一般市民・・・約20万人、中国軍兵士・・・約3.5~5万
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1リットルの瓶詰めの酒を、どう飲もうと、どうこぼそうと、1リットルの酒は1リットルである。
20万人しかいない人間を、30万人殺すことはできない。
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こんなことは、3才の子供でもわかりきったことである。
昭和12(1937)年12月、日本軍が南京を攻略したとき、南京城内にいた市民は一体何人いたのか?
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虐殺された人間の数は、はじめそこにいた人間の数以上には絶対ならない。
南京事件を論ずる際の、これが最も基本的な問題である。
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馬超俊・南京市長は12月1日、全市民に対して「南京安全区国際委員会 」が管理する安全区(難民区)内に避難せよと命令した。
一方、国際安全委員会に対しては、米、麦、金と警察官若干を委托して、自分も蒋介石総統らの後を追って南京を脱出した。
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すでに、上、中流階級の市民や官公吏は揚子江上流などに避難ずみで、残った市民はほとんど下層の市民のみであった。
まず、南京の広さについて説明しておく必要がある。
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中国の首都といえば、いかにも広大な都市のごとく想像されるむきもあろうが、京都や北京、上海とは比較にならぬ小さな町である。しかもこの狭い城内に飛行場もあれば、小高い山も、畑もある。
いま私の手許に1937年に中国が発行した南京の地図がある。
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これを見ても、東西5キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて1時間ほどで横切る事ができる。
南の中華門から最北の悒江(ゆうこう)門まで約11キロ、歩いても2時間たらずである。
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総面積は城外の下関まで加えて約40平方キロ。
東京都世田谷区が58.81平方キロであるから、その5分の4弱の広さである。
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都市で言えば、鎌倉市が39.53キロゆえこれとほぼ同じ広さと思えばまちがいない。
さて、このような狭い町の一角に、3.8平方キロを区切って"安全区"を設け、第三国人からなる国際安全委員会がここを管理していた。
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この"安全区"(難民区)に南京市民を全員を収容して保護に当たったのである。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
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主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
まぎれもなくこの61通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。
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残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この61通の文章は徐淑希博士の「南京安全区档案」とマンチェスター・ガーディアンの特派員ティンパーリーの「戦争とは何か」(What war means : the Japanese terror in China : a documentary record /compiled and edited by H.J.Timperley) の中に全文がおさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。
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この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている。
米副領事のエスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、「南京の人口は20万人」と報告されている。
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しかし、ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史が「文芸春秋」(昭和13(1938)年・2)に「南京脱出記」を書いている。
それによると、自分の脱出時には、「漸(ようや)く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」とある。
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また、米紙には「(※注1)日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と書いている。
さらに日本軍の捕虜となった張群思少佐は「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」と述べており、同じく捕虜となり、のち汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は、市民数「概(おおむ)ね20万」と言う。
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松井大将は「陣中日誌」の12月20日に、「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」と記述している。
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12~13万から最高20万の間とみて間違いない。
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唐生智麾下(きか)の南京防衛軍は3.5万から5万であることは間違いなく、目一杯多く見積もって、合わせて25万、少なく見積もって16~17万である。
防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。
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それがどうして30万なのか?
幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。
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そこで虐殺派は、何とか住民の人口を増やそうとする。
洞富雄氏は「日本軍が南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は25万ないし30万であったといわれている」
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「敗残兵の掃討が終わった後の南京には、20万人近い市民が居住していたものといわれる」
「とすればその差10万ないし5万が被虐殺者ということになる」(洞富雄(ほらとみお)著「南京事件」(新人物往来社)179ページ)。
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「いわれている」「いわれる」というだけで何の根拠もない。洞(ほら)氏がただ想像し、憶測(おくそく)しているだけの話で、信憑性は全くない。
洞氏同様、南京に30万、40万の大屠殺があったことを実証しなければならない南京市文史資料研究会編『証言・南京大屠殺』は、やはり南京の人口の水増しを図っている。
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「われわれの研究によれば、難民区の人口は最も多い時で29万に達した。虐殺の末期、日寇が難民に難民区を離れるように強迫した時(日本側は)25万だと称していた。2ヶ月たらずの間に4万人が減ったのである。減少の原因はもちろん数多くあるが、重要な原因は、日寇が難民を大量に虐殺したことによるものであることは確かである。」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 日本語訳(青木書店)178ページ)
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いったいこの29万人というのは、どこから持ってきたのか数字なのか?
