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[転載]クナシリ・メナシの戦いは、1789年(寛政元年)に東蝦夷地(北海道東部、道東)で起きたアイヌと和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と

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クナシリ・メナシの戦い

   
クナシリ・メナシの戦い(クナシリ・メナシのたたかい:国後・目梨の戦いと表記されることもある)は、1789年寛政元年)に東蝦夷地北海道東部、道東)で起きたアイヌ和人の衝突。事件当時は「寛政蝦夷蜂起」と呼ばれた。

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概要

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和人とアイヌの関わり

松前藩の『新羅之記録』には、1615年元和元年)から1621年(元和7年)頃、メナシ地方(現在の北海道目梨郡羅臼町標津町周辺)の蝦夷(アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前に行き交易したとの記録がある。

また、1644年正保元年)に「正保御国絵図」が作成されたとき松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれ、1715年正徳5年)には、松前藩主は江戸幕府に対し「十州島唐太千島列島勘察加」は松前藩領と報告。

1731年享保16年)には、国後・択捉の首長らが松前藩主を訪ね献上品を贈っている。1754年宝暦4年)松前藩家臣の知行地として国後島のほか択捉島得撫島を含むクナシリ場所が開かれ、国後島の泊には交易の拠点および藩の出先機関として運上屋が置かれていた。

1773年安永2年)には商人・飛騨屋がクナシリ場所での交易を請け負うようになり、1788年天明8年)には大規模な〆粕(魚を茹でたのち、魚油を搾りだした滓を乾燥させて作った肥料。主にが原料とされるが、クナシリではが使用された)の製造を開始するとその労働力としてアイヌを雇うようになる。

一方、アイヌの蜂起があった頃すでに北方からロシアが北千島まで南進しており、江戸幕府はこれに対抗して1784年(天明4年)から蝦夷地の調査を行い、1786年(天明6年)に得撫島までの千島列島を最上徳内に探検させていた。

ロシア人は、北千島において抵抗するアイヌを武力制圧し毛皮税などの重税を課しており、アイヌは経済的に苦しめられていた。一部のアイヌは、ロシアから逃れるために南下した。これらアイヌの報告によって日本側もロシアが北千島に進出している現状を察知し、北方警固の重要性を説いた『赤蝦夷風説考』などが著された[1]


アイヌの蜂起

1789年(寛政元年)、クナシリ場所請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリ場所(国後郡)のアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害した。蜂起をよびかけた中でネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じて、和人商人を襲った。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たり蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された。蜂起に消極的なアイヌに一部の和人が保護された例もあるが、この騒動で和人71人が犠牲となった。

松前藩は、鎮定直後に飛騨屋の責任を問い場所請負人の権利を剥奪、その後の交易を新たな場所請負人・阿部屋村山伝兵衛に請け負わせた。一方、幕府は、寛政3~4年、クナシリ場所やソウヤ場所で「御救交易」を行った。ロシア使節アダム・ラクスマンが通商を求めて根室に来航したのは、騒動からわずか3年後の寛政4年のことである。

事件から10年を経た1799年(寛政11年)東蝦夷地(北海道太平洋岸および千島)が、続いて1807年文化4年)和人地および西蝦夷地(北海道日本海岸・樺太(後の北蝦夷地)・オホーツク海岸)も公議御料となった。




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蜂起の後

北見方面南部への和人(シサム・シャモ)の本格的な進出が始まったのはこの戦いの後、江戸幕府が蝦夷地を公議御料として、蝦夷地への和人の定住の制限を緩和してからである。幕府はアイヌの蜂起の原因が、経済的な苦境に立たされているものであると理解し、場所請負制も幕府直轄とした。このことにより、アイヌの経済的な環境は幾分改善された。しかし、これはアイヌが、和人の経済体制に完全に組み込まれたことも意味していた。[1]

