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島後(どうご)は、日本の島根県隠岐郡隠岐の島町、かつ隠岐諸島における主島。島根県庁の出先機関である隠岐支庁が置かれている。

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島後島

島後(どうご)は、日本島根県隠岐郡隠岐の島町、かつ隠岐諸島における主島。島根県庁の出先機関である隠岐支庁が置かれている。
西側の島前西ノ島中ノ島知夫里島)と対を為し、島後と呼ばれる。尚、島自体の名称として本州や九州などと同じように後ろに島と付けず単に島後である。島後島(どうごじま)と呼ばれる事は地元住民、行政機関を問わずない。



隠岐空港周辺
隠岐空港周辺


隠岐の島町(おきのしまちょう)は、島根県隠岐郡隠岐諸島島後(どうご)全域を占める。

交通

空港

道路

港湾

西郷港
定期旅客航路:隠岐汽船
  • フェリー:隠岐諸島各港と七類港境港を結ぶ
  • 超高速船:隠岐諸島各港と七類港、境港を結ぶ

バス

名所・旧跡

岩倉の乳房杉
浄土ヶ浦(じょうどがうら)は島根県隠岐諸島の島後、東部に位置する海岸。浄土ヶ浦海岸ともいう。風光明媚な景勝地で知られ、また隠岐布施海岸の名で、国の名勝にも指定されている。大山隠岐国立公園に含まれる。なお、名は一休宗純がこの地を訪れ、さながら極楽浄土のようだと謳ったということにちなんでいるという。

 島後東部に突出した崎山岬に位置し、一帯には隠岐地方随一の多島海風景が見られる。島前の国賀海岸と比較すると規模は大きくないが、小島、岩礁の密度が高い。赤褐色の流紋岩、安山岩、堆積岩が混在しているため、地肌が赤褐色であるのが特徴。小島には老が潮風に耐え、逞しく生育しており、それが多島海風景と相まってさながら山水画のような美しさを見せる。国立公園切手の題材にも採り上げられたことで、名が知られるようになった。
また、この一帯は布施海中公園にも指定されており、スキューバダイビングが盛ん。

ローソク島は、隠岐諸島を構成する島の1つとして数えられる、日本海に存在する無人島である[1]。島の面積は、0.0033km2[2][1]。この島は、鮮新世前期(約500万年前)に噴出して出来た火山岩で形成されている[3]。名前の由来は、ろうそくのような細長い岩の形状、特に夕日が先端に重なった時に灯がともっているように見えるさまから。大山隠岐国立公園の一部に指定されていて[1]奇岩として観光地となっている。
 ローソク島の存在は、隠岐諸島内では古くから知られていた。しかし、島外でも知られるようになったのは第二次世界大戦後に観光地化が進んで以降である。現在では島内で指折りの観光スポットとなっており、島で作られている藻塩炊き式のの商品名にも「ローソク島」の名が使われている。その反面、長らく隠岐を代表する景勝地として知られていた白島海岸への遊覧船の客がローソク島観光に吸収されてしまっているとの指摘もある[4]
 以前は個人観光客の依頼に基づきボランティアが案内する形態だったが、平成14年からは予約制の有料遊覧船が就航している。岩から20分ほどの距離にある重栖港と福浦港が主な遊覧船の出航地となっており、4月から10月のみ運航されている。

壇鏡の滝(だんぎょうのたき)は、隠岐諸島島後島島根県隠岐郡隠岐の島町)にある横尾山を源流とする那久川のである。
日本の滝百選に選定されているほか、滝からほど近い水源の湧水は壇鏡の滝湧水として、1985年(昭和60年)名水百選[1]に選ばれた。また、日本の秘境100選隠岐ジオパークを代表的する滝である。
 岩壁に立つ壇鏡神社の両側に落差約40mの雄滝と雌滝があり、雄滝は滝を裏側から見ることのできる「裏見の滝」となっている。
地元では、長寿の水、勝者(女神)の水、火難防止の水として名が知られており、島の行事に出場する関係者は必ずこの水で清めて行事に臨む慣習が続いている。
  1. ^名水百選(壇鏡の滝湧水) - 名水百選 - 環境省


隠岐国分寺 所在地
隠岐国分寺
島根県隠岐郡隠岐の島町池田風呂前5
隠岐国分寺(おきこくぶんじ)は、島根県隠岐郡隠岐の島町にある東寺真言宗仏教寺院聖武天皇の勅願によって建立された国分寺の1つである。山号は、禅尾山。本尊釈迦如来。境内は国の史跡
美しい景観から、隠岐島の象徴的な存在として知られる。


 寺伝によれば、天平729年 - 749年)の頃、聖武天皇の勅願により創建されたと伝わるが、創建に関わる史実は全く残っていない。また寛文1661年 - 1673年)作成の『隠州視聴合紀』には、「四天王寺、仁王門、鎮守山王二十一社などを有する」と書かれ、かなりの繁栄を誇ったと見られる。 
 南北朝時代に作成された歴史物語の『増鏡』には、元弘2年/正慶元年(1332年)に後醍醐天皇元弘の変に敗れ、隠岐島に流された際に、「海岸から少し奥に入ったところにある国分寺を行在所とした」という意味のことが書かれている。なお、後醍醐の隠岐での行在所は西ノ島町の黒木御所跡だったとする伝承もある。

