苦力貿易船 竹富島 座礁 1866年 で検索
苦力貿易船の竹富島沖座礁事件
竹富町史から引用
ロバート・バウン号事件から14年後の1866年6月17日、中国人苦力340人を乗せた船が、竹富島蔵元前の浜で台風に遭って座礁した。
溺死者114人、行方不明者62人、生存して帰還した者は166人で犠牲者は半数に達した。
溺死者114名のうち、竹富島へ流れ着いた中国人の死骸は39人、小浜へは24人、高那村へは1人、黒島村へじゃ34人,冨崎浜へは19人であったという。
イギリス人船の船主から
「海上航海用の食料と用水、その他船具などの所望品を用意してくれるように」と要望があり、それに応えた。
1866年7月1日
台湾から派遣された迎船が、崎枝村の前の沖に到着した。
冨村親雲上らの当局は、イギリス人から所望された牛1頭、??100斤、帰還用の10日分の食料・野菜・肴・薪木等を提供したところ、イギリス人は謝礼として、文書1通を提出した。
バウン号の苦力反乱と琉球王国―揺らぐ東アジアの国際秩序 (沖縄学術研究双書 (1)) 単行本 – 2001/5
王啓民「契約移民史の時期区分問題」 (『華僑歴史論叢』第一輯)
アヘン戦争後,契約移民制は大々的に発展しはじめ,ついに19世紀50~60年代には中国人契約労働者の出国風潮の高波が形成された。1840年代のアヘン戦争から70年代の末にいたるまでは,契約移民制の第二段階で,そのピークの時期であるということができる。なぜ契約移民制のピークが出現したのだろうか。
中国内部のことからいえば,アヘン戦争後,わが中国の出国人口は大々的に増加し,出国風潮の高波を形成した。その内,原因は比較的はっきりしており,少なからざる著書・論文ですでに論述されているので,私はここで多言しない。中国人契約労働者の出国と一般華僑の出国には区別される面と関連する面があり,契約移民制のピークは,海外渡航者の出国風潮の高波が形成されるもとで出現したのである。
外国のことからいえば,植民地主義のアジア・アフリカ・ラテンアメリカにたいする侵略は,なお〔独占資本主義以前の〕自由主義の植民地政策の時期である。産業革命は,若干の国家ではすでに完成し,若干の国家ではまさに急速に展開しつつあり,アジア・アフリカ・ラテンアメリカ地域を含む益々多くの地域が資本主義の市場へくみ入れられ,資本主義世界市場はついに完全に形成された。
無数の礒山やプランテーション,多くの建設工事が切実に大量の労働力を必要とした。19世紀40年代の末に,掌律で大錫礒山が発見され,50年代には採掘に着手した。60年代には資本金500万ギルダーのインドネシア勿里洞錫砿有限公司が現地の錫鉱山を採掘した。カナダ・イギリス領のコロンビア・オーストラリア・ニュージーランドのホキチカでは金礦が発見された。
アメリカのカリフォルニアの金砿,アメリカの太平洋横断鉄道の建設,ペルーの砿山とグアノ等々は,すべて労働力の輸入をまっていた。西インド諸島と南米大陸の熱帯経済作物のプランテーション,キューバ・トリニダット・マルチニーク・ギアナなどの薦糖園,インドネシアの烟草園,胡椒園,綿花園があり,とりわけインドネシアのスマトラの烟草園では,オランダ人の尼羽伊の如きは,1,000荷畝の土地を独占し,1869年にはジョクジャカルタ烟草公司を成立させ,なおジョクジャカルタ・ジャワ烟草公司(1875年),阿林斯塁烟草公司(1877年)なども前後して成立させ,手広く烟草を栽培した。大小さまざまのプランテーションも労働力の輸入をまっていた。
中国人契約労働者の出国風潮のピークも,このような情勢のもとで出現したのである。同時に,奴隷制度が次第に衰退して最終的に廃止されたことも,契約労働者に影響を与えた一つの重要な要素である。中米・南米一帯では,もともと奴隷制度がさかんに行われていた。奴隷の絶えざる反抗と闘争は,奴隷制度に重大な打撃を与えた。ハイチでは53万6,000人の住民のうち,黒人が48万人を占めていた。
1791年,ハイチの奴隷は蜂起し,ハイチ革命は勝利をかちとった。ラテンアメリカの革命運動が煉原の火のように拡がったのに続いて,1826年にはラテンアメリカのほとんど大部分の地域に独立国家が建設された。黒人奴隷は積極的に独立をかちとる闘争に参加し,独立後は,大多数の国家が奴隷制度を廃止,もしくは部分的に廃止した。ラテンアメリカの外,その他の地域の奴隷たちも,英雄的なサボタージュ・破壊・暴動でもって奴隷制度を猛烈に衝撃し,奴隷制度経営を必ずしも割りに合わないものとした。
イギリスが1833年に,フランスが1848年に,ペルーが1855年に,アメリカが1862年に,オランダが1863年に,スペインが1870年に,それぞれ奴隷制度の廃止を宣言した。各国が奴隷制度を廃止した時期は前後まちまちで,ある国はなお部分的に廃止しただけであったり,ある国は一定の制限を加えただけであったりしたが,全体の趨勢は奴隷制度の弱体・没落・終末の傾向であった。大通の労働力が切実に必要とされても,自由労働者では必要を満たしえず,とりわけ自由労働者の賃金は若干高く,往来も自由で,また常に労働者の組織をもち,ストライキを行うので,比較してみると,やはり契約労働者を使用した方が最も有利であった。