洞氏と同様、何の根拠もない。
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あったら教えて頂きたい。
東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於(おい)テ殺害サレタ数ハ30万トナッテ居(お)リマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南京ノ人口ハ20万デアリマス」とズバリこの問題の本質を突く質問をした。
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するとウエッブ裁判長はあわてて、「今ハソレヲ持チ出ス時デハアリマセン」とこの発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)。
かくして、ついに東京裁判においても、南京市民の人口問題にはふれることなく、ただ10万とか、20万とか、12万7000とか、その数値さえも定かでない殺害数字を並べた珍無類の判決だけが下された。
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以後、虐殺論者は、人口問題を敬遠するか、または洞氏のように単なる推測数字を並べて水増しをはかるかのいずれかである。
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1リットルの瓶詰めの酒を、どう飲もうと、どうこぼそうと、1リットルの酒は1リットルである。
20万人しかいない人間を、30万人殺すことはできない。
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こんなことは、3才の子供でもわかりきったことである。
昭和12(1937)年12月、日本軍が南京を攻略したとき、南京城内にいた市民は一体何人いたのか?
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虐殺された人間の数は、はじめそこにいた人間の数以上には絶対ならない。
南京事件を論ずる際の、これが最も基本的な問題である。
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馬超俊・南京市長は12月1日、全市民に対して「南京安全区国際委員会 」が管理する安全区(難民区)内に避難せよと命令した。
一方、国際安全委員会に対しては、米、麦、金と警察官若干を委托して、自分も蒋介石総統らの後を追って南京を脱出した。
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すでに、上、中流階級の市民や官公吏は揚子江上流などに避難ずみで、残った市民はほとんど下層の市民のみであった。
まず、南京の広さについて説明しておく必要がある。
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中国の首都といえば、いかにも広大な都市のごとく想像されるむきもあろうが、京都や北京、上海とは比較にならぬ小さな町である。しかもこの狭い城内に飛行場もあれば、小高い山も、畑もある。
いま私の手許に1937年に中国が発行した南京の地図がある。
.
これを見ても、東西5キロ、つまり一番幅広い中山門から漢中門まで歩いて1時間ほどで横切る事ができる。
南の中華門から最北の悒江(ゆうこう)門まで約11キロ、歩いても2時間たらずである。
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総面積は城外の下関まで加えて約40平方キロ。
東京都世田谷区が58.81平方キロであるから、その5分の4弱の広さである。
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都市で言えば、鎌倉市が39.53キロゆえこれとほぼ同じ広さと思えばまちがいない。
さて、このような狭い町の一角に、3.8平方キロを区切って"安全区"を設け、第三国人からなる国際安全委員会がここを管理していた。
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この"安全区"(難民区)に南京市民を全員を収容して保護に当たったのである。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送している。
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主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録している。
まぎれもなくこの61通の公文書は、同時資料であり、第一級史料といえよう。
.
残念ながら日本外務省は終戦時これを焼却して現存しないが、この61通の文章は徐淑希博士の「南京安全区档案」とマンチェスター・ガーディアンの特派員ティンパーリーの「戦争とは何か」(What war means : the Japanese terror in China : a documentary record /compiled and edited by H.J.Timperley) の中に全文がおさめられており、東京裁判にも証拠書類として提出された。
.
