★その1の続きです
住民数を言うなら、
南米やインドの方がはるかに住民数が多いわけで、
城塞の堅固さも、日本の平城は、
アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、
城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、
単純に、鉄砲の数が圧倒的で、
とても軍事力で日本には敵わない、という事です。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、
日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」というのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。
一方、当たり前の事ですが、
スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、
単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。
ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、
明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。
さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり、
当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、
一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。
ところが日本には、まるでそんな事に関心がない。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、
日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、
国内に治安を回復するかにあったのです。
信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、
まるで第六天の魔王であるかのように描かれる事が多いですが、
実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、
一日も早く戦乱の世を終わらせる事に尽きた。
だからこそ、多くの人々が信長に従ったという事が、
最近になって発見された各種文書から、
次第に明らかにされてきています。
この事は秀吉も同様で、なぜ秀吉が人気があったかといえば、
百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。
戦乱によって農地が荒される事を多くの民衆が嫌っている事を、
ちゃんと解ってくれている人物だったからこそ、
秀吉人気はあったのです。
要するに、当時の日本の施政者にとっては、
日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、
わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもない。
ところが、日本が秀吉によって統一され、
何とかその治安と太平を回復すると、
今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。
どういう事かというと、
スペインが日本に攻めて来たとしても、
彼らは海を渡ってやってきます。
スペインとの直接対決ならば、
海を渡ってやって来るスペイン人は、
数の上からいえば少数であり、
火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。
従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。
ところが、スペインが明国を植民地として
支配下におさめると、様子が違ってきます。
いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、
スペインに支配された明国兵が、
数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、
これは大変な事になる。
元寇の再来です。
これは驚異です。
となれば、その驚異を取り除くには、
スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能な事だし、
万一明国まで攻め込む事ができなかったとしても、
地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておく事で、
日本への侵入、侵略を防ぐ事ができる。
この事は、ロシアの南下政策を防ぐ為に、
明治日本が行なった政策と、
当時の状況が酷似している事を表します。
更にいえば、秀吉は、既にこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、
英国との戦争に破れ
スペイン自体が海軍力を大幅に低下させている事を知っています。
ですから、スペインが海軍力で
日本と戦端を交える可能性は、まずありません。
一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、
全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。
これはつまり、
日本に太平の世を築く為に必要な事であったわけですが、
同時にこの事は、もし日本が他国侵逼の難にあった時は、
日本の戦力を大きく削ぐ事にもつながってしまうのです。
ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、
朝鮮出兵を行ない、
朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまう事。
これは我が国の安全保障上、必要な事、であったわけです。
こうして秀吉は、文禄の役(1592?1593)、
慶長の役(1597?1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、
同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。
何をしたかというと、スペインに対して、
日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。
最初にこれを行なったのが、
文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月の事です。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン
(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、
「スペインのルソン総督府は、
日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、
真正面から堂々と
「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、
恐らく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
正に、気宇壮大というべきです。
対するスペイン総督府にしてみると、
これは極めて腹立たしい事だけれど、既に無敵艦隊が消滅し、
海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、
日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。
悔しいけれど、放置するしかない。
すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはルソンのスペイン総督府です。
日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、
東亜最大の政治的、軍事的圧力となる事は目に見えています。
しかも、海を渡った朝鮮出兵という事は、
いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人達を、
マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。
更ににスペイン総督府は、同年7月には、
ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、
秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
この時、膨大な贈物も持参している。
いかにスペインが日本をおそれていたか、という事です。
けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。
スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、
マニラにあるスペイン総督府は、
日本に臣下としての礼をとれ、というのです。
そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、
この事をスペイン国王にちゃんと伝えろ、というのです。
この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
本当に海難事故で遭難したのか、
返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買う事がわかって、
故意に遭難した事にしたのかは、今となっては不明です。
けれどおそらくこれは後者ではないかと私は見ています。
さて、コポスの遭難のお陰で、
秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、
当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、
確実に書簡を総督府に届けさせたのです。
文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこの時、たまたま在マニラの支那人約2000人
(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が
一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。
スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、
またたく間に支那兵を殲滅してしまいます。
日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにした
スペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。
けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、
とてもじゃないが報告できることではありません。
ゴメスは、何とか時間をかせごうとします。
そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士の
ペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返す中で、
少しでも時間稼ぎをしようしたのです。
名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、
ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国である事、
日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、
日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、
もの凄い譲歩です。
けれど、秀吉は聞く耳を持たない。
ペドロに対し、
重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。
なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。
日心会メルマガより
※明日のメルマガに続く
南米やインドの方がはるかに住民数が多いわけで、
