており、また『金沢文庫』中の日本地図に「雨見嶋、私領郡」と記載されている。『六波羅御教書』では海上運輸と流通の権益を握り、在地勢力と封建制の関係に有ったと考えられる。その支配体制は、北方の得宗被官安東氏との比較検討が行われている。 琉球王国の成立した15世紀半ば以降、奄美地域をめぐって琉球勢と本土勢とが何回も合戦した。1466年(文正元年)に琉球使節が室町幕府将軍・足利義政に謁見しており(『親基日記』)、同時期、琉球王国は日本・中国との中継貿易を盛んに行っていた。応仁の乱の後、室町幕府は島津氏に商人の往来の統制を命じ、琉球へは交易船の派遣を要請した。 奄美群島は両者の交易などの往来が盛んになる一方、利害がぶつかる土地となり、軍事衝突も多数発生したものと考えられる。島津氏の記録には当時の様子が余り語られていないが、鎌倉幕府滅亡時、薩摩に残留した千竈氏一族を家臣団に組み込んでおり、交易の利益と相まって興味は十分持っていたと考えられている。 按司が登場してからを「按司世(あじんゆ)」とも呼ぶこともあるが、この時代までを「奄美世(あまんゆ)」と呼ぶこともある。 奄美徳之島方言での発音を表記すればやはり「カムィ」となる(カメとカムイの中間というわけでもない)。名称として「カムイ」と発音しても問題は無い。 材質は硬く、表面は青灰色、陶土は赤褐色を呈する。器種は壺を中心として甕、鉢、碗、水注が見られ、ヘラ描波状文が施されているのが特徴である。器種や形は本土の陶器と同様であるが、こうした製作技法は朝鮮半島系無釉陶器に類似し、その関連と伝播が推測されている。
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