というのも,彼らの賃金は低く,契約期限以前には自由がなく,立ち去ることができず,さまざまの経済外的強制と搾取を加えることができたからである。契約期限の切れた後でも,なおさまざまの手段を用いて,彼らを所定のプランテーションや砿山から離れる術のない状態におくことができた。ある著書は奴隷制度の廃止を,奴隷主が「人道(】2)上の見地力到ら」,「自由の空気を吸うことを許した」と説明して,奴隷の反抗闘争には言及していないが,これはむろん不正確である。また契約した中国人労働者は「その本質を言えば,まずヨーロッパ列強が奴隷を解放し,労働力に欠乏をきたしたことから」,「奴隷の代用として候補にあがったも (13》のである」と説明している力f,契約移民制の本質と奴隷解放とは関係がない。
その本質は植民地主義者及びその代理人が立替え分の費用でもって中国人労働者を搾取し奴隷のように使用したことである。また,奴隷制度の廃止を,中国人契約労働者が大量に使用された唯一の重要な原因と説明することもできない。
実際には,いくつかの地域で中国人契約労働者を大量に使用した後も,同時に引き続き奴隷制度を採用している。イギリスの勢力は18世紀末。19世紀初頭にマラヤヘ到達して以後,奴隷制経営を実施していない。オランダ領インドネシアでは部分的に奴隷制度が実施されたが,1811-1816年のイギリス占領期間には,奴隷制度は廃止された。オランダの支配が回復された後,もはや奴隷制度を回復することはできなかった。
マラヤやインドネシアの如きは,中国人契約労働者のもっとも多い地域であるが,これは奴隷制度の廃止によって形成されたものではない。奴隷制度の廃止は,若干の地域では,たしかに契約移民制に影響を与えた。しかし,この二者は普遍的必然的な継承関係あるいは代替関係にあるわけではない。中国人契約労働者の大量の増加を促進した要因は,多元的であって,そのうちの一つだけを取り出してその他を無視するというわけにはいかない。
アヘン戦争前には,沿海人民の海外渡航は半非合法であり,外国人が中国で労働者を募集し運び出すことは違法であって,ただ秘かに行うことができるだけであったが,アヘン戦争後,中国の門戸が大きく開かれると,当然人々がこの門戸から滴々として出て行くのを阻止する術はなかった。同時に清朝政府もまた人民の海外渡航を許さずして人民に生活の手段がないとなれば,かえってさらに大きな不満と反抗を激化させると見てとった。公然と禁令を取消してはいないけれども,実際にはむしろ人民の意思にまかせて黙認し,いわゆる「前例ハ已二廃セラレズシテ自カラ廃Xi'ることとなった。1858年の天津条約と1860年の北京条約は,清朝政府に正式に海外渡航に関する禁止令を取消させた。
植民地主義者は合法的に中国人を募集して海外へ送り出す特権を取得した。その条項には,「凡ソ華民ノ出国シテ……外洋ニ在リテ承工セント情甘スルアレパ,倶二英(米・露等)ノ民ト約ヲ立テテ懸卜為シ,……-井二通商ノ各国二赴キ,英(米・露等)国ノ船隻ヲ下ルヲ准シ,竜モ阻禁スルナシ」と称されている。
1863年,オランダもまた清朝政府と中国・オランダ通商条約を締結したが,そのなかの一条〔第五条〕でオランダの臣民が中国で労働者を雇うのを許し,「和(すなわちオランダ)ノ民,任便二諸色ノ華庶ヲ覚致シ,分内ノエ芸ヲ勤執セシム」とした。1868年清朝政府はアメリカとパーリンゲーム条約を締結し,両国臣民の往来居住の自由を承認した。
50年代の末以来,法律上からいえば,一般の自費による海外渡航,つまり普通の華僑の場合は,合法的な渡航であった。外国人に募集された労働者の場合も合法的な渡航であったが,次の三つの条件を備えていなければならなかった。第一に,本人自身の希望であって,脅迫されたのではないこと,第二に,募集しようとするものは,募集条件を公開し実行すること,第三に,事前に地方政府と協定し,同意を得られなければ非合法であること,これである。「若シ別二法ヲ設ケテ招致シ,出洋シテエト作ラシムコトアラバ,例トシテ厳禁スル所ト為シ」,「猪仔」販売に至っては,さらに厳禁となった。
清朝政府がイギリス・フランスと1866年3月に締結した移民条約のなかの一条には,「凡ソ“猪仔”ヲ販運スルノ人,即チ我国ノ人民ヲ将テ,暴力ヲ施用シ,或ハ証驍シテ私カニ運ビテ出洋セシムル者ハ,査出シテ処スルニ死刑ヲ以テス」と規定された。むろん,清朝政府の極度の腐敗,各級官吏の外国人恐怖症,賄賂を貧る気風のために,関連規定を厳格に実行することはできなかった。西側の植民地主義者は,わが中国の労働者を誘拐する過程で,中国人民の反対と清朝政府の干渉を受けると,必ずいつも50~60年代に締結した関連条約を引き出して,その法律的根拠及び正当性の根拠とした。
しかし,これらはいづれも,さらなる不平等条約であって,当然なんらの正当性をも主張しうるものではない。のみならず,これらの条約及びその労働者募集に関連する規定には,いづれも条件が付されていた。たとえば欺臓したり脅迫することを許さず,事前に地方政府の同意を得なければならない等の如くであるが,侵略者及びその走狗たちは,むしろ絶えずこれらの条件に違反し,これを破壊したのである。彼らはやはりたえず大規模な「猪仔」販売を行なった。これらは条約を根拠としているといえるであろうか。
転載元: 沖縄県風土記等を読みませんか