城塞の堅固さも、日本の平城は、
アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、
城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、
単純に、鉄砲の数が圧倒的で、
とても軍事力で日本には敵わない、という事です。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、
日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」というのです。
こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。
一方、当たり前の事ですが、
スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、
単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。
ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、
明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。
さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり、
当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、
一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。
ところが日本には、まるでそんな事に関心がない。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、
日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、
国内に治安を回復するかにあったのです。
信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、
まるで第六天の魔王であるかのように描かれる事が多いですが、
実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、
一日も早く戦乱の世を終わらせる事に尽きた。
だからこそ、多くの人々が信長に従ったという事が、
最近になって発見された各種文書から、
次第に明らかにされてきています。
この事は秀吉も同様で、なぜ秀吉が人気があったかといえば、
百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。
戦乱によって農地が荒される事を多くの民衆が嫌っている事を、
ちゃんと解ってくれている人物だったからこそ、
秀吉人気はあったのです。
要するに、当時の日本の施政者にとっては、
日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、
わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもない。
ところが、日本が秀吉によって統一され、
何とかその治安と太平を回復すると、
今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。
どういう事かというと、
スペインが日本に攻めて来たとしても、
彼らは海を渡ってやってきます。
スペインとの直接対決ならば、
海を渡ってやって来るスペイン人は、
数の上からいえば少数であり、
火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。
従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。
ところが、スペインが明国を植民地として
支配下におさめると、様子が違ってきます。
いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、
スペインに支配された明国兵が、
数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、
これは大変な事になる。
元寇の再来です。
これは驚異です。
となれば、その驚異を取り除くには、
スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能な事だし、
万一明国まで攻め込む事ができなかったとしても、
地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておく事で、
日本への侵入、侵略を防ぐ事ができる。
この事は、ロシアの南下政策を防ぐ為に、
明治日本が行なった政策と、
当時の状況が酷似している事を表します。
更にいえば、秀吉は、既にこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、
英国との戦争に破れ
スペイン自体が海軍力を大幅に低下させている事を知っています。
ですから、スペインが海軍力で
日本と戦端を交える可能性は、まずありません。
一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、
全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。
これはつまり、
日本に太平の世を築く為に必要な事であったわけですが、
同時にこの事は、もし日本が他国侵逼の難にあった時は、
日本の戦力を大きく削ぐ事にもつながってしまうのです。
ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、
朝鮮出兵を行ない、
朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまう事。
これは我が国の安全保障上、必要な事、であったわけです。
こうして秀吉は、文禄の役(1592?1593)、
慶長の役(1597?1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、
同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。
何をしたかというと、スペインに対して、
日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。
最初にこれを行なったのが、
文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月の事です。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン
(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、
「スペインのルソン総督府は、
日本に入貢せよ」との国書を手渡します。
世界を制する大帝国のスペインに対し、
真正面から堂々と
「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、
恐らく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
正に、気宇壮大というべきです。
対するスペイン総督府にしてみると、
これは極めて腹立たしい事だけれど、既に無敵艦隊が消滅し、
海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、
日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。
悔しいけれど、放置するしかない。
すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。
驚いたのはルソンのスペイン総督府です。
日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、
東亜最大の政治的、軍事的圧力となる事は目に見えています。
しかも、海を渡った朝鮮出兵という事は、
いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人達を、
マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。
更ににスペイン総督府は、同年7月には、
ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、
秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
この時、膨大な贈物も持参している。
いかにスペインが日本をおそれていたか、という事です。
けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。
スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、
マニラにあるスペイン総督府は、
日本に臣下としての礼をとれ、というのです。
そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、
この事をスペイン国王にちゃんと伝えろ、というのです。
この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
本当に海難事故で遭難したのか、
返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買う事がわかって、
故意に遭難した事にしたのかは、今となっては不明です。
けれどおそらくこれは後者ではないかと私は見ています。
さて、コポスの遭難のお陰で、
秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、
当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。
けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、
確実に書簡を総督府に届けさせたのです。
文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこの時、たまたま在マニラの支那人約2000人
(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が
一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。
スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、
またたく間に支那兵を殲滅してしまいます。
日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにした
スペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。
けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、
とてもじゃないが報告できることではありません。
ゴメスは、何とか時間をかせごうとします。
そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士の
ペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返す中で、
少しでも時間稼ぎをしようしたのです。
名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、
ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国である事、
日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、
日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、
もの凄い譲歩です。
けれど、秀吉は聞く耳を持たない。
ペドロに対し、
重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。
なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。
日心会メルマガより
※明日のメルマガに続く