この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されている。
米副領事のエスピーの本国への報告にも、またラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、「南京の人口は20万人」と報告されている。
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しかし、ドイツ・フランクフルター紙の特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史が「文芸春秋」(昭和13(1938)年・2)に「南京脱出記」を書いている。
それによると、自分の脱出時には、「漸(ようや)く、15万人を数ふる小都市に成り下がっていった」とある。
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また、米紙には「(※注1)日本軍は15万人の南京市民が避難した安全区をちょっぴり可愛がった」と書いている。
さらに日本軍の捕虜となった張群思少佐は「南京衛戊軍の兵力数5万、非戦闘員10万」と述べており、同じく捕虜となり、のち汪兆銘政府の軍官学校長に就任した劉啓雄少将(当時雨花台陣地を守備した旅長)は、市民数「概(おおむ)ね20万」と言う。
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松井大将は「陣中日誌」の12月20日に、「避難区ニ収容セラレアル支那人ハ概シテ細民層ニ属スルモノナルモ、其数十二万余ニ達シ」と記述している。
以上の資料を総合してみると、当時の南京の人口は、12~13万から最高20万の間とみて間違いない。
.
唐生智麾下(きか)の南京防衛軍は3.5万から5万であることは間違いなく、目一杯多く見積もって、合わせて25万、少なく見積もって16~17万である。
防衛軍と市民、一人残らず殺害しても16万ないし25万なのである。
.
それがどうして30万なのか?
幽霊でも殺さなければ30万虐殺にはならない。
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そこで虐殺派は、何とか住民の人口を増やそうとする。
洞富雄氏は「日本軍が南京攻撃が開始されたとき、城内に残留していた市民の数は25万ないし30万であったといわれている」
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「敗残兵の掃討が終わった後の南京には、20万人近い市民が居住していたものといわれる」
「とすればその差10万ないし5万が被虐殺者ということになる」(洞富雄(ほらとみお)著「南京事件」(新人物往来社)179ページ)。
.
「いわれている」「いわれる」というだけで何の根拠もない。洞(ほら)氏がただ想像し、憶測(おくそく)しているだけの話で、信憑性は全くない。
洞氏同様、南京に30万、40万の大屠殺があったことを実証しなければならない南京市文史資料研究会編『証言・南京大屠殺』は、やはり南京の人口の水増しを図っている。
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「われわれの研究によれば、難民区の人口は最も多い時で29万に達した。虐殺の末期、日寇が難民に難民区を離れるように強迫した時(日本側は)25万だと称していた。2ヶ月たらずの間に4万人が減ったのである。減少の原因はもちろん数多くあるが、重要な原因は、日寇が難民を大量に虐殺したことによるものであることは確かである。」(「証言・南京大虐殺」南京市文史資料研究会編 日本語訳(青木書店)178ページ)
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いったいこの29万人というのは、どこから持ってきたのか数字なのか?
洞氏と同様、何の根拠もない。
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あったら教えて頂きたい。
東京裁判でロヴィン弁護士が「南京ニ於(おい)テ殺害サレタ数ハ30万トナッテ居(お)リマスガ、私ノ承知シテ居(い)ル範囲ニ於キマシテハ南京ノ人口ハ20万デアリマス」とズバリこの問題の本質を突く質問をした。
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するとウエッブ裁判長はあわてて、「今ハソレヲ持チ出ス時デハアリマセン」とこの発言を封じてしまった。(「極東国際軍事裁判速記録」58号21・8・29)。
かくして、ついに東京裁判においても、南京市民の人口問題にはふれることなく、ただ10万とか、20万とか、12万7000とか、その数値さえも定かでない殺害数字を並べた珍無類の判決だけが下された。
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以後、虐殺論者は、人口問題を敬遠するか、または洞氏のように単なる推測数字を並べて水増しをはかるかのいずれかである。
マギー牧師撮影の16ミリフィルムに残る南京脱出の様子
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http://www.history.gr.jp/~nanking/reason01.html
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