弥生時代にはムラがつくられ、水稲耕作が生活の基盤となってきた。坂井郡の竹田川・兵庫川などの自然堤防上には、弥生時代に居住地がつくられ、その下部の低湿地に稲田が営まれたらしい。それを推測させる土器・石器を出土した弥生時代の遺跡が発掘されている。
加戸下屋敷遺跡(三国町)からは、銅鐸の鋳型の未製品や大量の玉作関係の製品・工具また工房跡が発掘された。稲作とともに農耕祭祀が生まれて祭器として銅鐸が用いられた。越前は銅鐸分布の日本海側の北限であって、県下ではいろいろな型式の銅鐸が幕末以来七口出土している。畿内・東海地方出土の銅鐸とを比較して、それらの地域とのかかわりが考察されよう。なお弥生時代前期の文化の東限は伊勢湾と丹後半島をつなぐ線といわれてきたが、遠賀川式土器・木製品の出土した丸山河床遺跡(小浜市)の発見によって、日本海側の東限は小浜湾にまで及んでいることが察知されて現在ではこれが東限とされている。
一 はじめての福井人
西下向遺跡
遺跡は越前加賀国定公園内に所在し、米ケ脇から東尋坊に向かう荒磯遊歩道の途中の地点にある。加越台地が日本海に面した海岸段丘上に位置している。基本的な層序は、報告書によれば、1a層(表土)、1b層、2層、3層、4層、5層、6層、7層(砂礫層)に分かれている。旧石器は1b~6層に包含され、そのなかで最も集中するのは3層上部と報告されている。
写真10 西下向遺跡遠景旧石器と認定された石器類はいずれも輝石安山岩製のもので、ナイフ形石器・削器・二次加工の認められる剥片などであった。松村の採集した石器は、典型的なナイフ形石器で、それは比較的大型の長さ九・四センチメートル、幅三・七センチメートル、厚さ一・一センチメートルのものである。これまでは広く国府型ナイフ形石器とよばれていたもので、当初、その石器の剥片製作技法としては、これまで瀬戸内技法とよばれていた技法が想定されていたが、発掘資料を検討した結果、これまでの瀬戸内技法とは異なる新たな剥片製作方法であることが確認され、「三国技法」と命名された。
前述の雄島遺跡(三国町)の石器は、やはり輝石安山岩製の削器である。また同じく、馬コロバシ遺跡(三国町)の石器は、チャート製のもので、切出形石器もしくは角錐状石器としている(『資料編』一三)。木橋遺跡(永平寺町)からは、安山岩製のナイフ形石器と石核が採集されている(前掲書)。このように越前の旧石器文化はわずかながら判明し、遺跡の数も増加しつつあるが、若狭地方では、今のところ確実に旧石器文化に属する遺跡はわかっていないのが現状である。
写真11 西下向遺跡出土のナイフ形石器さて、西下向遺跡は、地層の綿密な観察や火山灰層序の検討などから、その時期は旧石器時代後期(ナイフ形石器文化)、すなわち、今から約一万数千年前の遺跡と考えられ、いわば「はじめての福井人」の明確な足跡をわたしたちに示してくれた。このはじめての福井人たちは、今日の福井県とはまったく異なった気候・地形・動物相・植物相の環境のなかで生活を営んでいたのである。
草創期の遺跡
土器編年の歴史のなかで、長らく草創期は「早期」の古い段階に位置づけられてきたが、研究の進むなかで二つの時期に区分された。この時期の遺跡として知られているのは、鳴鹿山鹿遺跡(永平寺町)と鳥浜貝塚である。とりわけ、鳴鹿山鹿遺跡はわが国の考古学史のなかでも、早くから注目され報告された遺跡として著名である。明治三十年(一八九七)大野延太郎が「大なる石鋒と精巧なる石鏃」(『東京人類学雑誌』一四〇)と題して報告している。それによれば、遺物は明治元年前後の用水工事の際に発見され、その出土状況は、石核二点の上に大なる石鋒を横たえ、その下に三〇余点の精巧なる石鏃が納められていたという。