また、1845年、1846年に知床地方を訪れた松浦武四郎が1863年に出版した「知床日誌」によると、アイヌ女性が年頃になるとクナシリに遣られ、そこで漁師達の慰み物になったという。また、人妻は会所で番人達のにされたともいわれている。男は離島で5年も10年も酷使され、独身者は妻帯も難しかったとされる。

さらに和人がもたらした天然痘などの感染症が、本格的にアイヌ人の人口を減少させた。その結果文化4年(1804年)に2万3797人と把握された人口が、明治6年(1873年)には1万8630人に減ってしまった。アイヌの人口減少はそれ以降も進み、北見地方全体で明治13年(1880年)に955人いたアイヌ人口は、明治24年(1891年)には381人にまで減った。

脚注

  1. ^ ab厚岸町の歴史”. 北海道厚岸町 1993年3月発行 厚岸町要覧「厚岸町歴史物語」. 2013年8月18日閲覧。

関連項目





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国後島の遺跡分布


目梨郡   

北海道目梨郡の位置(緑:羅臼町 薄黄:後に他郡に編入した区域)

目梨郡(めなしぐん)は、北海道根室国根室振興局
人口5,387人、面積397.72km²、人口密度13.5人/km²。(2016年6月30日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。

郡域

1879年明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記1町に標津郡標津町の一部(崎無異・薫別・古多糠・忠類)を加えた区域にあたる。

歴史

郡発足までの沿革

郡の名前の由来はアイヌ語の「メナシ(東方)」で、現在の根室振興局(知床北方領土を含む)一帯を指していた。
江戸時代の目梨郡域は、松前藩によって開かれたネモロ場所に含まれた。松前藩の「新羅之記録」によると、元和元年から元和7年頃、メナシ地方の蝦夷アイヌ)が、100隻近い舟に鷲の羽やラッコの毛皮などを積み、松前で交易したと記録されている。寛政元年、蝦夷の人々が蜂起したクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)が勃発、メナシ地方でも多数の和人が殺害される。同年、羅臼温泉が発見された。

江戸時代後期、目梨郡域は東蝦夷地に属していた。南下政策を強力に進めるロシアの脅威に備え寛政11年目梨郡域は天領とされた。文政4年に一旦松前藩領に復したものの、安政2年再び天領となり会津藩が警固をおこなった。また、羅臼神社の創立は安政年間と伝わる。安政3 - 4年ころ知床半島硫黄山噴火があった。安政6年の6藩分領以降は会津藩領となった。戊辰戦争箱館戦争)終結直後の1869年大宝律令国郡里制を踏襲して目梨郡が置かれた。

郡発足以降の沿革

北海道目梨郡の町村(5.羅臼町)

参考文献

関連項目

新羅之記録

  
新羅之記録』(しんらのきろく)は、日本の歴史書江戸時代に幕命により編纂された松前家系図をもとに補筆して作成された記録。別称に「松前国記録」「新羅記」。

1643年寛永20年)、 幕命によって編纂された松前家系図を初代松前藩主松前慶広の六男景広が、正保3年(1646年)記述を補って作成した系図と史書を兼ねたものを、近江国園城寺(三井寺)境内の新羅神社に奉納したもので、寛永14年(1637年)の福山館の火災により焼失した記録を、記憶によってまとめたといわれており、他の記録と一致しない点が多く、信憑性や疑問が持たれている[1]。上下二巻の巻子本。
新羅源頼義の三男で、新羅明神で元服した甲斐源氏の祖である新羅三郎義光を意味し、同書の冒頭部には園城寺にある新羅明神の縁起に関する記述がある。 松前景広が、1646年正保3年)に園城寺を訪れた際,寺僧から新羅明神の縁起を聞いたとされている。
写本に松前藩家臣近藤家に伝来した近藤家資料本がある。