 明治2年(1869年)に明治政府が発布した太政官布告神仏判然令により、廃仏毀釈が実行され、本堂三重塔が焼失した。その後、昭和25年(1950年)に本堂は再建されるも、平成19年(2007年)2月25日の出火により本堂が全焼した。
 平安時代から続く古典芸能隠岐国分寺蓮華会舞が伝承され重要無形民俗文化財に指定されている。なお、奈良時代に中国から伝わったとされる「蓮華会舞の面9面」は島根県の有形民俗文化財に指定されていたが、2007年2月25日の本堂の火災で道具一式とともに焼失し指定を解除された。

地勢

  • 面積 241.64km2
  • 周囲 約211km
  • 人口 約15,500人

沿革


 律令制下では島後の南部が隠岐国周吉郡(すきぐん)、北部が穏地郡(おちぐん)であった。南北朝時代後醍醐天皇が隠岐へ流された際、隠岐国分寺御在所にしたと伝えられる。

交通

 隠岐空港から出雲縁結び空港大阪国際空港への便が発着している。また、隠岐汽船西郷港から本土(七類港境港)と島前方面へのフェリー高速船を就航させている。
 島内の移動は、隠岐一畑交通路線バス隠岐の島町公営バスコミュニティバス)が利用可能。

主な施設・観光名所

玉若酢命神社(たまわかすみことじんじゃ)は島根県隠岐郡隠岐の島町下西にある神社である。式内社で、旧社格県社。古くは「若酢大明神」、「総社明神」と称した。
玉若酢命神社
玉若酢命神社 拝殿
拝殿

    祭神

    社伝によると、景行天皇皇子を各国に分置し、隠岐国に遣わされた大酢別命の御子が玉若酢命であると伝えられている。玉若酢命は、この島の開拓にかかわると考えられ、当社の宮司を代々勤める神主家億岐家が古代の国造を称し、玉若酢命の末裔とされる。
    『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』[1]によれば、玉若酢命は記紀には全く登場しない地方神で、その語義は明らかではないのだと言う。しかし、同書では、島内北西部にある水若酢神社と鎮座地の地理的・歴史的条件が極めて似ていることから、両社祭神に共通する「ワカス」は、この島の開拓に係わる重要な意味を持つ語であったと推測されている。

    歴史[編集]

    創建の年代は不詳である。寛文7年(1667年)の成立と言われる『隠州視聴合紀 巻之二』の下西村の条には「(当社の)社司を国造と云ふ。渠(かれ)が言に曰く。天武天皇の勅命ありて之を奉ず。」と記されている。
    日本三代実録貞観13年(871年)閏8月29日の条に正六位上蕤若酢神の神階従五位下へ陞叙すると言う記事があるが、『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』[1]によれば「蕤」は花が垂れたる様、または冠・旗などに付ける垂れ飾りの意なので、これをタマと訓み、蕤若酢神を当社のこととする意見が強いのだという。上記の『日本三代実録』における記事が当社のことであるなら、これが史料における初見となる。
    延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では周吉郡4座の1つとして小社に列格された。
    当社は隠岐諸島島後(どうご)の旧西郷町の西郊、甲尾山麓の甲野原に鎮座するが、甲野原は「国府の原」の転化であり、当地は古代から隠岐国の中心地であった。国府の近くにあった当社は隠岐国総社とされたが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]によれば、当社が何時どのような過程を経て隠岐国総社へ転化されたかについては、平安時代末期の中世的国衙体制の成立にともなうであろうと推定される以外、史料が欠けていて明らかではないのだと言う。『神道大系 神社編1 総記(上)』[3]解題では、同島に鎮座する有木神社に合祀されている総神社が隠岐国総社であったが、いつしか当社と混同したとの説を紹介している。
    吾妻鏡建久4年(1193年12月20日の条では、隠岐国地頭として佐々木定綱が任じられているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]によれば、以後、国府地域は佐々木氏の直轄領とされ、強力な国衙在庁による支配が展開されたのだと言う。その後、国府地域は西郷として再編成され、国衙在庁官人の系譜を引くと推定される公文が西郷地域の支配に当たったのだと述べている。
    正和元年(1312年)8月の「玉若酢神社棟札写」[4]から、この時の造営は西郷公文が聖教泉坊と語らい、島前を含む多くの人々へ勧請活動を行って実現したものであることがわかるが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]では、これが総社が国衙権力機構の行政機関的なあり方から、直接地域社会に基盤を置く独自の宗教施設へ大きく転換する契機となったのではないかと考察されている。
    貞治7年(1368年)4月15日の「左衛門尉義親奉書写」[4]では、藤原朝臣義介が「隠岐国惣国造職」に任じられているが、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]では、「惣国造職」とは惣社国造職のことを指し、総社の宗教的権威向上と再編成を推進するため当社神官を新しく国造と呼ぶこととし、在庁官人と推定される藤原朝臣義介をその任に当てたと考察している。
    当社棟札写や『隠岐家古文書抄録』の内容から、応安7年(1374年)以後、当社の造営は絶えず守護もしくは守護代によって行われたことがわかる。この体制は戦国時代末期まで続いた。
    弘治3年(1557年)7月4日の「惣社五月五日祭礼立用注文案」[4]の記述から、東郷・飯田・犬来の3地域の公文が連盟で当社へ納めるべき費用の内容と数量を確認し、御霊会がこれら周辺村落の寄進で行われていたことがわかる。これに関し『中世諸国一宮制の基礎的研究』[2]では、当社が守護・戦国大名権力との関係とは別に、直接その周辺地域の村落に基盤を置く宗教施設としての性格を強めてきたことを意味するもので、そうした新しい情勢への対応の故

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