現存する遺物は、有舌尖頭器二三点、大野のいう「大なる石鋒」の大型打製石器一点、石核二点があり、そののちに付近から地元民によって局部磨製石斧一点が発見されている。とりわけ、「精巧なる石鏃」と表現された有舌尖頭器は、柳葉型を呈する華麗で精巧なつくりである(図1)。大型のものではその長さが一五センチメートル前後もあり、石材はチャートや流紋岩系、中型のものは長さ一〇センチメートル前後で、石材は安山岩系が中心で、砂岩系も少数混在するらしい。小型のものは、七センチメートル前後のものと、それより短いものがあり、ずんぐりとした形態で石材は安山岩とされる(『資料編』一三)。
図1 鳴鹿山鹿遺跡出土石器の実測図 鳴鹿山鹿遺跡の有舌尖頭器を中心とする遺物群は、全国的な研究成果から推して、草創期の古い方の時期の所産と考えられ、越前地方の縄文文化の始まりを示すものとして重要である。つまり、縄文文化が開始された段階を示す石器群であるといえよう。大型のものは旧石器文化の石槍の流れを残し、小型のものは、縄文文化の石鏃の流れを示していると思われる。なお、県内での有舌尖頭器の出土は、王山二五号墳(鯖江市)より一点、姥ケ谷古墳(三国町)より一点、岩の鼻遺跡(名田庄村)から一点ときわめて少ない。そういう意味からも鳴鹿山鹿遺跡の出土例は、珍しいものであり、廃棄されたというより、意識的に埋納されたものと思われ、一括埋納(デポ)ともいうべき性格のものといえよう。
より具体的に、草創期を物語る遺跡としては鳥浜貝塚があげられよう(以下、本節における鳥浜貝塚の叙述は、おもに森川昌和「縄文人の知恵と生活」『日本の古代』四による)。昭和四十七年の第三次調査で、最下層から多縄文系と称する土器がまとまって出土してその存在が明らかになった。さらに、石器や木製品・繊維製品、それに動物骨や種子をはじめ木などの有機質の人工・自然遺物が豊富に出土した。放射性炭素の年代測定では一〇二七〇±四五BPとされ、今から約一万年前の生活を物語る膨大な資料がその姿を現わしたのである。調査の過程で、爪形文・押圧文土器が検出され、ついに隆起線文土器とほぼ縄文文化の開始を告げる時期にさかのぼる所までたどりついた。同様な年代測定でも、前者の土器は一〇七七〇±一六〇BP、後者の土器は一一八三〇±五五BPの測定値がだされた。この両者の土器にともなって、石器類や木製品、植物性自然遺物も出土している。
さて、鳥浜貝塚で検出された県内で最も古い隆起線文土器は、土器の口縁部に二条の細い粘土紐をめぐらし、その上に上下から斜めに刻みを入れている。土器の底部は丸みをおびた平底である。土器としては、高さ約二〇センチメートルの小形のものである。一例だけであるが、この隆起線文土器にともなって、土器のほぼ全体を復元することが可能な珍しいものが出土している(写真12)。この時期の土器としては多彩な文様構成で、口縁に沿って円形の刺突文をつけ、その下に斜格子文を沈線でつけ、その下に三条のD字形の爪形文を構成している質のいい土器である。隆起線文土器は、九州から東北地方にかけて各地で発見され、その広範囲な分布に特色がある。この土器が出土する遺跡の規模は一般に小さく、遺物の量も多くない。それらのことから、隆起線文土器の段階は、居住期間が短いといわれている。
写真12 鳥浜貝塚出土の斜格子文土器しかしながら、多縄文系土器の段階になると、この様相は激変する。どうやら、三方湖畔に本格的な定住生活が開始されると思われる。それは、石器・木製品が豊富に検出されることや自然遺物のなかにヒョウタンの果皮があることなど、とにかく大量の遺物が得られている。
草創期は、先述したとおり、鳥浜貝塚の花粉分析などの成果によって福井県の当時の気候や植生が明確にわかっていることについてもふれておきたい。