関連項目

外部リンク



最古の記録


 厚岸に暮らす人々について記されたもっとも古い記録は、日本人の手によるものではない。それは長らくオランダの国立総合公文書館に眠っていた。寛永20年(1643年)、オランダ東インド会社所属のM・G・フリース艦長率いるカストリクム号が厚岸に寄港し、当時の厚岸に様子を航海記録に残したものがそれである。

クナシリ・メナシの戦い


 カストリクム号の厚岸での滞在は、8月15日から9月2日までの18日間に及んだ。その間、彼らは日本の交易船にも遭遇した。
カストリクム号の寄港する以前、寛永年間、厚岸は松前藩とアイヌ民族の交易場、すなわち商場であった。蝦夷地の資源に対する関心は、アイヌ民族との交易を通じた資源の入手から、本州の商人が資本、道具、働き手を連れてきて、自ら造材や漁業を直接経営することに移っていった。これが場所請負制度といわれるものである。

 この時、カストリクム号が出会った和人は場所請負商人ではなく、藩主手舟の上乗役小山五兵衛であった。厚岸に場所請負商人が登場するのは、安永3年(1774年)飛騨屋が、厚岸・室蘭・霧多布・国後の4場所を請け負うようになってからである。飛騨屋は、エゾマツの造材を一手に引き受けて、江戸や大阪に回送した。飛騨屋による一手請負は、飛騨屋が松前藩に貸し付けた5千4百両の返済の代わりとして20年間の契約で請け負ったものである。

 こうして木材商である飛騨屋は不慣れな場所経営に乗り出すのだが、20年という限られた期間内に、松前藩に貸し付けた金額を場所経営の中から回収しなければならない無理が、アイヌの酷使につながり、寛政元年(1789年)のクナシ・メナシの戦いというアイヌ民族最後のほう起といわれる争いを引き起こした。

 寛政元年5月7日、クナシリ(国後)のアイヌが運上屋を襲い、13日には対岸のメナシ(根室地方)に渡り同地のアイヌと連合して和人71人を殺害した。戦いの起こる前に、同地にはクナシリ運上屋に来た和人が、アイヌを毒殺しようとしているとの噂が流れていた。そして、運上屋で飯や酒をもらったアイヌの不審な死が続いた。

こうしたことが酷使され続けたアイヌの心に火をつけ、ほう起の直接的原因になったとみられる。戦いの中核となった厚岸から国後にかけての地方で暮らすアイヌは「西の蝦夷は従順なり、東の蝦夷は剛強なり」といわれたように極めて独立性の高い集団であり、国後の場所請負商人となった飛騨屋の勢力を一時追い払うほどであった。彼らの高い独立性を保証する経済的な基盤として、国後とその背後の千島列島やカムチャッカ半島があったといわれる。ところが1780年前後から択捉島からカムチャッカ半島にかけてロシア人が進出し、経済基盤を大きく狭められたクナシリ・メナシのアイヌは、和人の経済力に屈服せざるをえなくなったことも、戦いの遠因としてあげられている。

 国後アイヌの長ツキノエと共に、争いを収めることに中心的な役割を果たしたのが、厚岸アイヌの長イコトイである。イコトイらは松前藩が派遣した鎮圧隊と戦闘になる前に、蜂起に関係したアイヌを投降させた。結果として和人を殺した罪で、アイヌ37人が処刑され、その首は松前の立石野でさらし首となった。そして争いの原因を作った飛騨屋は場所経営の権利を取り上げられた。

 寛政7年(1796年)、イコトイは松前藩に反抗し、郎党を引き連れて択捉島に渡るという事件を起こしている。寛政10年(1799年)に幕府の直轄地となっていた厚岸に戻ってきたが、幕府からなんの処分もなかった。幕府にしてもイコトイの影響力を無視できなかったのであろう。イコトイと共に調査を行った最上徳内は『北海道誌』の中で「英気衆を超え、衆夷之を畏る。勇にして且つ智ありと謂うべし(一部抜粋)」と評している。

転載元: 北海道にまた行きたいな


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