フィリピンの歴史
フィリピンの歴史先史時代(以前-900)古代 (900-1521) 植民地時代 (1565-1946)現代 (1946-現在)
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ネグリト渡来 | |
トンド | |
マジャ・アス | |
マニラ | |
バトゥアン | |
セブ | |
マギンダナオ王国 | |
スールー王国 | |
スペイン領東インド | |
フィリピンのキャプテンの地位全般 (1565-1898) | |
フィリピン独立革命 (1896-1898) | |
カティプナン | |
フィリピン第一共和国 | |
米比戦争 | |
フィリピン自治領 | |
日本占領下 (1942–1944) | |
フィリピン第二共和国 | |
第三共和国 (1946–1965) | |
マルコス政権 (1965–1986) | |
第五共和国 (1986–現在) | |
フィリピン ポータル |
フィリピンの歴史(フィリピンのれきし)では、フィリピン共和国の歴史を述べる。フィリピン史は先スペイン期、スペイン植民地時代(1565年-1898年)、アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)、独立以後の時代(1946年-現在)に大別される。
先史時代
カヤオ人
詳細は「カヤオ人」を参照
ネグリト渡来
詳細は「ネグリト」を参照
また、リサール州のビナンゴナンでは紀元前3000年前のアンゴノ・ペトログリフが見つかった。これらの遺物を残したのはネグリト人やオーストロネシア人よりも前にフィリピンに住んでいた人によるものと考える人もいる[4]。
Petroglyphs on a rock wall, Rizal, Philippines | |
これらの住民との関連性は不明だが、これら住民を除けばフィリピンの初期の住民はネグリト人と考えられている。ネグリト人もいつから住んでいたかは不明である[5]。2万年前ぐらいと考える人もいる[6]:31。ネグリト人は従来オーストラロイドと考えられていたが、遺伝子研究によりオーストラロイドの要素を含む新モンゴロイドであるとする説もある[7]:15。
オーストロネシア人の拡大
詳細は「オーストロネシア人の拡大」を参照
それに続いてオーストロネシア語族の支族マレー・ポリネシア語派が紀元前4000年頃に到来した[8][9]。当初はネグリト人は沿岸に住んでいたが、原始マレー系住民に追われて山岳地帯に住むようになった。原始マレー人は製鉄と灌漑の技術を持っていた[6]:31。
紀元前2000年~前1500年には古マレー人が水田農耕を持って移住したとされる。ルソン島カガヤン渓谷ソラナ東遺跡からイネが出土している。
紀元前500年から13世紀にかけて新マレー人が移住を続けた。
インド文化の到来
西暦300年から700年頃には、東南アジアの島々では海洋民族が活躍しており、インド文化圏の仏教やヒンドゥー教の影響を受けていたと見られる[10][11]。特にスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国やジャワ島のマジャパヒト王国(いずれも現インドネシア)は交易を通じて文化の発信源となっており、フィリピンにももたらされた。現代フィリピンのタガログ語にもサンスクリット語を語源とする単語が多い[6]:33。
中世
古代のフィリピンに関する情報は、東南アジア諸地方の中でも非常に少ない。これは、フィリピンがユーラシア大陸から見て遠隔地なため、フィリピンの歴史を目撃する他民族にあまり恵まれなかったという事情もある。また、フィリピンは熱帯のため、考古学的遺物が腐って残りにくかったという事情もある。そのため、歴史研究家の中には「フィリピンにはスペイン時代以前に誇るべき歴史が無い」と断定する人もいる[12]:102。
ルソン島
トンド王国(呂宋国)
詳細は「トンド王国(呂宋国)」を参照
ただし、この時代の様子を伺う資料が全く無いわけではない。1990年、ルソン島のバエ湖で、シャカ暦822年(西暦900年)の日付が入ったラグナ銅版碑文と呼ばれる金属板が見つかった。これは早期カウィ文字に属する文字(バイバインと同じアブギダ)で書かれた一種の裁判記録であり、この時代にフィリピンにある程度の文明社会があったことを証明するのに十分なものだった。ただし、出自があまり明確ではなく、真贋は確定していない。[3]:7[7]:59。
トンド王国は、中国・東南アジア・インド・アラブとの中継貿易で栄えた海洋国家である。中国の記録には、「呂宋國」が首都を「トンド」(東都)に置くという記述があり[13]、モンゴル帝国に敗れた南宋の残党[14]が海を渡り建国したという伝承が残っている。
Kingdom of Namayan
詳細は「Kingdom of Namayan」を参照
ミンドロ島
摩逸
詳細は「摩逸」を参照
代の史書『文献通考』によると、982年にフィリピンと思われる摩逸国の商人が交易品を積んで広州を訪れている[15]。また、1225年の著書『諸蕃志』では、この時代のフィリピン(麻逸)の人は木綿の布で体全体または下部を隠しており、青銅の神像を草原に置いており、中国やアラブ諸国とバーター貿易していると解説されている[3]:9。フィリピンの言語には中国語由来と見られる経済用語も多い[6]:33。14世紀の島夷誌略にもマニラを意味する麻里の地名が見られる[6]:241。
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天皇弥栄
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ビサヤ
Confederation of Madya-as
詳細は「Confederation of Madya-as」を参照
ミンダナオ島
蒲端國(ブトゥアン王国)
詳細は「ブトゥアン王国」を参照
ミンダナオ島北東部のアグサン川流域のブトゥアンにあった中継貿易で栄えた海洋国家で、10世紀ごろにはすでに、占城(ベトナム南部)や馬来(ヌサンタラ、インドネシア)などとの交易を行っていた。11世紀までにブトゥアンはフィリピン諸島の交易・商業の中心となっていた。
1521年にフェルディナンド・マゼラン一行が、アグサン川河口に碇を下ろしミサを行った記録が残っている。