約一万二〇〇〇年前の福井県は、今より冷涼で、現在の青森県ぐらいの気温といわれる。平野部でもブナの木が繁茂していたようで、鳥浜貝塚では草創期の層から、膨大な量のブナの実が出土している。ブナ・ミズナラなどの冷温帯落葉広葉樹林が拡大していたのである。ところが、今から約一万年前になると、温暖化が進みナラ・クリなどを中心とした暖温帯落葉広葉樹が拡大するようになる。この段階が、先に述べた多縄文系の段階で、木の実を豊富にもたらす森の誕生でもある。鳥浜貝塚からは、この時期の土器のほか木器・石器や動物骨なども出土している。
・旧石器遺跡未発見
・1万年程前 有舌尖頭器発見
・8千年前 (早期) 裏陰遺跡 押型文土器
・6千年前 (前期) 松ヶ崎遺跡 貝殻文土器 魚類骨(ハタ・タイ・ヒラメ)・植物種子(栃・栗・胡桃・エゴマ・瓢箪)
・前期~晩期(3千年間) 平遺跡
・中期 約5千年前 平式土器(渦巻文などで加飾された土器)
・後期 (3~4千年前) 浜詰遺跡最盛期(4千年前) 竪穴住居跡 貝塚から海産貝(蜆・蛤・牡蠣・アサリ・鮑・サザエ) 魚骨(ボラ・フグ・鯉・黒鯛・スズキ・鮪)
獣骨(イルカ・鯨・猪・鹿・狸・猿)
丹後半島の歴史■
先史・縄文時代
丹後半島にも先史時代から人々が住み着いていたことは明らかであるが、確認されている遺跡としては縄文時代の草創期からである。 舞鶴湾の小さな入り江に「浦入(うらにゅう)遺跡」がある。入り江には 5000 年前の縄文海進でできた砂嘴が沖に伸びている。砂嘴 の起点近くで、5300年前の丸木船が発見された。スギ材をくり貫いて作られており、全長8mと推測できる。近くからイカリと思われ る石と杭が見つかり、日本で最古の「船着き場」と話題を呼んだ。日本の船と港の歴史上、画期的な発見だった。 最古の丸木船という言い方は、福井県小浜市の「鳥浜貝塚」から出土した丸木舟に対してもしばしば形容される。いずれも縄文前期 と判定されただけで、「XX 年製造」と書いてあるわけではないので、いずれが最古かは断じられないが、両遺跡とも、ほぼ同じような 状況にあったことは容易に想像できる。 浦入遺跡からは、各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。またここから発 見された「快状耳飾」と呼ばれる大型の土製耳飾りは、直径6.5cmもあり我が国最古級のもので、これは中国江南の、「中国・河 姆渡(かぼと)遺跡」から出土したモノに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性も取りざたされている。
沖あいを対馬海流が流れる丹後半島では、相当早くから大陸と密接な交流があったことが考えられる。今日この地方は、近代日本の発 展からは置いて行かれたような鄙びた半島というイメージが強いが、弥生・古墳時代の遺跡を通じて見られる「鉄」と「ガラス」製品 の夥しい数、およびそれらの製造に関する先進性は、この地方が大和政権に完全に組み込まれるまで、独自の文化を持ち、大陸・半島 と相当密度の濃い交流をしていたことが考えられる。
或いは、これらの技術をもたらしたのは、対馬海流に乗って、大陸・半島から渡 来してきた人々そのものである可能性もあるのだ。峰山町「途中ヶ丘遺跡」出土の有舌尖頭器は、縄文時代の草創期に人々が狩りに明 け暮れていたことを示しているし、網野町「浜詰遺跡」から出土した動物の骨を見ると、クジラなど共同作業でしか穫れないような獲 物も多い。久美浜の「函石浜遺跡」は縄文時代の居住跡であるが、約2千年前の中国の貨幣「貨泉」が出土していて(「新」、西暦8 ~23年)、弥生時代に入ってからも大陸との交流が行われていたことを示している。